ダビデの罪を担ったのは 2022年7月20日(水曜 聖書と祈りの会)
問い合わせ
ダビデの罪を担ったのは
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
サムエル記下 12章13節~23節
聖書の言葉
12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。
12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。
12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
12:18 七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」
12:19 ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」
12:20 ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。
12:21 家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」
12:22 彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。
12:23 だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」サムエル記下 12章13節~23節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝は、『サムエル記下』の第12章13節から23節より、「ダビデの罪を担ったのは」という題でお話しします。
先週、私たちは、預言者ナタンを通してダビデに語られた、主の叱責の言葉を御一緒に学びました。主は、ナタンを通して、「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ」と、ダビデを糾弾(きゅうだん)されました(12:9)。今朝の御言葉はその続きであります。
ダビデは、ナタンにこう言います。「わたしは主に罪を犯した」。ダビデは、自分が主の言葉を侮り、主の目に悪と映ることを行ったことを認めて、告白しました。そのダビデに、ナタンはこう言います。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。ダビデの罪、ウリヤを剣にかけて殺し、その妻を自分の妻にするという罪は、死刑に値する罪でした(出エジプト21:12「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」参照)。しかし、主がダビデの罪を取り除かれたゆえに、ダビデは死の罰を免れることができたのです。けれども、何のお咎めも無しということではありません。ナタンは、続けてダビデにこう言います。「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」。ダビデは死の罰を免れましたが、そのダビデに代わって、生まれて来る子供が死ぬことになると言うのです。こう告げてナタンは自分の家に帰って行きました。
主が、ウリヤの妻から産まれたダビデの子を打たれたので、その子は弱っていきました。ダビデは、その子のために、神様に願い求め、断食しました。ダビデは、断食して、自分の子供が死なないように、神様に願い求めたのです。また、ダビデは、引きこもり、地面に横たわって夜を過ごしました。王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしました。しかし、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしませんでした。
七日目にその子は死にました。家臣たちは、そのことをダビデに告げることを恐れて、こう話し合いました。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか」。家臣たちは、ダビデが自殺をするのではないか、自暴自棄な振る舞いをするのではないかと恐れました。しかし、ダビデは、自分の子供が亡くなったと知ると、地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝しました。そして、王宮に戻ると、食べ物を用意させ、食事をしたのです。このダビデの振る舞いは、家臣たちの目に不思議に見えました。それで、家臣たちは、ダビデにこう尋ねます。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます」。家臣たちの考えによれば、普通は、子供が生きている間は食事をし、子供が死んでから断食して泣くものである。しかし、ダビデは、子供が生きているときに断食して泣き、子供が亡くなると起き上がって食事をする。それはおかしなことだと言うのです。そのような家臣たちにダビデはこう言います。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところへ行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない」。ダビデは、子供が弱っていくのは、自分の罪のためであることを知っていました。ですから、ダビデは、断食し、地面に横たわって、自分がどれほど罪を悲しんでいるかを、表したのです。そして、憐れみ深い主が、子供を生かしてくださることを願い求めたのです。ダビデの苦行は、子が弱っていることを悲しむ苦行ではなくて、主の憐れみに訴え、子供を生かしていただくための苦行でありました(苦行についての家臣とダビデの理解は異なっている)。それゆえ、ダビデは、子供が亡くなったことを知ると、起き上がり、身を洗って、衣を替え、主の家に行って礼拝したのです。ダビデが主の家に行って礼拝したことは、ダビデの罪の罰として子供が死んだことにより、神様とダビデとの関係が回復したことを物語っています。ダビデは、自分の罪のために、自分の子供が死んだこと。そのようにして、主がダビデの罪を取り除いてくださったことを受けいれたのです。そして、死んだ子供のために断食するようなことはせず、王宮に戻って食事をしたのです。このようなダビデの振る舞いの源には、「断食したところで、死んでしまった者を呼び戻せない」という合理的な考え方があります。ダビデがいずれは子供のいる死者の世界へ行くとしても、死んでしまった子供がダビデのもとに帰ってくることはないのです。主の憐れみを求めて断食したダビデは、もはや断食する理由を持たないのです。ダビデは、切り替えの早い男であります。過去にとらわれることなく、今を生きる男であるのです。
今朝の御言葉には、復活の希望は語られていません。今朝の御言葉で語られていることは、死は絶対的な力をもっているということです。死んだら終わりであって、こちらに呼び戻すことはできない。そのことを認めて、生かされている今を積極的に生きるということです。このようなダビデの姿は、私たちが見倣うべき姿でもあります。私たちは、過去に犯した罪に、いつまでも捕らわれてしまうことがあります。しかし、その罪は、神の御子イエス・キリストが担ってくださった罪であるのです。それゆえ、私たちは罪赦された者として、晴れやかな顔で神様を礼拝できるのです。過去の罪に捕らわれることなく、今を生きることができるのです。