力の限り踊ったダビデ 2022年4月27日(水曜 聖書と祈りの会)
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力の限り踊ったダビデ
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
サムエル記下 6章12節~23節
聖書の言葉
6:12 神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。
6:13 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。
6:14 主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。
6:15 ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
6:16 主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。
6:17 人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。
6:18 焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、
6:19 兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。
6:20 ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」
6:21 ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。
6:22 わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」
6:23 サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。サムエル記下 6章12節~23節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記下』の第6章12節から23節より、「力の限り踊ったダビデ」という題でお話しします。
前回、私たちは、主がウザに対して怒りを発し、その過失のゆえに打たれたことを学びました。ダビデは、主を恐れ、「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と言いました。そして、主の箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせたのです。その三か月後、神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられると、ダビデ王に告げる者がありました。それで、ダビデは、直ちに出かけて、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町エルサレムへと運び上げることにしたのです。前回は、ペリシテ人のように、牛に引かせた新しい車に載せて運びましたが、今回は、神様の掟に従って、円環に竿を通して、肩に担いで運びました。主の箱が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげました。これは、最初の一度限りのことであったと思います。ダビデは、神の箱をエルサレムへと運び上げるにあたって、感謝と願いをささげたのです(神の箱をエルサレムへと運び上げることのできる感謝とそのことが無事に行なわれるようにという願い)。レビ人たちの肩に担われて進む主の箱の前で、ダビデは力の限り踊りました。ダビデは、神の箱が単なる象徴ではなく、実際に、神の箱の上に、聖なる神様が臨在されることを知ったゆえに、力の限り踊ったのです。ダビデは、麻のエフェドを着ていました。麻のエフォドは、祭司が身につける衣服です(出エジプト28:4参照)。ダビデは、祭司が着るエフォドを着ていたのです。それだけではなく、ダビデは、今朝の御言葉で、祭司として振る舞っています。17節には、「ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた」と記されています。また、18節には、「ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し」たと記されています。今朝の御言葉で、ダビデは、王であり、祭司である、メルキゼデクのような人物として記されています。メルキゼデクについては、『創世記』の第14章に記されていました。メルキゼデクは「いと高き神の祭司であり、サレムの王」でありました。「サレムの王」とは、「エルサレムの王」という意味です。エルサレムの王であったメルキゼデクが祭司であったように、エルサレムの王であるダビデは祭司として振る舞うのです。『ヘブライ人への手紙』は、イエス・キリストは、メルキゼデクのような祭司であると記しています(ヘブライ7章参照)。そのイエス様に先立って、ダビデ王は、メルキゼデクのような祭司として振る舞うのです。
ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げました。主の箱がダビデの町についたとき、ダビデは本当に嬉しかったと思います。ダビデは、主の御前で跳ね踊りました。サウルの娘ミカルは、窓からそのダビデの姿を見下ろして、心の中でさげすみました。
ダビデは、主の箱を天幕の中に安置すると、主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました。そして、万軍の主の御名によって民を祝福したのです。また、ダビデは、すべての人に、輪形のパンとなつめやしの菓子と干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えました。そのようにして、すべての人が、主の箱を運び上げた喜びにあずかったのです。
ダビデが家の者に祝福を与えようと戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを出迎えて、こう言いました。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男がはずかしげもなく裸になるように」。これは明らかに皮肉であります。ミカルは、王は威厳をもって、民衆と距離をとるべきであると考えていたようです。しかし、ダビデは、民衆と一緒になって、民衆の一人であるかのように、裸同然になって、踊ったのでした(もちろん、上半身だけ)。そのようなダビデを、ミカルは「からっぽの男のようだ」と言うのです。ダビデはミカルに、こう言います。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう」。ミカルは、「ダビデが家臣のはしための前で裸になった」と非難しました。しかし、ダビデは、エフェドが脱げてしまうほどに跳ね踊ったのは、自分を選んでくださった主の御前においてであると言うのです。また、ダビデは、自分が民衆と一緒になって踊ったのは、へりくだりによるものであると語ります。サウルの娘であるミカルにとって、自分を低くすることは、王としてふさわしくないことでした。しかし、ダビデは、自分の目にも低い者になろうと言うのです。そして、そのような自分を家臣のはしためたちは敬ってくれるであろうと言うのです。なぜなら、ダビデの家臣のはしためたちも、ダビデを選びイスラエルの指導者とした主を喜ぶ者であるからです。なぜ、ミカルは、主の御前に跳ね踊るダビデの姿を見て、微笑ましいと思わずに、蔑んだのでしょうか?それは、ミカルが自分のアイデンティティー(自己同一性)をダビデの妻であることではなく、サウルの娘であることに置いていたからです。それゆえ、ミカルは自分の父サウルや、その家の誰でもなく、ダビデを選んだ主の箱が運び込まれたことを喜ぶことができなかったのです。
23節に、こう記されています。「サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた」。この御言葉には、いくつかの解釈があります。一つは、ダビデを非難するミカルの胎を主が閉ざされた。ミカルに対する罰として、主がミカルを不妊の女にしたとする解釈です。また、もう一つは、ダビデとミカルの関係は冷え切っていたため、ミカルは子も持つことがなかったとする解釈です。いずれにしても、ダビデの家系にサウルの血が入ることはなかったのです。もし、ダビデがサウルの娘であるミカルとの間に男の子をもうけたとすれば、その子がダビデの王位を継いだはずです。ミカルは、ダビデの最初の妻であり、サウル王の娘でありました。しかし、ミカルは子も持つことがありませんでしたので、ダビデの息子たちは王位継承者争いを繰り広げることになるのです。