ダビデの哀悼の歌 2022年2月02日(水曜 聖書と祈りの会)
問い合わせ
ダビデの哀悼の歌
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
サムエル記下 1章17節~27節
聖書の言葉
1:17 ダビデはサウルとその子ヨナタンを悼む歌を詠み、
1:18 「弓」と題して、ユダの人々に教えるように命じた。この詩は『ヤシャルの書』に収められている。
1:19 イスラエルよ、「麗しき者」は/お前の高い丘の上で刺し殺された。ああ、勇士らは倒れた。
1:20 ガトに告げるな/アシュケロンの街々にこれを知らせるな/ペリシテの娘らが喜び祝い/割礼なき者の娘らが喜び勇むことのないように。
1:21 ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ/お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな。勇士らの盾がそこに見捨てられ/サウルの盾が油も塗られずに見捨てられている。
1:22 刺し殺した者たちの血/勇士らの脂をなめずには/ヨナタンの弓は決して退かず/サウルの剣がむなしく納められることもなかった。
1:23 サウルとヨナタン、愛され喜ばれた二人/鷲よりも速く、獅子よりも雄々しかった。命ある時も死に臨んでも/二人が離れることはなかった。
1:24 泣け、イスラエルの娘らよ、サウルのために。紅の衣をお前たちに着せ/お前たちの衣の上に/金の飾りをおいたサウルのために。
1:25 ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはイスラエルの高い丘で刺し殺された。
1:26 あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。
1:27 ああ、勇士らは倒れた。戦いの器は失われた。サムエル記下 1章17節~27節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝の御言葉には、ダビデがサウルとその子ヨナタンの死を悲しむ、哀悼の歌が記されています。ダビデは、その歌を「弓」と題して、ユダの人々に教えるように命じました。22節に、「ヨナタンの弓は決して退かず」とありますが、ここから「弓」という題が付けられたのだと思います。ダビデにとって、ヨナタンの弓は、思い出深いものでありました(サムエル上20章参照)。「この詩は、『ヤシャルの書』に収められている」とありますが、『ヤシャルの書』は、古代の詩集のようです。『ヨシュア記』の第10章に、主は、イスラエルがアモリ人と戦っている間、太陽の動きを止められたことが記されています。そのことも、『ヤシェルの書』に記されているとあります(ヨシュア10:13参照)。ちなみに、「ヤシェル」とは、「真っ直ぐな者」「正しい者」という意味であります。
前置きはこのぐらいにして、ダビデの哀悼の歌を読み進めていきたいと思います。
19節から21節までをお読みします。
イスラエルよ、「麗しき者」は/お前の高い丘の上で刺し殺された。ああ、勇士らは倒れた。ガトに告げるな。アシュケロンの街々にこれを知らせるな。ペリシテの娘らが喜び祝い/割礼なき者の娘らが喜び勇むことのないように。ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ/お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな。勇士らの盾が油も塗られずに見捨てられている。
19節の「麗しき者」は、サウル王を指しています。『サムエル記上』の第9章2節に、サウルは「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった」と記されていたように、サウルは麗しき者であったのです。イスラエルの高い丘とは、ギルボア山のことでしょう。イスラエルはペリシテ軍と戦い、ギルボア山で、サウルは刺し殺され、多くの勇士らが倒れたのです。「ああ、勇士らは倒れた」。この言葉を、ダビデは、三度記しています。19節に、「ああ、勇士らは倒れた」と記されています。また、25節に、「ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた」と記されています。さらに、27節に「ああ、勇士らは倒れた」と記されています。この言葉がリフレインのように、三度も記されているのです。ダビデは、サウルとその子ヨナタンの死だけではなく、イスラエルの兵士たちの死をも嘆き悲しんでいるのです。この哀悼の歌は、父親や息子たちを兵士として送り出した人々の哀悼の歌であるのです。それゆえ、ダビデは、この歌をユダの人々に教えるようにと命じたのです。そのようにして、ダビデは、イスラエルの人々と悲しみを共有したのです。
ダビデは、その悲しい知らせを、ペリシテ人の町であるガトに告げるな。アシュケロンの街々にこれを知らせるな、と記します。サウル王とイスラエルの勇士らの死は、ペリシテにとって勝利を伝える良い知らせであるからです。その良い知らせを聞いたペリシテの娘らが喜び祝い、無割礼の、神の民ではない者の娘らが喜び勇むことのないように、とダビデは言うのです。『サムエル記上』の第18章に、サウル王とダビデが、ペリシテ軍を討って帰って来ると、イスラエルの娘たちが、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三弦金を奏で、歌い踊りながらサウル王とダビデを迎えたことが記されています。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と女たちは喜び歌いました。そのような喜びに、ペリシテの娘たちがあずかることがないようにと、ダビデは言うのです。
21節で、ダビデは、戦場となったギルボアの山とイズレエルの野を呪っています。「いけにえを求めた野よ」とあるように、イスラエル軍が陣を敷いたイズレエルの野で、多くのイスラエル人は死にました。ギルボアの山々とイズレエルの野で、ペリシテ軍によって、多くのイスラエル人が殺さたのです。それゆえ、ダビデは、お前たちのうえには露も結ぶな、雨も降るなと言うのです。イズレエルの平野は、穀物が豊かに実る地帯でありましたが、ダビデは、不毛の地となるようにと呪うのです。それほどまでに、そこで、忌まわしいことが起こったのです。
そこには、イスラエルの勇士らの盾が見捨てられ、サウルの盾も油を塗らずに見捨てられている、とダビデは歌います。当時の盾は、皮で覆われており、長く使うために、また敵の矢がすべるように、油を塗りました(イザヤ21:5参照)。それにしても、「サウルの盾が油も塗られずに見捨てられている」という言葉は意味深長でありますね。なぜなら、サウルは主から油を塗られた者であったからです。ダビデは、サウルの盾について語ることにより、主に油を注がれたサウルその人が見捨てられてしまったことを言い表したのです。
22節から27節までをお読みします。
刺し殺した者の血/勇士らの脂をなめずには/ヨナタンの弓は決して退かず/サウルの剣がむなしく納められることもなかった。サウルとヨナタン、愛され喜ばれた二人/鷲よりも速く、獅子よりも雄々しかった。命ある時も死に臨んでも/二人が離れることはなかった。泣け、イスラエルの娘らよ、サウルのために。紅の衣をお前たちに着せ/お前たちの衣の上に/金の飾りを置いたサウルのために。ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはイスラエルの丘で刺し殺された。あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。ああ、勇士らは倒れた。戦いの器は失われた。
ダビデは、サウルとヨナタンの最盛期の頃を思い起こして、二人のことを記しています。サウルとヨナタンの活躍によって、イスラエルはペリシテ軍に勝利しました(サムエル上13、14章参照)。サウルとヨナタンは、主の戦いを雄々しく戦ったのです。ある研究者は、ダビデは、サウルとヨナタンのことを理想化していると言っています。確かにそう言えるかも知れませんが、私たちは、亡くなった人を悼むときに、その人が一番輝いていた頃のことを思い起こすのではないでしょうか。私たちも、主にある兄弟姉妹を天に送ってきましたが、やはり、その兄弟姉妹のことを思い出すとき、元気な姿で礼拝を守っていた姿を思い起こすと思うのです(病院のベッドで寝たきりになっている姿ではなく)。ダビデも同じであったと思います。ダビデがサウルとヨナタンのことを思い起こすとき、それはイスラエルの王と王子として、主の戦いを戦い、勝利を収めた輝かしい姿であったのです。
サウルとヨナタンは、イスラエルの人々から愛された王であり、王子でありました。彼らは、鷲よりも速く、獅子よりも雄々しくイスラエルのために戦ったのです。ヨナタンは、サウルがダビデを追跡するときは行動を共にしませんでした。しかし、異邦人と戦うときは、ヨナタンはサウルと共に戦ったのです。ギルボア山で、同じ日に、二人が死んだことは、二人が離れることなく、イスラエルのために戦ってきたことを物語っているのです。
ダビデは、イスラエルの娘らに、「サウルのために泣け」と呼びかけます。サウルがイスラエルの娘たちに、豪華な戦利品を与えたことを思い起こさせて、サウルの死を悲しむようにと呼びかけるのです。王であるサウルの働きによって、イスラエルの娘たちの生活は守られていたのです。
25節と26節で、ダビデは、ヨナタンの死を嘆き悲しみます。ダビデは、ヨナタンを兄弟ヨナタンと親しく呼び、自分にとってヨナタンが喜びであり、自分に対するヨナタンの愛が女の愛にまさる驚くべき愛であったと語ります。ヨナタンは、ダビデを自分のように愛しました(サムエル上18:1、19:1、20:17参照)。ヨナタンは、ダビデと契約を結び、サウルがダビデを殺そうとした時もダビデを助けました(サムエル上20章参照)。ダビデがジフの荒れ野のホレシャに留まっていたとき、ヨナタンはダビデのもとに来て、神に頼るように励ましました(サムエル上23:15~18参照)。ダビデにとって、ヨナタンは主の御前に契約を結んだ親友でした。また、ダビデはサウルの娘ミカルの夫でありましたから、文字通り兄弟でもあったのです(サムエル上18:27参照)。
イスラエルの勇士たちは倒れ、今や、戦いの器であるサウルとその子ヨナタンは失われました。ここに、イスラエルの一つの時代が幕を閉じたのです。イスラエルの新しい歴史は、ダビデによって切り開かれます。しかし、その前になすべきことがある。それが、サウルとその息子ヨナタンとイスラエルの兵士たちの死を悲しみ悼むことであったのです(いわゆるグリーフワーク、悲しみの仕事)。