サウルの死を知ったダビデ 2022年1月26日(水曜 聖書と祈りの会)
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サウルの死を知ったダビデ
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記下 1章1節~16節
聖書の言葉
1:1 サウルが死んだ後のことである。ダビデはアマレク人を討ってツィクラグに帰り、二日過ごした。
1:2 三日目に、サウルの陣営から一人の男がたどりついた。衣服は裂け、頭に土をかぶっていた。男はダビデの前に出ると、地にひれ伏して礼をした。
1:3 ダビデは尋ねた。「どこから来たのだ。」「イスラエルの陣営から逃れて参りました」と彼は答えた。
1:4 「状況はどうか。話してくれ」とダビデは彼に言った。彼は言った。「兵士は戦場から逃げ去り、多くの兵士が倒れて死にました。サウル王と王子のヨナタンも亡くなられました。」
1:5 ダビデは知らせをもたらしたこの若者に尋ねた。「二人の死をどうして知ったのか。」
1:6 この若者は答えた。「わたしはたまたまギルボア山におりました。そのとき、サウル王は槍にもたれかかっておられましたが、戦車と騎兵が王に迫っていました。
1:7 王は振り返ってわたしを御覧になり、お呼びになりました。『はい』とお答えすると、
1:8 『お前は何者だ』とお尋ねになり、『アマレクの者です』とお答えすると、
1:9 『そばに来て、とどめを刺してくれ。痙攣が起こったが死にきれない』と言われました。
1:10 そこでおそばに行って、とどめを刺しました。倒れてしまわれ、もはや生き延びることはできまいと思ったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕につけておられた腕輪を取って、御主人様に持って参りました。これでございます。」
1:11 ダビデは自分の衣をつかんで引き裂いた。共にいた者は皆それに倣った。
1:12 彼らは、剣に倒れたサウルとその子ヨナタン、そして主の民とイスラエルの家を悼んで泣き、夕暮れまで断食した。
1:13 ダビデは、知らせをもたらした若者に尋ねた。「お前はどこの出身か。」「わたしは寄留のアマレク人の子です」と彼は答えた。
1:14 ダビデは彼に言った。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か。」
1:15 ダビデは従者の一人を呼び、「近寄って、この者を討て」と命じた。従者は彼を打ち殺した。
1:16 ダビデは言った。「お前の流した血はお前の頭に返る。お前自身の口が、『わたしは主が油を注がれた方を殺した』と証言したのだから。」サムエル記下 1章1節~16節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記下』の第1章1節から16節より、「サウルの死を知ったダビデ」という題でお話しします。
ダビデが、アマレク人の略奪隊を追跡して勝利を収めたことは、『サムエル記上』の第30章に記されていました。また、サウルがギルボア山でペリシテ軍と戦い、自害したことは、『サムエル記上』の第31章に記されていました。今朝の御言葉はその続きであります。
ダビデがアマレク人を討って、ツィクラグに帰ってから三日目に、サウルの陣営から一人の男が来ました。彼の衣服は裂け、頭に土をかぶっていました。これは悲しみと嘆きの表現であります(サムエル上4:12参照)。男はダビデの前に出ると、地にひれ伏して礼をしました。ダビデは「どこから来たのだ」と尋ねます。男は「イスラエルの陣営から逃れて参りました」と答えました。ダビデは、イスラエルとペリシテ軍との戦いがどのようになっているのか気になっていたのでしょう。ダビデが「状況はどうか。話してくれ」と言うと、男はこう答えました。「兵士は戦場から逃げ去り、多くの兵士が倒れて死にました。サウル王とヨナタンも亡くなられました」。ここで、ダビデは初めて、サウルとヨナタンが死んだことを知ります。しかし、ダビデは、すぐには信じませんでした。ダビデは、若者に「二人の死をどうして知ったのか」と尋ねます。若者はこう答えました。「わたしはたまたまギルボア山におりました。そのとき、サウル王は槍にもたれかかっておられましたが、戦車と騎兵が王に迫っていました。王は振り返ってわたしを御覧になり、お呼びになりました。『はい』とお答えすると、『お前は何者だ』とお尋ねになり、『アマレクの者です』とお答えすると、『そばに来て、とどめを刺してくれ。痙攣が起こったが死にきれない』と言われました。そこでおそばに行って、とどめを刺しました。倒れてしまわれ、もはや生き延びることはできまいと思ったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕につけておられた腕輪を取って、御主人様に持って参りました。これでございます」。この若者の話は、『サムエル記上』の第31章の記述と、少し違います。第31章3節から5節にはこう記されていました。
サウルに対する攻撃も激しくなり、射手たちがサウルを見つけ、サウルは彼らによって深手を負った。サウルは彼の武器を持つ従卒に命じた。「お前の剣を抜き、わたしを刺し殺してくれ。あの無割礼の者どもに襲われて刺し殺され、なぶりものにされたくない。」だが、従卒は非常に恐れ、そうすることができなかったので、サウルは剣を取り、その上に倒れ伏した。従卒はサウルが死んだのを見ると、自分も剣の上に倒れ伏してサウルと共に死んだ。
しかし、若者の話によれば、サウルは死にきれずにおり、若者であるアマレク人の手によって死ぬのです。これには、いくつかの解釈があります。一つは、若者の話は、作り話であるという解釈です。若者は、ダビデの敵であるサウルにとどめを刺したのは自分であるという話を創作して、ダビデから褒美をいただこうしたと解釈するのです。
もう一つの解釈は、第31章のお話しと若者のお話しを組み合わせる解釈です。第31章にあるように、サウルは自害するのですが、死にきれずにおり、アマレク人の若者がとどめを刺したという解釈です。私は、若者がサウルの王冠と腕輪を持って来たことから、この話は作り話ではないと思います。ともかく、若者は、サウルの王冠と腕輪を見せることによって、サウルが確かに死んだことを証明したのです。
ダビデはサウルによって、これまでさんざん苦しめられてきました。若者もそのことを知っていたので、ダビデにサウルの死を知らせに来たのです。若者は、悲しみと嘆きの表現として、衣を裂き、頭に土をかぶっていました。しかし、自分がもたらす知らせが、ダビデにとっては、敵であるサウルの死を知らせる、喜びの知らせであると考えていました(サムエル下4:10参照)。ですから、彼は、サウルにとどめを刺したのは他ならない自分であることを語ったわけです。また、若者は、サウルに代わってダビデが王になると考えていました。ですから、彼は、ダビデを「私の主人」と呼び、サウルの王冠と腕輪をダビデに差し出すのです。若者は、ダビデがサウルの死の知らせを聞いて喜び、自分に対して褒美を与えてくれると期待していたのです。
しかし、そうはなりませんでした。ダビデは、若者からサウルの死の知らせを聞き、その証拠の品である王冠と腕輪を見て、自分の衣をつかんで引き裂いたのです。また、共にいた者たちもそれにならいました。彼らは剣に倒れたサウルとその子ヨナタン、そして主の民とイスラエルの家の死を嘆き、悲しみ、夕暮れまで断食したのです。ダビデとその兵士たちは、ペリシテ人の土地ツィクラグにおりましたが、彼らはイスラエルの一員であったのです。
ダビデは、知らせをもたらした若者にこう尋ねます。「お前はどこの出身か」。若者は、「わたしは寄留のアマレク人の子です」と答えました。イスラエルの中には、寄留する外国人がおりました。その外国人の中に、イスラエルの宿敵であるアマレク人もいたのです。若者は、ダビデからおほめの言葉と褒美をいただけると期待していました。しかし、ダビデは、こう言います。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か」。これまで、ダビデには、サウルを殺す機会が二度ありました(サムエル上24章、26章参照)。しかし、ダビデは、サウルが主によって油を注がれた方であるゆえに、手をかけることはしなかったのです。しかし、この寄留のアマレク人は、主が油を注がれた方を恐れもせず手にかけ、殺害したのです。
ダビデは、従者の一人を呼び、「近寄って、この者を討て」と命じました。従者は若者を打ち殺しました。ダビデは彼にこう言っています。「お前の流した血はお前の頭に返る。お前自身の口が、『わたしは主が油を注がれた方を殺した』と証言したのだから」。このように、ダビデは、サウルの死を悲しみ、また、サウルを殺した者に対して正しい裁きをくだしたのです(創世9:6「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」参照)。
ダビデにサウルの死を告げ知らせたのがアマレク人であったことは、皮肉なことです。ダビデは、アマレク人を討って帰って来たばかりでした。また、サウルが主から王権を取り上げられたのは、アマレク人を滅ぼし尽くすことを実行しなかったからでありました。そのサウルを殺したのは、アマレク人であったのです。ダビデが、アマレク人を殺したことは、サウルを殺したことに対する刑罰であると同時に、ダビデがアマレク人を滅ぼし尽くす王であることを暗示しているのです。
今朝の御言葉に、「主が油を注がれた方」という言葉が二度でてきます(14節と16節)。「主が油を注がれた方」は、元の言葉を直訳すると「主のメシア」となります。主のメシアを殺すこと、それは主に対する反逆行為であり、死に値する罪であるのです。このことを念頭に置くとき、あのペンテコステのペトロの説教が、よく分かると思います。今朝は、その個所を読んで終わります。新約の216ページです。『使徒言行録』の第2章36節から39節までをお読みします。
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。
主のメシアを殺したのは、アマレク人の若者だけではありません。イスラエルも、主のメシアであるイエスを殺してしまったのです。私たちも、主のメシアであるイエスを殺してしまったのです。それは、死に値する罪でありました。しかし、ペトロは、こう言うのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。主のメシアであるイエス様は、十字架の死から三日目に復活されました。それは、私たちの罪を赦し、私たちに聖霊を与えるためであったのです。そして、これこそ、すべての人に宣べ伝えるべき、喜びの知らせ、福音であるのです。