ぶどう園の農夫のたとえ 2021年12月12日(日曜 朝の礼拝)
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ぶどう園の農夫のたとえ
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 12章1節~12節
聖書の言葉
12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。マルコによる福音書 12章1節~12節
メッセージ
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序.前回の振り返り
前回(先週)、私たちは、イエス様と祭司長たちの「権威についての問答」を学びました。イエス様が、神殿を歩いていると、祭司長、律法学者、長老たちがやってきて、こう尋ねました。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」。祭司長、律法学者、長老たち、この三者は、ユダヤの最高法院を構成するメンバーであります。ですから、祭司長、律法学者、長老たちは、最高法院を代表する者たちであります。また、最高法院の議長は、大祭司でありました。最高法院は神殿祭儀を管理する者たちでもあったのです。そのような権威を神様から与えられている者として、彼らは、イエス様に、「何の権威で、神殿から商人を追い出したり、神殿で教えているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うたのです。この問いは、危険な問いでありました。イエス様が「神様の権威によって」と答えれば、祭司長たちはイエス様を神を冒涜する者として、処刑することができます。また、イエス様が「人からの(自分の)権威によって」と答えれば、祭司長たちはイエス様を神殿を冒涜した者として処刑することができるのです。そのような言葉の罠を見抜かれて、イエス様は、祭司長たちにこう尋ねるのです。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったのか、それとも人からのものだったのか。答えなさい」。ここでのヨハネは、イエス様に先立って活動した洗礼者ヨハネのことであります。ヨハネは、主の道を備える者として、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そのヨハネの洗礼の権威が、神にあるのか、それとも人にあるのかをイエス様は問われたのです。この問いに祭司長たちは答えられませんでした。祭司長たちは、ヨハネが神様の権威によって洗礼を授けていたとは考えませんでした。ですから、彼らはヨハネから洗礼を受けなかったわけです。しかし、「人からのものだ」とは答えられなかった。なぜなら、群衆は皆、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからです。それで、祭司長たちは群衆を恐れて、「分からない」と答えました。するとイエス様もこう言われます。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。このように、イエス様は、祭司長たちの言葉の罠から逃れたのでした。また、このイエス様の御言葉は、「ヨハネの洗礼が神からのものであることが分からないのであれば、わたしの権威が神からのものであることも分からないであろう。だから、わたしは言うまい」と読むことができるのです。
ここまでは、前回の振り返りであります。今朝のその続きとなります。
1.ぶどう園と農夫のたとえ
イエス様は、たとえで祭司長、律法学者、長老たちに話し始められました。
ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出ました。何年かして、収穫の時になったので、ある人は、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ遣わします。ある人は、農夫たちと契約を結んで、収穫の一部を納めることを決めていたのでしょう。しかし、農夫たちは、ある人から遣わされた僕を捕まえて袋ただきにし、何も持たせないで帰しました。そこで、ある人は、また他の僕を送りましたが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱しました。更に、もう一人を送りましたが、今度は殺しました。しかし、ある人は他の多くの僕を送り続けます。そして、農夫たちは、その多くの僕たちを殴り、殺してしまうのです。ある人はどうしたでしょうか?ある人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、最後に愛する息子を送ることにするのです。僕たちを殴り、殺してしまう農夫たちのもとに、愛する息子を遣わしたらどうなるか。農夫たちは、愛する息子をも殴り、殺してしまうのではないかと、普通なら考えると思います。しかし、ある人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という期待をもって、最後に、愛する息子(独り息子)を送るのです。ある人は、ぶどう園の農夫たちが契約に誠実に振る舞うことを、それほどまでに願っているのです。さて、農夫たちはどうしたでしょうか。農夫たちは送られてきた息子を見て、こう話し合いました。「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」。農夫たちは、送られてきた男が、ある人の独り息子であることを認めました。農夫たちは、ある人の独り息子を敬ったでしょうか。そうではありません。農夫たちは、送られてきた男が独り息子であることを認めた上で、殺してしまうのです。農夫たちは跡取り息子を殺して、ぶどう園を自分たちのものにしようとするのです。そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまったのです。農夫たちは、ある人の息子の遺体を葬ることもしなかったのです。さて、このことを知ったある人(ぶどう園の主人)は、どうするでしょうか。ぶどう園の主人は、「戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるにちがいない」とイエス様は言われるのです。そして、聖書の御言葉、『詩編』の第118編の御言葉を引用されるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。家を建てる者が、役に立たないと思って捨てた石が、家の土台を支える隅の親石として用いられた。そのようなことが実際にあったのでしょう。そして、そのことを、詩人は、主がなさったことであり、私たち人間には理解できないことだと歌ったのでした。その『詩編』第118編の御言葉を、イエス様は、ぶどう園と農夫のたとえにつなげて、引用されたのです。
2.たとえ話の解き明かし
この話はたとえ話ですから、その意味を考えてみたいと思います。ある人、ぶどう園の主人は、主なる神様のことです。また、ぶどう園はイスラエルのことです(イザヤ5章の「ぶどう園の歌」参照)。農夫たちは、イスラエルの指導者たち、祭司長、律法学者、長老たちのことです。僕たちは、預言者たちのことです。この預言者たちの中には、洗礼者ヨハネも含まれています。そして、愛する独り息子はイエス様のことです。イエス様は、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と言われましたが、たとえで、御自分が神のもとから遣わされた独り子であると、メシア、油を注がれた者であると答えられたのです(マルコ1:11「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」参照)。そして、そのことのゆえに、祭司長たちが、御自分を殺すであろうと言われたのです。さらには、祭司長たちが御自分を殺す動機が、イスラエルを自分たちのものにしようとする貪欲であることを指摘されたのです。農夫たちは、ぶどう園の主人の独り息子を見て、「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と話し合いました。なぜ、農夫たちは、このように考えたのでしょうか。それは、農夫たちが、ぶどう園の主人が死んでしまったと思い込んでいたからです。農夫たちは、ぶどう園の主人が死んでしまったと思い込んで、跡取り息子を殺せば、ぶどう園は自分たちのものになると考えたのです。しかし、主人は死んでいませんので、主人は戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるのです。この農夫たちと同じ思い込みを祭司長たちもしているのです。祭司長たちは、主なる神様から権威を与えられて、イスラエルというぶどう畑をゆだねられていました。彼らはイスラエルの政治と宗教を司っていたのです。しかし、主なる神様から遣わされた預言者たちの言葉に耳を傾けませんでした。イスラエルの歴史をひもとくならば、それは預言者殺しの歴史であったのです(エレミヤ7:25、26「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった」参照)。実際、祭司長たちは、預言者である洗礼者ヨハネを信じなかったのです。そのような祭司長たちが、イエス様を殺すことになるのです。祭司長たちは、神の独り子であるイエス様を殺すことによって、神のぶどう園であるイスラエルを、自分たちのものにしようとするのです。しかし、そのようには決してならない。それは、主なる神様が活きて働かれる神であるからです。神様が裁きによって、正義を行われるからです。神様は、祭司長たちが捨てた石であるイエス様を、復活させて、新しいイスラエルの隅の親石とされるのです。今朝の御言葉は、たとえで語られた、死と復活の予告でありますね。イエス様は、弟子たちに、御自分の死と復活を三度予告されました。イエス様は、御自分のことを、「あなたは、メシアです」と告白した弟子たちに、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教えられました。そのことを、イエス様は、祭司長たちに、たとえで教えられたのです(マルコ4:11「あなたがたは神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」参照)。イエス様は、御自分がメシアであり、排斥されて殺され、復活させられることを、祭司長たちに、たとえで教えられたのです。
3.たとえ話を理解した者の応答
祭司長たちは、イエス様が、自分たちに対して、このたとえを話されたことに気が付きました。このたとえ話にでてくる「ぶどう園の農夫たち」が自分たちのことだと、彼らは理解したのです。それで、彼らはどうしたでしょうか。自分たちは、取り返しのつかない大きな間違いを犯そうとしていると思って悔い改めたでしょうか。そうではありません。祭司長たちは、このたとえ話を実演するかのように、イエス様を捕らえようとしたのです。しかし、祭司長たちは、群衆を恐れて、イエス様を捕らえることができませんでした。群衆は、洗礼者ヨハネだけではなくて、イエス様をも本当に預言者であると思っていたのです(マタイ21:46参照)。
今朝の御言葉は、私たちに対する警告でもありますね。私たちは、主イエス・キリストから、羽生栄光教会というぶどう園の管理をゆだねられています。しかし、その私たちがそのことを忘れて、まるで主イエス・キリストが死んでしまっているかのように、振る舞うことがあるのです。教会に問題が起こるのは、そのためであるのでありますね。教会(エクレーシア「召し出された者たちの群れ」)は牧師のものでも、長老のものでも、教会員のものでもありません。十字架の血潮という尊い代価を支払って、贖われた主イエス・キリストのものです(使徒20:28「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」参照)。ですから、私たちは、礼拝において、主イエス・キリストが教えてくださった主の祈りを、私たちの祈りとして祈るのです。「天の父の御名がほめたたえられますように。天の父の御心が行われますように」と祈るのです。そして、主イエス・キリストが再び来てくださることを祈るのです。私たちは、主イエス・キリストが再び来られる日を待ち望みつつ、羽生栄光教会という主のぶどう園で、喜んで働く者たちでありたいと願います(マタイ20:1~16参照)。