神を信じなさい 2021年11月14日(日曜 朝の礼拝)
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神を信じなさい
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 11章20節~25節
聖書の言葉
11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」マルコによる福音書 11章20節~25節
メッセージ
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序.前回の振り返り
前回(先週)、私たちは、イエス様が神殿から商人たちを追い出すというお話しを学びました。イエス様は、神様によって聖霊を注がれたメシアとして、異邦人の庭から商人たちを追い出し、神殿をすべての民の祈りの家とされたのです。また、イエス様は、エルサレムの人々が神殿を強盗の巣としていると厳しく非難されました。エルサレムの人々の関心は、神殿祭儀がもたらす莫大な利益に向けられており、祈りが失われていたのです。「神殿から商人を追い出す」というお話しを挟むようにして、いちじくの木のお話しが記されています。イエス様は、葉ばかりで、実のなっていないいちじくの木を呪われました。このことは象徴的な意味を持っています。このいちじくの木は、エルサレム神殿を指しているのです。エルサレム神殿では、商売が行われていて活気があるのですが、祈りがないのです。それはちょうど、葉ばかりが茂っていて、実のない、いちじくの木のようであったのです。イエス様がいちじくの木を呪われたこと。そして、翌朝に、いちじくの木が根元から枯れていたことは、イエス様がエルサレム神殿を裁かれる主であることを示しているのです。もっと言えば、イエス様はエルサレム神殿の主(あるじ)である神その方であることを示しているのです。イエス様は、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われました。このイエス様の御言葉は、紀元70年に、ローマ帝国の軍隊によって、エルサレム神殿が滅ぼされることによって、実現します。それ以降、エルサレムに神殿が再建されることはありませんでした。今も、エルサレムに神殿はありません。嘆きの壁(西の壁)が残っているだけです。かつてエルサレム神殿があった場所には、イスラームの岩のドームが建てられているのです。イエス様の御言葉がそのとおりになっていることを、私たちは歴史の事実として知ることができるのです。ここまでは前回の振り返りであります。先程は、12節から25節までを読んでいただきましたが、今朝は20節から25節までを中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.神を信じて祈る
イエス様が神殿から商人たちを追い出した翌日の朝早く、イエス様と弟子たちは、ベタニアからエルサレムへと向かう途中で、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見ました。「あのいちじく」とは、葉ばかりで実がない、いちじくのことです。そこで、ペトロは思い出して、イエス様にこう言います。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」。すると、イエス様は、祈りについて教えられます。なぜなら、祈りこそ、イエス様が求められたいちじくの実であるからです。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」。私たちが祈るときに大切なこと、それは「神を信じる」ということです。神を信じるところに祈りが生まれます。「神を信じる」とは、ただ神様がおられることを信じるだけではなく、神様がなんでもできる全能の御方であることを信じることです。イエス様は、第10章27節で、こう言われていました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。神様は何でもできる、全能の御方であるのです。ですから、イエス様は、第9章23節で、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言われたのです。何でもできる神様を信じる者には何でもできる。こうイエス様は言われたのです。イエス様は、「信じる者が何でもできるのは、何でもできる神様を信じているからである」と教えられたわけです。何でもできる、全能の神様を信じるゆえに、私たちは何でも願うのです。このことは、私たち人間どうしのことを考えても、よく分かると思います。私たちが何かをお願いするとき、できる人に頼みます(資格は能力があることの証明)。できない人には頼まない。私たちが何でもできる神様を信じるとき、私たちは神様に何でも願うようになるのです。
また、私たちは、全能の神様が独り子を与えられたほどに、私たち一人一人を愛してくださる神様であることを知っています。全能の神様であっても、関係がなければ祈ることはできません。しかし、全能の神様は、主イエス・キリストにあって、私たちの父となってくださった神様であります。父なる神様は、私たちの祈りに喜んで耳を傾けてくださいます。父親がかわいい子供の言葉に喜んで耳を傾けるように、神様は私たちの祈りに喜んで耳を傾けてくださるのです。
使徒信条に、「わたしは天地の造り主、全能の父なる神を信じます」と記されています。私たちが祈るときに、思い起こすべきは、この信仰告白でありますね。イエス様が、「神を信じなさい」と言われるとき、それは、「天地の造り主、全能の父なる神を信じなさい」ということであるのです。そのように信じるからこそ、私たちは何でも、親しく祈ることができるのです。
2.疑わずに祈る
神様を信じて祈るとき、大切なことは、「少しも疑わない」ということです。信じるとは、信頼するということです。ですから、疑うことは、信仰の反対であるのです。もし、私たちが疑いながら祈るならば、神様はその祈りを聞いてくださいません。なぜなら、神様は、私たちの心を御覧になるからです。私たちは、山が海に飛び込むことなどあり得ないと思う。しかし、「そのことを疑わずに、自分の言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる」とイエス様は言われます。これは誇張法ですね。イエス様は、疑わずに、信じて祈ることの大切さを教えるために、山が海に飛び込むと言われたのです。さらにイエス様は、こう言われます。「だから、言っておく。祈り求めるものは既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。私たちが、だれかにお願いごとをする。「今週までに、これこれのことをしてください」と依頼して、「了解しました」という返事をもらう。それで、私たちは、その人を信頼しているならば、もうそれで済んだと考えます。そうであれば、神様に対してはなおさらのことです。そして実際、イエス様は、祈り求めたものは既に得られたと信じて、父なる神様に祈られたのです。また、イエス様は、そのような信仰を、弟子である私たちに与えてくださったのです。このことは、使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第8章で記していることです。イエス・キリストを信じる私たちには、神の子であるイエス・キリストの聖霊が与えられています。それゆえ、私たちは、神様を「アッバ、父よ」と呼び、親しく祈ることができるのです。私たちには、神様を父として信頼する心が与えられているのです。神様が愛する御子を私たちと同じ人としてお遣わしになり、十字架の死に引き渡され、復活させられ、天へと上げられたのは、私たちに御子の霊を与えて、私たちを神の子とするためであったのです。パウロは、ローマ書の第8章32節でこう記しています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。ここに、私たちが祈り求めたものを、神様は与えてくださると信じられる、確かな根拠があるのです。
3.祈りの条件
「疑わなければ、願ったことはそのとおりになる」。このイエス様の教えは、自分の都合の良いように解釈される危険があります。信仰が思い込みであるかのように誤解される恐れがあります。それで、使徒たちの手紙を見ると、このイエス様の御言葉にいくつかの条件が付け加えられていることに気づきます。例えば、『ヤコブの手紙』の第4章には次のように記されています。「得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために遣おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ4:2、3)。ここでヤコブは、願い求める動機を問題としています。イエス様は、動機のことについては言われませんでしたが、ヤコブは動機を問題にするのです。また、『ヨハネの手紙一』の第5章には次のように記されています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」(一ヨハネ5:14、15)。ここでヨハネは、願いごとに条件をつけています。イエス様は、願い事に条件をつけませんでした。しかし、ヨハネは、「神様の御心に適うことを私たちが願うなら」と条件をつけるのです。私たちは、イエス様が教えられたように、疑わずに、何でもそのとおりになると信じて祈るべきであります。しかし、その祈りが聞かれないならば、その動機を吟味する必要があります。また、その願いが神様の御心に適う願いであるかどうかを吟味する必要があるのです。そのようにして、私たちと神様との関係は深まっていくのです。
4.祈りを妨げるもの
イエス様は、25節で、私たちの祈りを妨げるものを指摘しておられます。「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。このイエス様の御言葉は、私たちの願いごとに、「罪を赦してください」という願いがあることを前提にしています。私たちが神様に願い求めること、それは第一に罪の赦しであるのです。ですから、私たちは、礼拝の最初に罪を告白して、赦しの宣言を聞くわけです。私たちは、神様に罪を告白する。それは、神様が罪を赦してくださると信じているからです。神様が、私たちの罪を赦すために、罪のないイエス・キリストを十字架の死に引き渡されたことを知っているからです。そのとき、私たちに求められることがある。それは、自分も他人の罪を赦すということです。「わたしはあの人の罪を絶対に赦さない」と言いながら、「神様、わたしの罪を赦してください」と祈ることはできないのです。神様に罪の赦しを祈り求める人は、自分も他人の罪を赦す用意がなくてはいけないとうことです。そして、このことも、イエス・キリストの聖霊を与えられて、初めてできることなのです。神様は、イエス・キリストにあって、私たちのすべての罪を赦してくださいました。それは、私たちが自分に対して罪を犯した人を赦すためであるのです。私たちは、イエス・キリストにあって、すべての罪を赦され、正しい者と、神の子とされています。そのような者たちとして、全能の父なる神様を信じて、日々、祈りをささげて歩んで行きたいと願います。