すべての人の祈りの家 2021年11月07日(日曜 朝の礼拝)
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すべての人の祈りの家
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 11章11節~21節
聖書の言葉
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」マルコによる福音書 11章11節~21節
メッセージ
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序.前回の振り返り
前回(10月10日)、私たちは、イエス様が子ろばに乗って、エルサレムに入られたことを学びました。イエス様の前を行く者も、後に従う者も、こう叫んだのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。イエス様は、『ゼカリヤ書』が預言していた子ろばに乗るイスラエルの王として、エルサレムに入られたのです(ゼカリヤ9:9、10参照)。
1.いちじくの木を呪う
エルサレムに着いたイエス様は、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回られました。そして、夕方になったので、十二人を連れてベタニアに出て行かれたのです。イエス様は、エルサレムの近くの村、ベタニアで宿をとられたのでした。その翌日、イエス様と弟子たちがベタニアを出るとき、イエス様は空腹を覚えられました。そこで、イエス様は、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られました。しかし、葉のほかには何もありませんでした。イエス様は、そのいちじくの木に向かって、こう言われます。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」。弟子たちはこのイエス様の御言葉を聞いていました。いちじくの木のお話については、また後でお話したいと思います。
2.神殿から商人を追い出す
それから、イエス様と弟子たちは、エルサレムに来ました。そして、イエス様は、神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたのです。また、境内を通って物を運ぶことをお許しになりませんでした。ここには、大変荒々しいイエス様のお姿が描かれています(ヨハネ2:17参照)。ここで「神殿の境内」(15節)とか「境内」(16節)と訳されている言葉(ヒエロン)は「神殿」という言葉です。より正確に言うと神殿の一番外側の「異邦人の庭」のことです(週報の図を参照)。エルサレム神殿の中心は神様が臨在される至聖所であり、その外側が聖所、さらにその外側が男子の庭、さらにその外側が婦人の庭、さらにその外側が異邦人の庭でありました。エルサレム神殿の祭儀において、男と女が区別されていました。また、ユダヤ人と異邦人が区別されていました。その異邦人の庭でユダヤ人のための売り買いが行われていたのです。具体的に言えば、外国の通貨を神殿でささげることができる通貨に両替したり、神殿でささげるための鳩などを売り買いしていたのです。このことは、神殿祭儀を司る祭司長たちの管理のもとで行われていたことです(公認)。また、神の掟である律法に基づいてのことでありました。『出エジプト記』の第30章には、主の献納物は聖所のシェケルで支払うように記されています(出エジプト30:13参照)。また、『申命記』の第14章には、遠い地から来る者は、銀を携えて来て、現地で動物を購入して、ささげるようにと記されています(申命14:24〜26参照)。両替人も鳩を売る者も、神殿祭儀を営むうえで必要不可欠であったのです。では、イエス様は、なぜ、お怒りになって、神殿から商人たちを追い出されたのでしょうか。その理由が17節に記されています。イエス様は、人々に教えてこう言われました。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」。新共同訳聖書は、「すべての国の人の祈りの家」と翻訳していますが、元の言葉には「国」という言葉はありません。ですから、聖書協会共同訳では「すべての民の祈りの家」と翻訳しています。「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(聖書協会共同訳)。この御言葉は、『イザヤ書』の第56章7節からの引用であります。主の神殿は、ユダヤ人だけではなくて、異邦人の祈りの家にもなると預言されていたのです。しかし、ユダヤ人たちは、その異邦人の祈りの場に、さまざま物を持ち込んで、商売をしていたのです。それゆえ、イエス様は、激しい熱情を持って、異邦人の庭から商人を追い出されたのです。ここでイエス様は、メシアとして振る舞っておられます。第1章に、イエス様に天から聖霊が鳩のように降って来たこと。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたことが記されていました。この天からの声は、イエス様が神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であることを教えております(創世22章、詩2編、イザヤ42章参照)。イエス様は、神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であるメシアとして、神殿から商人を追い出すことによって、「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という『イザヤ書』の預言を成就されるのです。
また、イエス様が神殿から商人を追い出されたのは、エルサレムの人々が、神殿を強盗の巣にしていたからです。「強盗の巣」という言葉は、『エレミヤ書』の第7章に記されている言葉であります。このところは、実際に開いて読みたいと思います。旧約の1188ページです。『エレミヤ書』の第7章1節から7節までをお読みします。
主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこの空しい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
11節に「強盗の巣窟」という言葉がありますが、この言葉を用いて、イエス様は、「あなたたちは、すべての民の祈りの家である神殿を強盗の巣にしてしまった」と厳しく非難されたのです。イエス様の目には、エルサレム神殿はエレミヤの時代と同じ強盗の巣に見えたのです。もちろん、イエス様の時代のエルサレムの人たちは、バアルに香をたくような偶像礼拝はしていませんでした。しかし、エルサレムの人々は、神殿祭儀がもたらす莫大な富に心奪われていたのです。異邦人の祈りの場所で、商売が行われるということは、そのことを意味しているのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の84ページです。
「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」。このイエス様の御言葉は、人々に教えて言われたものです。しかし、祭司長たちや律法学者たちは、この御言葉を、自分たちを非難する言葉として聞きました。それは、祭司長たちや律法学者たちが、神殿祭儀を司り、管理していたからです。では、彼らはイエス様の御言葉を受け入れて、異邦人の庭で商売するのを止めたかと言えば、そうではありません。祭司長たちや律法学者たちは、イエス様をどのようにして殺そうかと謀ったのです。祭司長たちは、神殿を冒涜するこの男を殺さねばならないと考えたのです。このことは、かつて神殿に敵対的な預言を語ったエレミヤの身に起こったことでした。『エレミヤ書』の第26章を見ますと、神殿に敵対的な預言をしたエレミヤを祭司たちが捕らえて、処刑しようとしたことが記されています。ですから、イエス様は、神殿から商人を追い出し、神殿を強盗の巣と呼ぶことが、どれほど危険なことであるかを知っていたはずです。イエス様は、弟子たちに、「人の子は祭司長たちから排斥されて殺される」と予告しておりましたが、その予告は、イエス様が、神殿から商人を追い出し、神殿を強盗の巣と呼ぶことによって実現するのです。そのような危険を犯してまで、なぜ、イエス様は、神殿から商人を追い出されたのでしょうか。それは、イエス様が御自分の死と復活によって、すべての民の祈りの家である教会を建てられるためです。「わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる」という『イザヤ書』の預言は、イエス・キリストの十字架の死と復活を基とする教会においてこそ実現されるのです。教会は、もはや場所にとらわれることのない祈りの家であります。なぜなら、二人または三人がイエス・キリストの名によって集まるところに、イエス・キリストと神様が共にいてくださるからです。そして、教会の交わりには、男と女の区別もなく、ユダヤ人と異邦人の区別もないのです(ガラテヤ3:28参照)。すべての人が、イエス・キリストの名によって、大胆に神様に近づくことができるのです(ヘブライ4:16参照)。
3.枯れたいちじくの木
今朝は、最後に再びいちじくの木のお話をして終わりたいと思います。神殿から商人を追い出した翌日の朝早く、イエス様と弟子たちは、通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見ました。そこで、ペトロは思い出してイエス様にこう言います。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」。
今朝の御言葉は、神殿から商人を追い出すというお話を挟むようにして、いちじくの木の話が記されています(サンドイッチ構造)。そのことは、いちじく木が「エルサレム神殿」であり、その実が「祈り」であることを示しています。エルサレム神殿では、商売が行われ、多くの人が行き交って活気はあるのですが、祈りが失われていたのです。それはちょうど、葉ばかり茂っているだけで実がない、いちじくの木のようであるのです。イエス様がいちじくの木を呪われたこと。そして、翌日、そのいちじくの木が根元から枯れていたことは、イエス様がエルサレム神殿を裁かれる主であることを示しています。なぜなら、イエス様こそ、神殿の主(あるじ)である神、その方であるからです。イエス様が、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と言われるとき、その「わたし」とは、イエス様御自身でもあるのです。
およそ40年後の紀元70年に、エルサレム神殿は、ローマ帝国によって滅ぼされます。そのとき、弟子たちは、イエス様がいちじくの木を呪われたことを思い出したと思います。イエス様は、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われましたが、現在も、エルサレム神殿は再建されていません。嘆きの壁(西の壁)が残っているだけです。皮肉にも、かつてエルサレム神殿があった場所には、イスラームの岩のドームが建っているのです。「今から後いつまでも、お前から実を食べる物がないように」というイエス様の御言葉が、今も実現していることを、私たちは心に留めたいと思います。