エン・ゲディにおけるダビデとサウル 2021年10月20日(水曜 聖書と祈りの会)

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エン・ゲディにおけるダビデとサウル

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
サムエル記上 24章1節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:1 ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害にとどまった。
24:2 ペリシテ人を追い払って帰還したサウルに、「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」と伝える者があった。
24:3 サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」の付近に向かった。
24:4 途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。
24:5 ダビデの兵は言った。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。
24:6 しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、
24:7 兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」
24:8 ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。
24:9 ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、
24:10 サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。
24:11 今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。
24:12 わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。
24:13 主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。
24:14 古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。
24:15 イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。
24:16 主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」
24:17 ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、
24:18 ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。
24:19 お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。
24:20 自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。
24:21 今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。
24:22 主によってわたしに誓ってくれ。わたしの後に来るわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない、と。」
24:23 ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の館に帰って行き、ダビデとその兵は要害に上って行った。サムエル記上 24章1節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、ダビデがもう少しのところで、サウルに捕らえられるところであったことを学びました。ダビデがサウルに出くわす寸前に、サウルのもとに使者が来て、「ペリシテ人が国に侵入しました」と告げました。それで、サウルはダビデを追うのをやめて、ペリシテ人の方に向かったのでありました。神様は、ペリシテ人を用いて、ダビデをサウルの手から救われたのです。今朝の御言葉はその続きであります。

 ダビデは、マオンの岩場から上って行って、エン・ゲディの要害にとどまりました。「エン・ゲディ」とは「子山羊の泉」という意味で死海ほとりにあるオアシスであります。その要害(地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地)に、ダビデと兵たちはとどまったのです。ペリシテ人を追い払って帰って来たサウルに、「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」と伝える者がありました。それで、サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って、「山羊の岩」の付近に向かったのです。このとき、ダビデの兵は600人でした。サウルはその五倍である3000人の兵を、しかも精鋭部隊を率いていたのです。途中、羊の囲いの場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入りました。そして、その洞窟の奥に、なんとダビデとその兵たちが座っていたのです。サウルが用を足すために入った洞窟は、ダビデとその兵が身を隠していた洞窟であったのです。用を足すとき、人は無防備であります。そのサウルの姿を見て、ダビデの兵は、こう言いました。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです」。どうやらダビデは、このような主の託宣を受けていたようですね。ダビデの兵たちは、ダビデの敵であるサウルを殺す絶好の機会がきたことをほのめかします。それで、ダビデはどうしたかと言いますと、立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取りました。ダビデは、サウルを刀で切りつけたのではなくて、その上着の端をひそかに切り取ったのです。しかし、それだけでも、ダビデの心は痛みました(新改訳2017参照)。そして、ダビデは兵にこう言うのです。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」。ダビデは、サウルのことを「わたしの敵」とは言わず、「わたしの主君」と言います。なぜなら、サウルは、主が油を注がれた方、王であるからです。ダビデは、自分の命を狙っているサウルの命を重んじています。ダビデは、サウルの上着の裾を切り取って心が痛むほどに、サウルの命を重んじているのです。それはサウルが、主によって、油を注がれた者であるからです。ダビデは、主を重んじるゆえに、主が油を注がれたサウルを重んじるのです。教会において、教師や長老や執事が重んじられるのも同じ理由からですね。教師や長老や執事は、それぞれの職務に就くとき、按手を受けます。そのようにして、主によって、その職務に就くのです。それゆえ、主を重んじる教会員は、主によって立てられた教会役員(教師、長老、執事)を重んじるのです。更に同じことが、すべての教会員に対しても言えます。すべての教会員は、洗礼を受けて、神の油を注がれた者たちであるからです(一ヨハネ2:20参照)。

 ダビデは、兵を説得し、サウルを襲うことを許しませんでした。サウルが洞窟から出ると、ダビデも続いて洞窟を出て、サウルの背後から声をかけます。「わが主君、王よ」。サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をしてこう言います。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せという者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。主が裁き手となって、わたしとあなたとの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように」。

 ここでダビデは、自分が潔白であると弁明しています。そして、自分とサウルとの間の裁きを、主に委ねるのです。14節に、「悪は悪人から出る」という古いことわざが引用されていますが、その意味は、「悪人は悪をもって悪に報いるが、善人は裁きを主に委ねる」という意味でありましょう。ダビデは、悪に悪を報いることなく、むしろ、善を行い、その裁きを主に委ねました。そのような信仰と忍耐をもって、主の裁きを待ち望むのです。

 ダビデの言葉を聞いて、サウルはこう言います。「わが子ダビデよ、これはお前の声か」。これまでサウルは、ダビデ(愛されている者)という名前を呼ばずに、「エッサイの子」と呼んでいました。しかし、ここでは「わが子ダビデ」と呼びます。これは、12節のダビデの「わが父よ」という呼びかけに対応しています。実際、ダビデは、サウルの娘ミカルの婿であり、サウルにとっては義理の息子であるのです。サウルが、「わが子ダビデよ、これはお前の声か」と言ったことは、サウルがダビデの語る言葉に、心打たれたことを示しています。サウルは声をあげて泣き、ダビデにこう言うのです。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエルの王国はお前の手によって確立される。主によってわたしに誓ってくれ。わたしの後に来るわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない、と」。

 自分の敵に出会って、その敵を無事に去らせる者はいません。そうであれば、ダビデがサウルを無事に去らせたことは、ダビデがサウルに対して敵意を抱いていないことを示しているのです。ダビデはサウルの悪意に善意をもって対しました。その善意に、サウルは心を砕かれて、悔い改めたのです。ダビデは善をもって悪に勝ったのです(ローマ12:21参照)。サウルは、21節でこう言います。「今わたしは悟った。お前は必ず王になり、イスラエルの王国はお前の手によって確立される」。かつてサウルは、サムエルから「あなたの王権は続かない」と言われていました(13:14)。また、「主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる」と言われていました(15:28)。その隣人こそ、ダビデであると、サウルは言い表すのです。このことは、サウルが知っていながら、決して認めたくなかったことです(23:17「父サウルもそうなることを知っている」参照)。しかし、サウルはダビデの善意に心を打たれて、そのことを口にするのです。そして、サウルは、ダビデが王になった際に、自分の子孫を根絶やしにしないように誓ってほしいと願うのです。古代の世界において、新しい王様が即位すると、前の王様の一族を根絶やしにして、その支配を確立することが行われていました。そのようなことを背景として、サウルはダビデに、自分の一族を断たないで欲しいと願うのです。そして、ダビデは、サウルにこのことを誓いました。そして、実際、ダビデは王になったとき、サウルの一族を滅ぼすことはしませんでした。『サムエル記下』の第21章に、サウルの子孫が処刑されたことが記されていますが、そのことは、主の託宣によることでありました。ダビデは、サウルとの間の裁きを主に委ねましたが、サウルの子孫についても主に委ねたのです。

 こうして、サウルは自分の館に帰って行きました。そして、ダビデとその兵は要害に上って行ったのです。ダビデはサウルの心が変わりやすいことをよく知っていたのです。

 

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