キリストを主とあがめよ 2021年10月17日(日曜 朝の礼拝)
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キリストを主とあがめよ
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- 村田寿和 牧師
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ペトロの手紙一 3章8節~16節
聖書の言葉
3:8 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
3:9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
3:10 「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。
3:12 主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
3:13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。ペトロの手紙一 3章8節~16節
メッセージ
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これまで、ペトロは、召し使いたちへの勧め、妻と夫への勧めの言葉を書き記してきましたが、今朝の御言葉では、すべての人に呼びかけています。しばしば申しますように、新約聖書にある手紙は、公の礼拝において、朗読されました。ペトロは、礼拝に出席している、召し使いたちに、また妻たちや夫たちに、勧めの言葉を記してきました。そして、そのまとめとして、礼拝に出席しているすべてのキリスト者に対して、こう記すのです。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」。主イエス・キリストを信じて、神様を父として礼拝する私たちには、心を一つにすること、同情し合うこと、兄弟姉妹を愛すること、憐れみ深く、謙虚であることが求められています。それは、私たちの主であるイエス様が、そのような御方であるからですね。イエス様は、私たちと心を一つにしてくださり、私たちに同情し、私たちを愛し、私たちを憐れみ、へりくだって私たちに仕えてくださいました。そのイエス様を主と仰ぐ私たちも、心を一つにして、同情し合い、兄弟姉妹を愛し、憐れみ深く、へりくだることが求められているのです。
また、ペトロは、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」と記します。ここで「報いる」と訳されている言葉(アポディドーミィー)は、「返す」とも訳せます。悪を与えられたら悪を返してはいけない。侮辱を与えられたら、侮辱を返してはいけないとペトロは言うのです。これは難しいことだと思います。生まれながらの私たちは、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてしまうからです。悪口を言われたら、悪口を言い返す。「ばかじゃないの」と言われれば、「おまえの方こそ、ばかじゃないの」と言い返す。言い返すことができない場合は、心の中でつぶやくのです。ところで、なぜ、私たちは悪口を言われたら悪口を言い返すのでしょうか。それは、悪口を言われたままで、言い返さなければ、自分の尊厳を保つことができないと考えるからではないかと思います。しかし、ペトロは、主イエス・キリストを信じる私たちに、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」と言うのです。このペトロの言葉の源には、イエス様の教えがあります。『ルカによる福音書』の第6章27節と28節で、イエス様はこう言われています。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。ペトロは、イエス・キリストの使徒として、「悪口を言う者に、悪口を返すのではなく、神様からの祝福を与えなさい」と言うのです。そして、その根拠を、「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と記すのです。私たちが、主イエス・キリストを信じて、神の民の一員とされたのは、祝福を受け継ぐためであるのです。このことは、神様が昔から、アブラハムに約束しておられたことでありました。『創世記』の第12章に、主がアブラハムを、父の家から召し出されたことが記されています。そこで、主はアブラハムにこう言われておりました。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」。この主の御言葉は、アブラハムの子孫としてお生まれになったイエス・キリストにおいて実現するわけです(ガラテヤ3:16参照)。ですから、イエス・キリストを信じて神の民とされた私たちは、主の祝福を受け継ぐ者とされているのです。私たちは、主の祝福を受け継ぐ者として、悪口を言われても、主の祝福の言葉を語るべきであるのです(悪口もひどくなると呪いとなる。「死ね」とか)。
ペトロは、私たちが祝福を語るべき根拠として、『詩編』の第34編を引用します。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
命を愛し、幸せな日々を過ごしたいと願う私たちは、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めるべきであるのです。たとえ、人から悪口を言われたとしても、自分の舌を制御して、悪口を言ってはならないのです。もし、私たちが悪口を言い返すならば、それは、自分が相手の悪意に取り込まれてしまうことになります。しかし、私たちが自分の舌を制御して悪口を言い返さないなら、さらには、主からの祝福を語るならば、それは善を行い、平和を願って追い求めることになるのです。また、私たちが舌を制して、悪口を言うべきでないのは、主が私たちに目を注いでおられ、主が私たちの語る言葉に耳を傾けられておられるからです。ラテン語に「コーラムデオ」という言葉があります。「神様の御前に」という意味です。私たちは、いつも神様の御前に生かされているのです。神様は、いつも私たち一人一人に目を注いでくださり、私たち一人一人が語る言葉に耳を傾けていてくださる。そうであれば、私たちは、自分の舌を制御して、悪口を言うべきではないのです。また、私たちは、悪口を言い返す必要もないのです。なぜなら、主の御顔は悪事を働く者に対して向けられているからです(良い意味ではなくて。詩編34編では、「その名の記念を地上から断たれる」と続く)。私たちは、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いる必要はありません。その悪や侮辱に対する報いは、主がお与えになるのです。私たちキリスト者は、自分で報復せずに、主の報復にゆだねるべきであるのです。このことは、主イエス・キリストにおいても見られることであります。ペトロは、第2章23節で、こう記していました。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」。このような信仰をもって、私たちも、善を行い、すべての人との平和を追い求めていきたいと思います。
13節に、「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」とあります。理屈から言えば、善いことに熱心である人に害を加える人はだれもいないはずです。しかし、小アジアに住むキリスト者たちは、周りの人々から害を加えられていました。先祖伝来の空しい生活から贖われて、イエス・キリストを信じた人々を、周りの人々は悪人呼ばわりしていたのです(1:18、2:12参照)。それゆえ、ペトロはこう記すのです。「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」。このペトロの言葉も、主イエス・キリストの教えを源としています。イエス様は、山上の説教で、こう言われました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5:10~12)。この主イエスの御言葉を心に留めつつ、ペトロは、「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」と記しているのです。ですから、ペトロにとっても、「義のために苦しみを受ける」ことは、「イエス・キリストのために苦しみを受ける」ことであるのです。「義」とは「正しいこと」でありますが、神様の御前に正しいことは、何よりも、神様が遣わされた救い主イエス・キリストを信じることであるのです。ですから、ペトロは、続けてこう記すのです。「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」。イエス・キリストのために、苦しみを受ける。イエス・キリストを信じたゆえに、まわりの人々から悪口を言われる。そのとき、私たちは、人々を恐れて、不安になります。しかし、ペトロは、人々を恐れて、心を乱してはならないというのです。その乱れてしまいそうな心の中で、キリストを主とあがめよ、と言うのです。心の中でキリストを主とあがめて生きる。そのとき、私たちは人々ではなく神様を畏れて生きることができるようになります。そのとき、私たちはキリストの平安をいただくことができるのです。
ペトロは、「心の中でキリストを主とあがめなさい」という言葉に続けて、次のように記します。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」。私たちキリスト者は、心の中でキリストを主とあがめていればよいのではありません。私たちは自分たちが抱いている希望について弁明できるように、いつも備えていなければならないのです。ちなみに「弁明」とは「物事の道理を述べて明らかにすること」を意味します(『福武国語辞典』)。私たちは今、礼拝に集って、心の中だけではなく、その体においても、キリストを主とあがめています。私たちは、キリストをあがめるために、この所に体を運び、声を合わせて讃美歌を歌い、礼拝をささげています。それは、なぜでしょうか?私たちは、どのような希望を抱いて、イエス・キリストを主とあがめているのか?そのことを、私たち一人一人が自分の口で言い表すことができるようになることが求められているのです。私たちが抱いている希望について、ペトロは、第1章3節と4節に、こう記していました。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。私たちが抱いている希望、それは神の子とされた私たちがキリストと同じ栄光の体で復活させられ、新しい天と新しい地を受け継ぐという生き生きとした希望であるのです。
ここでペトロは、弁明するときの態度についても記しています。「それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」。相手を見下した高ぶった態度や、論争的な態度はふさわしい態度ではありません。私たちは、穏やかに、敬意を払って、自分が心から信じていることを、はっきりと申し述べるのです。「そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです」。ここで注意したいことは、心の中でキリストを主とあがめる生活と善い生活が重なっているということです。私たちの善い生活、神様の御心を行う生活を支えているのは、キリストを主とあがめる信仰であり、キリストにある生き生きとした希望であるのです。そのことを知る時、悪口を言っていた人は自分のことを恥ずかしく思うようになるのです。
今朝の御言葉は、日本において、少数派である私たちキリスト者に多くのことを教えてくれています。私たちも、心の中でキリストを主とあがめながら、善い生活に励みたいと願います。そして、説明を要求する人には、自分が抱いている希望をはっきりと言い表したいと願います。そのための備えを、主の日の礼拝ごとにしていきたいと願います。