妻たちよ、夫たちよ 2021年9月26日(日曜 朝の礼拝)

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妻たちよ、夫たちよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ペトロの手紙一 3章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
3:4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
3:5 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
3:6 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
3:7 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。ペトロの手紙一 3章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

序.前提としての家父長制社会

 今朝は、『ペトロの手紙一』の第3章1節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。小見出しに「妻と夫」とありますように、このところには、妻たちに対する勧めと、夫たちに対する勧めが記されています。1節から6節までが妻たちに対する勧めであり、7節が夫たちに対する勧めであります。妻たちに対する勧めの方が長いですね。その一つの理由は、妻が夫よりも弱い立場にあったからだと思います。今からおよそ2000年前の、紀元1世紀のギリシャ・ローマの社会は、家父長制社会でありました。「家父長制」という言葉を辞書で引きますと「家父・家長の支配権を絶対とする家族形態」とあります。現代の家族形態とは大きく違うわけです。ちなみに、『日本国憲法』の第24条には次のように記されています。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」。

 私たちは、今朝の御言葉が、紀元1世紀の家父長制社会に生きるキリスト者たちに対して記されていることを念頭において、読み進めていきたいと思います。

1.妻の無言の行いによって

 第3章1節と2節をお読みします。

 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。

 ペトロは、妻たちに対する勧告を、「同じように」という言葉から書き始めます。「同じように」とは、どういうことでしょうか?ペトロは、妻たちに対する勧めに先立って、「召し使いたちへの勧め」を記しました。その召し使いたちと同じように、心から神様を畏れ敬って、妻たちよ、自分の夫に従いなさい、ということであります。「自分の夫に」と言われているように、ここで教えられていることは、妻と夫という夫婦の関係であり、男と女の関係ではありません。ペトロは「女は男に従いなさい」と記しているのではなく、「妻は自分の夫に従いなさい」と記しているのです。妻と夫との関係は、結婚という契約を前提にしています。そして、そこには、神様が夫婦を結びつけてくださったという信仰があるのです。神様がこの男を、自分の夫にしてくださった。そのような信仰があるのです。その神様を心から畏れ敬って、妻たちよ、自分の夫に従いなさい、とペトロは記すのです。そのことは、夫が御言葉を信じない人であっても同じです。御言葉を信じない夫であっても、神様が結び合わせてくださった伴侶(パートナー)であると信じて、従うこと求められているのです。そして、そこには、「妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるため」という宣教的な動機付けもあるのです。御言葉を信じない夫、それは御言葉を聞こうとしない夫のことであります。御言葉を聞こうとしない夫に、御言葉を語ることはできません。聞く耳のない人に語ることはできないのです。では、どうすればよいのでしょうか?ペトロは、「妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになる」と言うのです。御言葉を信じない夫であっても、神を畏れるあなたがたの純真な生活を見て、信仰に導かれるようになると言うのです。これは、「証しの生活」と言えます。神様を畏れる純真な生活を送ることによって、言葉ではなく、振る舞いでイエス・キリストを証しするのです。そのとき、御言葉を聞こうとしない夫が、自分の方から尋ねて来るようになるのです。当時は、家父長制社会でしたから、妻が夫に御言葉を語ることは難しかったと思います。しかし、今は、夫婦が同等の権利を有するのですから、未信者の夫の方から尋ねて来たら、イエス・キリストについてお話ししたらよいと思います。あるいは、教会の礼拝にお誘いしたらよいと思います。

 

2.柔和でしとやかな気立てという装い

 3節から6節までをお読みします。

 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。

 水曜日の祈祷会で、『サムエル記上』を学んでいますが、その第16章に、サムエルがサウルに代わる王として、ダビデに油を注ぐ、お話しが記されています。サムエルは、初め、エッサイの長男であるエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だと思います。しかし、主はサムエルにこう言われるのです。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル上16:7)。主は心を見る。それゆえ、ペトロは、あなたがたの装いは、金の飾りや派手な衣服による外面的な装いではなく、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な装いであるべきだと言うのです。心を見る神様を畏れて生活するならば、装いが外面的なものから内面的なものへと変わって来るのです。そして、柔和でしとやかな内面的な人柄こそ、心を見られる神様の御前でまことに価値があるのです。

 4節を、『聖書協会共同訳』では、次のように翻訳しています。「柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい。これこそ、神の前でまことに価値があることです」。この翻訳ですと、妻たちの柔和でしとやかな気立てが、「柔和でおだやかな霊」である聖霊を源としていることが分かります。妻たちは、どのようにして、柔和(謙遜)としとやかな気立て(品のある心持ち)で内面を飾ることができるのでしょうか?それは、柔和で穏やかなイエス・キリストの聖霊を心の内に宿すことによるのです。これは妻たちだけのことではありません。すべてのキリスト者が、柔和で穏やかなイエス・キリストの聖霊を宿すことによって、柔和で穏やかな人柄へと変えられていくのです。

 ペトロは、柔和で穏やかな霊によって、内面を飾り夫に仕えた妻たちの代表として、アブラハムの妻サラのことを記します。サラはアブラハムを主人(キュリオス)と呼んで、服従しました(創世18:12LXX参照)。サラがアブラハムを主人と呼んで、服従したことは、夫と妻の間に、主従関係があることを示しています。アブラハムの時代は、家父長制社会でした。また、この手紙が記されたペトロの時代も、家父長制社会でした。しかし、現代、私たちが生きている社会は家父長制社会ではないので、どこまで適用できるのか解釈の難しいところがあります。確かに、日本でも、妻が夫のことを「主人」と呼ぶことがあります。これは日本が家父長制社会であったことの名残ですね。インターネットで調べると、夫婦のうち、男性の方を表す言葉には、「夫・主人・旦那・亭主」などがあること。そして、「主人という言葉は元々、上下関係・主従関係を表し、『一家のあるじ』『自分の仕える人』といった意味を含む言葉であるため、最近では避けられることも多い」と記されていました。そのような現状を踏まえつつ、妻たちが柔和で穏やかな霊をもって、夫に従うならば、それはキリストを証しする善き業であるのです。なぜなら、イエス様は御自分を低くして、仕える御方であるからです。

3.命の恵みを共に受け継ぐ者として

 7節をお読みします。

 同じように、夫たちよ、妻を自分より弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。

 ペトロは、夫たちに対する勧めも、「同じように」と書き始めます。「同じように」とは、神様を畏れ敬って、神様が結び付けてくださった助け手であるとの信仰を持って、ということでしょう。ペトロは、夫たちに、「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にしなさい」と記します。ここで妻が夫よりも弱いと言われるとき、それは妻の体の方が繊細(デリケート)であることを言っているのだと思います。実際、男性と女性の体の造りは異なっておりまして、女性の方が複雑に出来ています。妻が夫よりも弱いと言いますと、「そんなことはない」と言われそうですが、ここでペトロが言いたいことは、妻のことを配慮して、生活を共にするようにということです。「二人は一体となる」という結婚の奥義は、夫と妻が助け合いながら生活を共にすることによって実現していくのです(創世2:24参照)。

 また、ペトロは、「命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」と記します。この御言葉は、信者である夫の妻も、イエス・キリストを信じる者であることを前提にしています。当時は家父長制社会でしたから、夫がイエス・キリストを信じるならば、その妻も、イエス・キリストを信じたのです。これは、現代とは違いますね。『日本国憲法』の第20条に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とあります。夫である自分がイエス・キリストを信じたからと言って、妻をキリスト教に入信させることはできません。そのような意味で、現在の夫たちも、御言葉を信じない妻たちに、善き生活によってキリストを証しすることが求められているのです。

 夫も妻もキリスト者である夫婦にとって、7節の御言葉は、そのまま読むことができると思います。自分と生活を共にしている伴侶は、イエス・キリストを信じて命の恵みを共に受け継ぐ者であるのです。イエス・キリストを信じる夫婦は、自分の伴侶のためにも、イエス様が命を捨ててくださったことを心に留めて、互いを重んじるべきであるのです。

 ペトロは、最後に、「そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」と記しています。ここでの「あなたがた」はイエス・キリストを信じる夫と妻のことでしょう。夫婦げんかをしているときは、一緒に祈ることができない。そうならないように、互いに配慮して、互いを重んじて共に生きるならば、夫婦の祈りが妨げられることはない。そして、ここに、キリストを信じる夫婦に与えられている大きな恵みがあるのです。

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