ヤコブとヨハネの願い 2021年9月12日(日曜 朝の礼拝)
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ヤコブとヨハネの願い
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 10章35節~45節
聖書の言葉
10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコによる福音書 10章35節~45節
メッセージ
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前回(先週)、私たちは、イエス様が、エルサレムへと上って行く途中で、弟子たちに、御自分の死と復活を予告されたことを学びました。イエス様は、御自分が侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて殺されることを知りながら、先頭に立ってエルサレムへと上られるのです。それは、旧約聖書に記されている預言を成就するためであり、私たちを愛するゆえであるのです。今朝の御言葉はその続きであります。
今朝の御言葉には、ゼベダイの子ヤコブとその弟のヨハネがでてきます。ヤコブとヨハネ、この二人は、イエス様の最初の弟子たちであります。第1章に、「四人の漁師を弟子にする」というお話しが記されていました。その四人のうちの二人がヤコブとヨハネであります。ヤコブとヨハネは、イエス様から呼ばれると、すぐに父ゼベダイを舟に残して、イエス様の後に従ったのです。彼らは父親に代表される家族を捨てて、イエス様に従ったのです。また、ヤコブとヨハネは、イエス様から、ボアネルゲス、雷の子という名前を付けられていました(3:17参照)。ヤコブとヨハネは、気性が激しかったのかも知れません(ルカ9:54参照)。ちなみに、シモンは、ペトロ、岩という名前を付けられていました。イエス様からあだ名を付けられたのは、シモンとヤコブとヨハネの三人だけです。それだけ、この三人はイエス様から可愛がられていたのです。実際、ヤイロの家を訪ねた時にイエス様が連れて行ったのは、この三人だけでした(マルコ5:37参照)。また、イエス様が、高い山に登られたとき、連れて行ったのも、この三人だけでした(マルコ9:2参照)。イエス様は、この三人を、御自分についての証人とされたのですね(申命19:15参照)。その三人のうちの二人、ヤコブとヨハネが進み出て、イエス様に、こう願うのです。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。イエス様が、「何をしてほしいか」と言われると、二人はこう言います。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。二人は、イエス様がエルサレムに上って栄光をお受けになると考えていました。イエス様がエルサレムで、メシア、王として君臨され、神の国(神の王的御支配)をもたらしてくださると考えていたのです。彼らは、イエス様から、エルサレムで起こることを、すなわち、イエス様が苦難の死を遂げられることを聞いておりながら、イエス様が栄光の座に着かれると信じていたのです。そのイエス様の右の座と左の座に、自分たちを座らせて欲しいと願うのです。第9章34節に、弟子たちが、途中でだれが一番偉いかを議論し合っていたことが記されていました。弟子たちは、イエス様から二度目の死と復活の予告を聞いても、イエス様が王様になった際の、ポスト争いをしていたのです。その弟子たちの中から、ヤコブとヨハネは抜け駆けをしたわけです。イエス様から、「一人を右に、一人を左に座らせる」という御言葉をいただいて、自分たちの地位を確かなものにしようとしたのです。そのような二人に、イエス様は、こう言われます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。イエス様が、ヤコブとヨハネに、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われるのは、なぜでしょうか。それは、イエス様の王座が十字架であるからです。第15章に、イエス様が「十字架につけられる」お話しが記されています。その25節から27節までにこう記されています。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
十字架につけられたイエス様の頭の上には、「ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられていました。これは、罪状書きでも何でもない。真実の言葉であります。イエス様がユダヤ人の王であることは、十字架においてこそ、はっきりと示されるのです。それゆえ、イエス様にとって、十字架こそが王座であり、栄光の座であるのです(このことを強調しているのが『ヨハネによる福音書』である)。そして、その王座の右と左には、二人の強盗が十字架につけられたのでした。ヤコブとヨハネが願った右の座と左の座についたのは、イエス様と一緒に十字架につけられた二人の強盗であったのです。ですから、イエス様は、ヤコブとヨハネに、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と言われたのです。イエス様が飲む杯とは何でしょうか。それを知る手がかりが、ゲツセマネの園でのイエス様の祈りにあります。イエス様は、十字架につけられる前夜、ゲツセマネの園において、こう祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。イエス様が飲まれる杯、それは神様の怒りが並々と注がれた、神様の裁きのことです(イザヤ51:17参照)。イエス様は、十字架につけられて死のうとしているわけですが、十字架の死は、神の怒りを一身に受けて裁かれる、刑罰としての死であるのです。では、イエス様が受ける洗礼とは何でしょうか。洗礼と訳されるバプテスマは、「水に沈める」という意味のバプティゾーに由来します。水に沈められてしまうこと。それは、大水に飲み込まれるような苦しみを意味します(詩69:1、2参照)。イエス様がお受けになる洗礼とは、大水に飲み込まれてしまうような苦しみを意味しているのです。イエス様は、十字架につけられる御自分の右の座と左の座を願うヤコブとヨハネに、私が受ける苦しみを受けることができるかと問われるのです。二人は「できます」と答えます。彼らは「できます」と答えましたけれども、本当の所は、自分たちが何をできると言ったのか分かっていないのです。すると、イエス様はこう言われます。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」。これは、将来のこと、イエス様が十字架の死から復活をされて、天に昇られ、聖霊を与えてくださる後のことです。イエス様が指導者たちによって捕らえられてしまうとき、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいます。イエス様が飲む杯を飲み、イエス様が受ける洗礼を受けることができると答えたヤコブとヨハネも、イエス様を見捨てて逃げてしまうのです。しかし、その彼らに復活されたイエス様が出会ってくださり、聖霊を与えてくださいました。そして、彼らをイエス様のために苦しむことを喜ぶ者としてくださるのです(使徒5:41参照)。『使徒言行録』の第12章に、ヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ一世)が教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したことが記されています。ゼベダイの子ヤコブは、12使徒の中で最初の殉教者となるのです。これは、私の想像ですが、ヤコブは、殉教の死を遂げる前に、今朝の御言葉に記されているイエス様とのやりとりを思い起こしたのではないでしょうか。イエス様から「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」という御言葉をいただいたことを思い起こしながら、平安の内に死んでいったと思うのです。では、ヨハネはどうかと言いますと、ヨハネは殉教しませんでした。伝承によれば、12使徒の中で一番長生きしたのです。では、苦しみを受けなかったかと言えば、そんなことはありません。『ヨハネの黙示録』の第1章9節にこう記されています。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスに結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」。ヨハネもイエス様の苦難にあずかっておりました。ヨハネは、イエス様を証しする者として、島流しになっていたのです。ヨハネは長生きしましたが、その生涯は、イエス様の苦しみを担い、イエス様を証しする生涯であったのです。そのようにして、ヨハネも、イエス様が飲む杯を飲み、イエス様が受ける洗礼を受けたのです。
イエス様は、続けてこう言われます。「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」。ここでの右の座と左の座は、復活して、天へと上げられ、栄光の座に着かれるイエス様の右の座と左の座であります。その右の座と左の座に誰が座るかは、イエス様が決めることではなく、神様が決められることであるのです。「定められた人々に許されるのだ」とは、「神様が定められた人々に許されるのだ」という意味ですね(神的受動態)。なぜなら、イエス様を十字架の死から復活させて、天に上げられ、栄王の座に着かせるのは神様であるからです。その神様がイエス様の右と左に座らせる人を定めておられるのです。このように、ヤコブとヨハネは、イエス様に願いをかなえていただくことができなかったのです。
他の十人の者は、これを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めました。それは、他の十人も、ヤコブとヨハネと同じ願いを持っていたからです。十人は、ヤコブとヨハネが、自分たちを出し抜いたので、腹を立てたのです。そこで、イエス様は、弟子たちを呼び寄せて、こう言われます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
異邦人とは、ユダヤ人ではない民族のことであり、まことの神を知らない人々のことです。当時、ユダヤの国は、ローマ帝国の支配の下にありましたが、ローマ人は異邦人でありました。そのローマ帝国に見られるように、民の上に立って、力を振るっている人が偉い者と見なされていました。しかし、あなたがたの間ではそうであってはいけないとイエス様は言われるのです。私の弟子であるあなたがたの間では、教会の交わりにおいては、そうであってはいけない。自分を低くして、すべての人に仕える人が偉いのだと、イエス様は言われるのです。ここでイエス様は、私たちの偉くなりたいという思いを否定してはおりません。むしろ、それを肯定しておられます。イエス様は、偉くなりたいと願う私たちに「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と言われるのです。それは、私たちの主であるイエス様が、そのような御方であるからです。イエス様は、仕えられるためではなく、仕えるために来てくださいました。イエス様は、御自分の命を身代金として与えられるほどに、私たちに仕えてくださったのです。前回も申しましたように「身代金」とは、捕虜や奴隷を自由にするために支払われた贖いの代価のことです(新改訳2017参照)。イエス様は、罪の奴隷状態である私たちを自由にするための身代金として、御自分の命を与えられるのです。イエス様は、そのようにして、私たちを罪の奴隷状態から贖い出し、御自分の民としてくださったのです(イザヤ53:10~12参照)。「すべての人に仕える者がいちばん偉大である」。この御言葉はイエス様において実現しているのです。ですから、イエス様の民である私たちも、互いに仕え合うべきであるのです。仕えるために来られたイエス様を主と仰ぐ私たち教会の交わりは、互いに仕え合う交わりであるのです。自分を低くして、兄弟姉妹に仕える人こそ、もっとも偉大な人である。それはなぜか?それは、私たちの王であるイエス・キリストが、御自分の命を与えられたほどに、私たちに仕えてくださった御方であるからです。イエス様は今も、私たちに仕えてくださっています。イエス様が今も、私たちに仕えてくださっているゆえに、私たちは、こうして礼拝をささげることができるのです(礼拝のことを英語でサービス(service)と言うが、イエス様のサービス(奉仕)があって、私たちのサービス(礼拝)が成り立つ)。