死と復活の予告 2021年9月05日(日曜 朝の礼拝)

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死と復活の予告

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章32節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」マルコによる福音書 10章32節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 小見出しに、「イエス、三度自分の死と復活を予告する」とありますように、今朝の御言葉には、イエス様の三度目の死と復活の予告が記されています。これまでイエス様は、二度、ご自分の死と復活について予告されました。最初は、第8章31節であります。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。この直前には、ペトロが、イエス様に対して、「あなたはメシアです」と告白したことが記されていました。メシアとは、油を注がれた者、王という意味であります。ペトロは弟子たちを代表して、イエス様のことを「あなたはメシアです」と告白しました。しかし、弟子たちは、イエス様がどのようなメシアであるかを理解していませんでした。当時、イスラエルは、ローマ帝国の属州であり、ローマ帝国の支配のもとにありました。イスラエルは、自分たちの王を持つことができなかったのです。そのような状況でありましたから、人々が待ち望んでいたメシアは、何よりも、イスラエルをローマ帝国の支配から開放してくださる王様でありました。弟子たちもそのように考えていたようです。そのような弟子たちに、イエス様は、ご自分がどのようなメシアであるのかを教え始められたのです。すなわち、ご自分が必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活するメシアであると教え始められたのです。また、イエス様は、第8章38節で、次のようにも言われています。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。ここで、イエス様は、ご自分が世を裁く、栄光の人の子として天使たちと共に来ることを予告しておられます。イエス様は、ご自分がユダヤの指導者たち(最高法院)から排斥されて殺され、三日の後に復活され、天にあげられ、世の終わりに天使たちと共に来る栄光のメシアであると理解していたのです。

 二度目の死と復活の予告は、第9章31節に記されています。ここでは、第9章30節から32節までを読みます。

 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 ここでは、「長老、祭司長、律法学者たち」という言葉ではなく、「人々」と記されています。イエス様は殺すのは、ユダヤの指導者たちだけではなくて、人々であるのです。弟子たちは、この言葉が分かりませんでした。分からなければ、尋ねればよいと思うのですが、彼らは怖くて尋ねられなかったのです。彼らはイエス様の不吉な言葉を聞きたくなかったし、受け入れられなかったのです。弟子たちがイエス様の言葉を受け入れていなかったことは、彼らが自分たちの中で誰が一番偉いかと議論していたことに端的に表れています(9:34参照)。弟子たちは、イエス様が王様になった後のポスト争いをしていたのです。そのような弟子たちに、イエス様は、次のように言われます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。そして、小さな者の代表である子供を弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて、こう言われたのです。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。イエス様は、小さな者の代表である子供を、ご自分の名のために、受け入れるように教えられたのです。しかし、弟子たちは、このイエス様の教えをすぐに忘れてしまいます。といいますのも、第10章13節にこう記されているからです。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」。イエス様から、私の名のために子供を受け入れるように言われていたにもかかわらず、弟子たちは人々を叱り、子供を受け入れないのです。

 このように弟子たちは、イエス様の教えをなかなか理解することができないのですが、そうであっても、彼らはイエス様に従う弟子でありました。第10章28節に、「ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』と言い出した」と記されていたように、彼らはイエス様に従って来たのです。その弟子たちに、イエス様は、今朝の御言葉において、三度目の死と復活の予告をされるのです。

 今朝の御言葉、32節にこう記されています。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」。ガリラヤにおられたイエス様一行は、ヨルダン川の向こう側のペレア地方に渡り、ユダヤ地方に来ておりました。そして、一行は都エルサレムへと上って行くのです。エルサレムには、神様が「わたしの名を置く」と言われた神殿がありました。時は、過越の祭りの季節(3〜4月)であり、多くの人々が過越の祭りを祝うためにエルサレムへと上って行きました。傍から見ると、イエス様一行も多くの巡礼団の一つに見えたかも知れません。しかし、そのエルサレムを目指されるイエス様の姿は、弟子たちを驚かせ、従う者たちを恐れさせるものであったのです。それは、イエス様がエルサレムでこれから自分の身に起ころうとしていることをご存知であったからです。

 イエス様は、エルサレムへ上っていく途中、再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」。ここで初めて「異邦人」という言葉が出てきます。異邦人とは、ユダヤ人以外の民族のことです。ユダヤ人は、世界の民はユダヤ人と異邦人からなると考えていました。イエス様の死には、ユダヤ人と異邦人からなるすべての人間がかかわっているのです。イエス様は、これからエルサレムでご自分の身に起こることを、必ず実現する神様のご計画であると考えていました。ここで「引き渡す」という言葉が二度出てきますが、イエス様を「引き渡される」の究極的には神様であるのです。そのご自分に対する神様のご計画を、イエス様はどのように知ったのでしょうか。それは、神の言葉である聖書からであります(9:12参照)。特に、『イザヤ書』の第53章と、『ダニエル書』の第7章の御言葉から、イエス様は、ご自分が苦難の死を死んで、復活し、天に挙げられ、世界を裁くために来られるメシアであることを読み解かれたのです。イエス様は、34節で、「異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」と言われていますが、このことも、『イザヤ書』の第50章に預言されています。実際に開いて、確認してみましょう。旧約の1145ページ。『イザヤ書』の第50章4節から7節までお読みします。

 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしは辱められることはない、と。

 6節に、「打とうとする者には背中をまかせ」「顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」とあります。イエス様が、「異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」と言われるとき、イエス様のお心には、『イザヤ書』の第50章の御言葉があったのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の82ページです。

 イエス様は、エルサレムで、ご自分が祭司長たちや律法学者たちに引き渡され、死刑の宣告を受けることをご存知のうえで、また、異邦人に引き渡され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれ、殺されることをご存知のうえで、エルサレムへと上っていきます。そのイエス様のお姿は、弟子たちが見て驚き、恐れるほどのお姿でありました。イエス様は、不退転の覚悟をもって、気迫に満ちてエルサレムへと上られるのです。しかし、なぜ、イエス様が死刑の判決を受けなければならないのでしょうか?なぜ、異邦人に嘲られ、唾をかけられ、鞭打たれて、殺されねばならないのでしょうか?なぜ、そのようなことをご存知のうえで、イエス様は、エルサレムへと上られるのでしょうか?その答えを知る手がかりが45節に記されています。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。「身代金」とは、捕虜や奴隷を自由にするために支払わされたお金のことです。イエス様は、多くの人(すべてのご自分の民)を罪の奴隷状態から自由にするために、身代金としてご自分の命を与えられるのです。また、ここで「身代金」と訳されている言葉(ルトロン)は「贖いの代価」とも訳すことができます(新改訳2017参照)。「贖う」とは「罪を償う」ことですから、イエス様は、ご自分の死が多くの人の罪を償う死であることを知っていたのです。『イザヤ書』の第53章の10節にこう記されています。旧約の1150ページです。

 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。

 6節に、「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に追わせられた」とあります。イエス様は、私たちのすべての罪を負った主の僕として、自らを償いの献げ物とするために、エルサレムへと上られるのです。それは、イエス様の子孫が末永く続くのを見るためであります。ここでの「子孫」とは、神様が戦利品として与えられる神様の民のことです(12節参照)。すなわち、イエス様を信じる私たちのことです。また、イエス様がエルサレムへと上られるのは、主の望まれることを成し遂げるためです。主の望まれること。それは、罪のないイエス様に、私たちのすべての罪を負わせて命をもって償わせ、私たちに平和をもたらすことでした(5節)。この神様のご意思を実現するために、イエス様はエルサレムへと上られるのです。そして、このことは、神様が私たちを愛してくださっていることの最大の表現であるのです。『イザヤ書』の第43章1節から4節までをお読みします。旧約の1130ページです。

 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の身代わりとする。

 主は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます(新改訳2017)。それゆえ、主は私たちの身代わりとして、人を与えられるのです。この人こそ、神の御子でありながら、人となられたイエス・キリストであります。神様がイエス様を遣わしてくださったこと、そして、イエス様が自らを償いの献げ物とされることは、神様とイエス様が私たちを愛してくださっているからであるのです。ですから、イエス様をエルサレムへと突き動かす原動力は何かといえば、それは、ご自分の民である私たちに対する神の愛であるのです。

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