キリストの平和 2021年8月15日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

キリストの平和

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章15節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」ヨハネによる福音書 14章15節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は、8月15日、終戦記念日であります。私たちの教会は東部中会に属しておりますが、東部中会では、8月15日を「平和を創り出す日」として覚えています(東部中会創立75周年長期計画参照)。それで、今朝は、先週の週報で予告していた箇所とは異なりますが、『ヨハネによる福音書』の第14章から、イエス・キリストの平和について、教えられたいと願っております。

 『ヨハネによる福音書』の第13章から第16章までには、イエス様が過越祭の前になされた告別説教が記されています。イエス様は、十字架に上げられるのに先立って、弟子たちに別れを告げられるのです。しかし、それは、一時の別れであります。なぜなら、イエス様は、十字架の死から三日目に復活して、弟子たちに現れてくださるからです。また、天に帰られた後で、別の弁護者である聖霊を遣わしてくださるからです。イエス様は、第14章16節と17節で、次のように言われます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」。

 イエス様は、目に見える仕方では、弟子たちのもとを離れて行きます。しかし、目に見えない仕方で、すなわち、聖霊において、弟子たちといつまでも共にいてくださるのです。そして、このことは、私たちにおいても言えることであります。イエス様は、聖霊において、私たちといつまでも共にいてくださる。そして、ここに、私たちが神様を愛し、イエス様を愛していることの秘密があるのです。イエス様は、第14章23節と24節で、次のように言われます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」。

 イエス様は、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と言われます。この所を元の言葉から直訳すると「私たちはその人のところに行き、一緒に住む」と記されています。「私たち」とは、「イエス様と父なる神様」のことです。聖霊を与えられている私たちの内には、イエス様だけではなくて、父なる神様もおられるのです。父なる神様は天におられ、イエス様は、その右の座についておられるわけですが、その父なる神様とイエス様との交わりが、聖霊において、私たちの内に実現しているのです。そして、これが『ヨハネによる福音書』が教える「永遠の命」であるのです。本来、永遠の命とは、神様が持っておられる命のことです(申命32:40「わたしは手を天にあげて誓う。『わたしの永遠の命にかけて」参照)。すべての生き物をお造りになった神様こそ、命の命であり、永遠の命をお持ちであります。その永遠の命である神様が、聖霊において、イエス様の内におられる。イエス様の内に、聖霊において、父なる神様との親しい交わりが実現しているのです。そして、ここに、イエス様がいつも父なる神様の御心を行うことができる秘密があるのです。イエス様の内に、父なる神様との永遠の愛の交わりが実現している。それゆえ、イエス様は、父なる神様を愛する愛から、父なる神様の御心を行われるのです。イエス様が、弟子たちに求めておられることも、このことですね。イエス様は、聖霊を与えられた弟子たちが、イエス様と父なる神様との親しい交わりの中で、イエス様と父なる神様を愛する愛から、掟を守ることを求めておられるのです。聖霊は目には見えません。しかし、その聖霊が私たちに与えられているとどうして分かるのか。それは、私たちがイエス様と父なる神様を愛して、その言葉を守ることによってであるのです。その言葉とは、何よりも、イエス様が弟子たちに与えられた新しい掟のことです。イエス様は、第13章34節と35節で、次のように言われます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。

 ここでの「皆」の中には、弟子である私たち自身も含まれています。私たちは、聖霊を与えられて、イエス様と父なる神様との親しい交わりに生かされている者として、互いに愛し合う。そのとき、私たちは、イエス様と父なる神様が聖霊において、確かに、私たちと共にいてくださることを体験するのです。ご存知ように、コロナウイルス感染症によって、交わりが持ちにくい状況になっています。一つの場所に集まって、礼拝をささげることも憚られる状況であります。これは、明らかに試練です。一人ひとりの信仰者としても試練ですが、共同体である教会としても試練です。しかし、その試練の中にあっても、私たちには、聖霊が与えられているのです。聖霊において、イエス様と父なる神様が共にいてくださる。聖霊が、父なる神様を愛し、イエス様を愛する愛を与えてくださり、私たちを互いに愛し合う者としてくださっているのです。また、聖霊は、私たちに平和を与えてくださっているのです。

 第14章25節から27節までをお読みします。

 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたがに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではなない。心を騒がせるな。おびえるな。

 ここで「弁護者」と訳されているパラクレートスという言葉は、「傍らに呼ばれた者」という意味です。パラクレートスとは、弁護するために、また援助するために傍らに呼ばれた者であるのです。それで、『新改訳聖書2017』は、パラクレートスを「助け主」と翻訳しています。聖霊は、私たちの弁護者であり、助け主であるのです。その聖霊のお働きは何か。イエス様は、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせる」ことだと言われます。「思い起こさせる」とは、「思い出す」ということではありません。かつて語られたイエス様の言葉を、今、私たちに語られているイエス様の言葉として聞かせてくださる、ということです。御言葉の現在化のことであります。聖霊を与えられている私たちは、聖書に記されているイエス様の御言葉を、今、私たちに語られている御言葉として聞きます。それは、私たちの内におられる聖霊のお働きによるのです。

 聖霊が、かつて語られたイエス様の御言葉を、今、私たちに対するイエス様の御言葉として、心に届けてくださる。そのようにして、イエス様は、私たちに平和を与えてくださるのです。イエス様が残し、与えてくださる平和。それは、何よりも神様との平和であります。ですから、イエス様は、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われるのです。イエス様が歩まれた時代、紀元1世紀は、ローマ帝国の時代でありました。ローマの軍事力によって、戦乱の世が終わり、平和がもたらされました。いわゆる、ローマの平和、パクス・ロマーナであります。しかし、イエス様が残し、与えてくださる平和は、そのような軍事力によるものではありません。イエス様が残し、与えてくださる平和は、十字架に上げられることによって実現される神様との平和であります。イエス様は、私たちの、いや全世界の罪を担って、十字架に上げられることによって、私たちに神様との平和、神の平和を与えてくださるのです。イエス様は、弟子である私たちに、平和を与えるために、『イザヤ書』第53章に預言されている主の僕として、十字架の死を死なれたのです。イエス様は、十字架の上で、救いを成し遂げられ、神様との平和を実現してくださったのです。聖霊は、このイエス様の御名によって遣わされるわけです。ですから、聖霊が与えられているということは、神様との平和が与えられているということであるのです。私たちは、聖霊によって、「イエスは主である」と告白し、神様を「アッバ、父よ」と呼びます。それは、聖霊が、十字架と復活の主であるイエス・キリストの聖霊であるからです(ヨハネ20:22参照)。

 イエス様は、私たちに、平和を残し、平和を与えてくださいます。私たちの内には、イエス様と父なる神様がおられ、その親しい交わりに、私たちはあずかっています。ですから、イエス様はこう言われます。「心を騒がせるな。おびえるな」。連日のコロナウイルス感染症の拡大のニュースを聞いて、私たちは心を騒がせ、おびえています。その私たちに、イエス様は、今朝、言われます。「心を騒がせるな。おびえるな」。

ご存知のように、今、感染者が非常に増加しています。私も含めて、私たちは、いつ熱を出すか分からない。熱を出すだけではなくて、コロナウイルスに感染するかも分からないのです。そのことを覚えて、私たちは、今一度、感染対策をしっかり行いたいと思います。体温の測定、マスクの着用、手指(てゆび)の消毒、換気や距離を取ることなど、今まで以上に、感染対策をしっかり行いたいと思います。また、体調の優れない方、健康に不安のある方は、どうぞ、ご自宅で、礼拝をささげていただきたいと思います。御自分で、聖書を読み、お祈りをささげる。そのあなたと、イエス様と父なる神様は共にいてくださり、平和を与えてくださいます。

 「心を騒がせるな。おびえるな」。このイエス様の御言葉は、私たちが感染対策をしなくてよいとか、私たちはコロナウイルスに感染しないことを保証するものではありません。たとえ、コロナウイルスに感染したとしても、私たちには、十字架と復活の主であるイエス・キリストから聖霊が与えられております。聖霊において、神様との平和、神の平和が与えられております。ですから、イエス様は、こう言われるのです。「心を騒がせるな。おびえるな」。

関連する説教を探す関連する説教を探す