聖書の言葉 2:18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。ペトロの手紙一 2章18節~19節 メッセージ 前回、『ペトロの手紙一』からお話ししたのは、6月20日であります。前回は、旅人であり、仮住まいの身である私たちが、どのように生活すべきかをご一緒に学びました。11節と12節にこう記されています。「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」。天国を本国とする、仮住まいの身である私たちの生活は、消極的に言えば、魂に戦いを挑む肉の欲を避ける生活であります。また、積極的に言えば、神の御心に従った善き生活であるのです。私たちが神の御心に従う善き生活に励むならば、私たちに対して悪口を言っている人たちが悪口を言わないようになる。さらには、神様をあがめるようになるのです。この11節と12節は、私たちがイエス・キリストを信じない人々の間で、どのように生きるべきかを教える原則と言えます。そして、その原則を、市民としての社会生活に当てはめたのが、13節から17節までであるのです。神の御心に従う善き生活を、市民としての社会生活に当てはめるとどうなるのか。ペトロは、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」と言うのです。「主のために」とは、「主イエス・キリストを証しするために」ということであります。すべて人間の立てた制度に従うこと、皇帝や総督に従うことは、善き行いであり、主イエス・キリストを証しすることになるのです。なぜなら、人間の立てた制度や皇帝の背後には、神様の権威があるからです。使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』の第13章で記しているように、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ローマ13:1)。それゆえ、私たちは、自由な人として、また、神の僕として、すべて人間の立てた制度に従い、政治を行う人たちや裁判官や警察に従うべきであるのです。16節に、「自由な人として生活しなさい」と記されています。また、「神の僕として行動しなさい」とも記されています。自由な人とは、神の僕であるのです。私たちは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷状態から開放された自由な人として、また、神の僕として、行動することが命じられているのです。17節にあるように、すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、政治を行う人たちを敬うことが命じられているのです。 今朝の御言葉はその続きであります。先程は、18節から25節までをお読みしましたが、今朝は18節と19節を中心にしてお話しいたします。 今朝の18節から第3章7節までは、ひとつの大きなまとまりであります。ここには、「召し使いたちへの勧め」(2:18〜25)「妻たちへの勧め」(3:1〜6)「夫たちへの勧め」(3:7)が記されています。ペトロは、第2章18節から第3章7節までに、キリスト者の家庭生活について記しているのです。召し使いとして、妻として、夫として、キリスト者はどのように生きるべきかを記しているのです。 18節と19節をお読みします。 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。 「召し使いたち」とは、家で主人に仕える奴隷のことであります。紀元1世紀のギリシャ・ローマ世界は、奴隷制度のうえに成り立っていました。ギリシャ・ローマ世界は、自由人と奴隷からなる社会であったのです。小アジアの教会にも、奴隷の身分で、イエス・キリストを信じた人たちがいたのです。ペトロは、奴隷の身分で、イエス・キリストを信じる人たちに、「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と記すのです。これが、奴隷の身分で、イエス・キリストを信じる人たちの善き生活であるのですね。また、ペトロがこのように命じるのは、主人の背後に、神様に由来する権威があるからなのです。ペトロが、「心からおそれ敬って主人に従いなさい」と記すとき、その畏れは、主人の背後にいる神様に対する畏れであるのです。召し使いのキリスト者は、神様を畏れるゆえに、主人を敬うことが求められているのです。ですから、ペトロは、「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と記すのです。ここでの「無慈悲な主人」とは「横暴(わがままで乱暴)な主人」のことです(新改訳参照)。ペトロは、「無慈悲で横暴な主人には従わなくてもよい」とは記しませんでした。そうではなくて、「無慈悲で横暴な主人であっても従いなさい」と記したのです。それは、主人に従う動機づけが、神様を畏れることであるからです。召し使いでキリスト者とされた者は、神様を畏れるゆえに、無慈悲で横暴な主人であっても、敬い、従うことが求められているのです。また、ペトロは、「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」と記します。この19節は、翻訳が難しいところであります。「神がそうお望みだとわきまえて」は、直訳すると「神の意識のゆえに」となります。また、「御心に適うことなのです」は、直訳すると「恵みなのです」となります。ですから、19節を直訳するとこうなります。「不当な苦しみを受けることになっても、神の意識のゆえに苦痛を耐えるなら、それは恵みなのです」。今朝の週報に、参考として、いくつかの聖書の翻訳を記しておきました。聖書協会共同訳は、次のように翻訳しています。「不当な苦しみを受けても、神のことを思って苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。また、新改訳2017は、次のように翻訳しています。「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです」。口語訳聖書は、次のように翻訳しています。「もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられる(ほめられる)ことである」。岩波書店から出ている翻訳聖書は次のように翻訳しています。「人が不当に苦しんでいながら、[内奥にある]神の意識のゆえに悲しみを耐え忍ぶなら、これは恵みだからである」。このように、ペトロは、主人から受ける不当な苦しみを、神様を意識して耐え忍ぶこと。神様を意識して、苦しみを耐え忍ぶことができたならば、それは神様から与えられている恵みであると記しているのです。 ペトロは、16節で、「自由な人として生活しなさい」と記しました。また、「神の僕として行動しなさい」とも記しました。キリスト者とは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷状態から自由にされた者であり、また、神の僕とされた者であるのです。しかし、だからと言って、ペトロは、召し使いでキリストを信じる者たちに、あなたがたは主人に従わなくてよいと言ったのではないのです。召し使いでキリストを信じた者は、召し使いであることに変わりはないのです。こう聞きますと、私たちは「何も変わらないではないか」とがっかりするかも知れません。しかし、忘れてはならないのは、教会の交わりにおいては、自由人も奴隷もなかったということです。使徒パウロは、『ガラテヤの信徒への手紙』の第3章26節から28節で、こう記しています。新約の346ページです。 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 教会の交わりにおいては、キリストに結ばれて、皆が神の子とされている。そこには、もはや、自由人と奴隷といった身分の違いはないのだとパウロは記すのです。そして、実際、パウロは、『フィレモンへの手紙』において、主人であるフィレモンに、逃亡奴隷であるオネシモを、主にある兄弟として受け入れてほしいと書き記すのです。実際に開いて読んでみましょう。新約の399ページ。8節から16節までをお読みします。 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします。年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったからかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。 これは驚くべき言葉です。当時、奴隷は主人の所有物でした。しかし、パウロは、フィレモンに、奴隷であるオネシモを、一人の人間として、また愛する兄弟として受け入れてほしいと記すのです。『フィレモンへの手紙』は、教会の交わりにおいて、自由人と奴隷の身分の違いを越えた、主にある兄弟姉妹の交わりが実現していたことを教えているのです。 今朝の御言葉に戻ります。新約の431ページです。 フィレモンはイエス・キリストを信じる主人でしたが、多くの主人は、キリストを信じない、無慈悲で横暴な主人でした。わがままで乱暴な主人から不当な苦しみを受ける。そのとき、どうしたらよいのか。私たちに引き寄せて考えると、どうなるでしょうか。現在は、すべての人に人権が保障されており、奴隷制度はありません。私たちは、生きていくために働かなくてはなりませんが、それは奴隷制度とは違います。職場において、上司から不当な苦しみを受けるならば、その上司をしかるべき所に訴えるべきでしょう。しかし、奴隷は、そのように主人を訴えることはできません。主人から不当な苦しみを受けても、それに耐えるしかないのです。無慈悲な主人を呪いながら耐えるしかないのです。あるいは、無慈悲な主人の奴隷である自分の運命を嘆くしかないのです。そのような召し使いが、福音を聞いて、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた。そして、教会の交わりにおいて、自由人も奴隷もない主にある兄弟姉妹の交わりを体験したのです。そのようにして、召し使いでイエス・キリストを信じた者たちは、神の家族としての天国の祝福にあずかったのです。そういう召し使いたちに、ペトロは、「神様を畏れる者として、無慈悲な主人にも従いなさい」と記すのです。神様を信じる前は、しかたなく、いやいや従っていた。しかし、神様を信じるようになってからは、主人の背後におられる神様を畏れて従いなさい、とペトロは言うのです。イエス・キリストを信じる前は、不当な苦しみを受ければ、主人を呪い、自分の運命を嘆くしかなかった。しかし、イエス・キリストを信じるあなたがたはそうであってはいけない。無慈悲な主人から受ける不当な苦しみを神様の御手から受け取りなさい。そして、神様に祈りつつ、その苦しみに耐えるならば、それは神様が与えてくださる恵みなのだ、とペトロ言うのです。 私たちがそれぞれの人生を振り返る時に、「なぜ、このようなことで苦しまなければならないのか」という体験をされたことがあると思います。そのような苦しみを神様の御手から受け取り、神様に祈りつつ、耐え忍ぶことができた。そこに、私たちは、神様から与えられた恵みを見いだすことができるのです。今、不当な苦しみを受けている。その苦しみを神様の御手から受け取り、神様に祈りつつ、耐え忍んで生きている。そうであれば、その人は今、神様から恵みを与えられているのです。私たちは、今、コロナ禍によって苦しんでいますが、コロナ禍も「不当な苦しみ」と言えるかも知れません。私たちがコロナ禍という不当な苦しみを、神様の御手から受け取り、神様を礼拝しつつ、耐え忍んで生きている。そのようにして、私たちは神様から恵みをいただいているのです。 関連する説教を探す 2021年の日曜 朝の礼拝 『ペトロの手紙一』
前回、『ペトロの手紙一』からお話ししたのは、6月20日であります。前回は、旅人であり、仮住まいの身である私たちが、どのように生活すべきかをご一緒に学びました。11節と12節にこう記されています。「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」。天国を本国とする、仮住まいの身である私たちの生活は、消極的に言えば、魂に戦いを挑む肉の欲を避ける生活であります。また、積極的に言えば、神の御心に従った善き生活であるのです。私たちが神の御心に従う善き生活に励むならば、私たちに対して悪口を言っている人たちが悪口を言わないようになる。さらには、神様をあがめるようになるのです。この11節と12節は、私たちがイエス・キリストを信じない人々の間で、どのように生きるべきかを教える原則と言えます。そして、その原則を、市民としての社会生活に当てはめたのが、13節から17節までであるのです。神の御心に従う善き生活を、市民としての社会生活に当てはめるとどうなるのか。ペトロは、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」と言うのです。「主のために」とは、「主イエス・キリストを証しするために」ということであります。すべて人間の立てた制度に従うこと、皇帝や総督に従うことは、善き行いであり、主イエス・キリストを証しすることになるのです。なぜなら、人間の立てた制度や皇帝の背後には、神様の権威があるからです。使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』の第13章で記しているように、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ローマ13:1)。それゆえ、私たちは、自由な人として、また、神の僕として、すべて人間の立てた制度に従い、政治を行う人たちや裁判官や警察に従うべきであるのです。16節に、「自由な人として生活しなさい」と記されています。また、「神の僕として行動しなさい」とも記されています。自由な人とは、神の僕であるのです。私たちは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷状態から開放された自由な人として、また、神の僕として、行動することが命じられているのです。17節にあるように、すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、政治を行う人たちを敬うことが命じられているのです。
今朝の御言葉はその続きであります。先程は、18節から25節までをお読みしましたが、今朝は18節と19節を中心にしてお話しいたします。
今朝の18節から第3章7節までは、ひとつの大きなまとまりであります。ここには、「召し使いたちへの勧め」(2:18〜25)「妻たちへの勧め」(3:1〜6)「夫たちへの勧め」(3:7)が記されています。ペトロは、第2章18節から第3章7節までに、キリスト者の家庭生活について記しているのです。召し使いとして、妻として、夫として、キリスト者はどのように生きるべきかを記しているのです。
18節と19節をお読みします。
召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
「召し使いたち」とは、家で主人に仕える奴隷のことであります。紀元1世紀のギリシャ・ローマ世界は、奴隷制度のうえに成り立っていました。ギリシャ・ローマ世界は、自由人と奴隷からなる社会であったのです。小アジアの教会にも、奴隷の身分で、イエス・キリストを信じた人たちがいたのです。ペトロは、奴隷の身分で、イエス・キリストを信じる人たちに、「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と記すのです。これが、奴隷の身分で、イエス・キリストを信じる人たちの善き生活であるのですね。また、ペトロがこのように命じるのは、主人の背後に、神様に由来する権威があるからなのです。ペトロが、「心からおそれ敬って主人に従いなさい」と記すとき、その畏れは、主人の背後にいる神様に対する畏れであるのです。召し使いのキリスト者は、神様を畏れるゆえに、主人を敬うことが求められているのです。ですから、ペトロは、「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と記すのです。ここでの「無慈悲な主人」とは「横暴(わがままで乱暴)な主人」のことです(新改訳参照)。ペトロは、「無慈悲で横暴な主人には従わなくてもよい」とは記しませんでした。そうではなくて、「無慈悲で横暴な主人であっても従いなさい」と記したのです。それは、主人に従う動機づけが、神様を畏れることであるからです。召し使いでキリスト者とされた者は、神様を畏れるゆえに、無慈悲で横暴な主人であっても、敬い、従うことが求められているのです。また、ペトロは、「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」と記します。この19節は、翻訳が難しいところであります。「神がそうお望みだとわきまえて」は、直訳すると「神の意識のゆえに」となります。また、「御心に適うことなのです」は、直訳すると「恵みなのです」となります。ですから、19節を直訳するとこうなります。「不当な苦しみを受けることになっても、神の意識のゆえに苦痛を耐えるなら、それは恵みなのです」。今朝の週報に、参考として、いくつかの聖書の翻訳を記しておきました。聖書協会共同訳は、次のように翻訳しています。「不当な苦しみを受けても、神のことを思って苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。また、新改訳2017は、次のように翻訳しています。「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです」。口語訳聖書は、次のように翻訳しています。「もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられる(ほめられる)ことである」。岩波書店から出ている翻訳聖書は次のように翻訳しています。「人が不当に苦しんでいながら、[内奥にある]神の意識のゆえに悲しみを耐え忍ぶなら、これは恵みだからである」。このように、ペトロは、主人から受ける不当な苦しみを、神様を意識して耐え忍ぶこと。神様を意識して、苦しみを耐え忍ぶことができたならば、それは神様から与えられている恵みであると記しているのです。
ペトロは、16節で、「自由な人として生活しなさい」と記しました。また、「神の僕として行動しなさい」とも記しました。キリスト者とは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷状態から自由にされた者であり、また、神の僕とされた者であるのです。しかし、だからと言って、ペトロは、召し使いでキリストを信じる者たちに、あなたがたは主人に従わなくてよいと言ったのではないのです。召し使いでキリストを信じた者は、召し使いであることに変わりはないのです。こう聞きますと、私たちは「何も変わらないではないか」とがっかりするかも知れません。しかし、忘れてはならないのは、教会の交わりにおいては、自由人も奴隷もなかったということです。使徒パウロは、『ガラテヤの信徒への手紙』の第3章26節から28節で、こう記しています。新約の346ページです。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
教会の交わりにおいては、キリストに結ばれて、皆が神の子とされている。そこには、もはや、自由人と奴隷といった身分の違いはないのだとパウロは記すのです。そして、実際、パウロは、『フィレモンへの手紙』において、主人であるフィレモンに、逃亡奴隷であるオネシモを、主にある兄弟として受け入れてほしいと書き記すのです。実際に開いて読んでみましょう。新約の399ページ。8節から16節までをお読みします。
それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします。年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったからかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
これは驚くべき言葉です。当時、奴隷は主人の所有物でした。しかし、パウロは、フィレモンに、奴隷であるオネシモを、一人の人間として、また愛する兄弟として受け入れてほしいと記すのです。『フィレモンへの手紙』は、教会の交わりにおいて、自由人と奴隷の身分の違いを越えた、主にある兄弟姉妹の交わりが実現していたことを教えているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の431ページです。
フィレモンはイエス・キリストを信じる主人でしたが、多くの主人は、キリストを信じない、無慈悲で横暴な主人でした。わがままで乱暴な主人から不当な苦しみを受ける。そのとき、どうしたらよいのか。私たちに引き寄せて考えると、どうなるでしょうか。現在は、すべての人に人権が保障されており、奴隷制度はありません。私たちは、生きていくために働かなくてはなりませんが、それは奴隷制度とは違います。職場において、上司から不当な苦しみを受けるならば、その上司をしかるべき所に訴えるべきでしょう。しかし、奴隷は、そのように主人を訴えることはできません。主人から不当な苦しみを受けても、それに耐えるしかないのです。無慈悲な主人を呪いながら耐えるしかないのです。あるいは、無慈悲な主人の奴隷である自分の運命を嘆くしかないのです。そのような召し使いが、福音を聞いて、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた。そして、教会の交わりにおいて、自由人も奴隷もない主にある兄弟姉妹の交わりを体験したのです。そのようにして、召し使いでイエス・キリストを信じた者たちは、神の家族としての天国の祝福にあずかったのです。そういう召し使いたちに、ペトロは、「神様を畏れる者として、無慈悲な主人にも従いなさい」と記すのです。神様を信じる前は、しかたなく、いやいや従っていた。しかし、神様を信じるようになってからは、主人の背後におられる神様を畏れて従いなさい、とペトロは言うのです。イエス・キリストを信じる前は、不当な苦しみを受ければ、主人を呪い、自分の運命を嘆くしかなかった。しかし、イエス・キリストを信じるあなたがたはそうであってはいけない。無慈悲な主人から受ける不当な苦しみを神様の御手から受け取りなさい。そして、神様に祈りつつ、その苦しみに耐えるならば、それは神様が与えてくださる恵みなのだ、とペトロ言うのです。
私たちがそれぞれの人生を振り返る時に、「なぜ、このようなことで苦しまなければならないのか」という体験をされたことがあると思います。そのような苦しみを神様の御手から受け取り、神様に祈りつつ、耐え忍ぶことができた。そこに、私たちは、神様から与えられた恵みを見いだすことができるのです。今、不当な苦しみを受けている。その苦しみを神様の御手から受け取り、神様に祈りつつ、耐え忍んで生きている。そうであれば、その人は今、神様から恵みを与えられているのです。私たちは、今、コロナ禍によって苦しんでいますが、コロナ禍も「不当な苦しみ」と言えるかも知れません。私たちがコロナ禍という不当な苦しみを、神様の御手から受け取り、神様を礼拝しつつ、耐え忍んで生きている。そのようにして、私たちは神様から恵みをいただいているのです。