逆らわない者は味方 2021年7月11日(日曜 朝の礼拝)
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逆らわない者は味方
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 9章38節~50節
聖書の言葉
9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」マルコによる福音書 9章38節~50節
メッセージ
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序.
今朝は、『マルコによる福音書』の第9章38節から50節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.逆らわない者は味方
12使徒の一人、ゼベダイの子ヨハネが、イエス様にこう言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」。ヨハネは、自分たちに従わない人に、イエス様のお名前で悪霊を追い出すことを禁じようとしました。しかし、イエス様はこう言われます。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。ヨハネは、先生であるイエス様のお名前が勝手に使わされていることに腹を立てました。イエス様のお名前を使って悪霊を追い出すのなら、自分たちと一緒にイエス様に従うべきであると考えたのです。しかし、イエス様ご本人は、大変おおらか(寛容)であります。イエス様は、「やめさせてはならない」と言われるのです。「私の名前を使って悪霊を追い出す者がいてもよいではないか」と言われるのです。そして、その理由として、「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と言われるのです。このイエス様の御言葉から推測すると、イエス様のお名前を使って悪霊を追い出している者は、イエス様をはっきりとは信じていなかったようです。ヨハネが「わたしたちに従わない」と言っているように、この人は、明確に、イエス様を信じる決断をしていないのです。この人は、イエス様が多くの人から悪霊を追い出されたことを見たのでしょう。それで、自分も、イエス様のお名前を使って、悪霊を追い出そうと試みた。すると、悪霊は出て行ったのです。このことを、私たちに置き換えて考えるとどうなるでしょうか。イエス様について、いろいろなことを聞いた人がいる。しかし、その人は、教会に通ってもいないし、イエス様を信じる決断もしていない。その人があるとき、イエス様の名によってお祈りをしてみる。すると、その心に平安が与えられ、お祈りが聞かれるという体験をする。そうであれば、その人は、イエス様の悪口を言えなくなる。それどころか、イエス様について良い印象を持つはずです。イエス様のお名前によって悪霊を追い出した人は、イエス様が悪霊を従わせる権威を持つ神の人だと思ったことでしょう。また、イエス様の名によってささげた祈りが聞かれれば、イエスという方は、人間と神様の間を取り持ってくださるお方だと思うでしょう。ですから、イエス様は、「わたしの名を用いることを、やめさせてはならない」と言われるのです。
さらに、イエス様はこう言われます。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。イエス様の周りには、いろいろな人たちがいました。イエス様を信じて、弟子となる人もいました。弟子にならなくても、好意を持っている人もいました。また、無関心な人もいたと思います。さらには、逆らう人(反対する人)もいました。律法学者やファリサイ派の人々は、その代表であります。第3章には、いわゆる「ベルゼブル論争」が記されていました。律法学者たちは、イエス様に対して、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていたのです。イエス様は、神の霊、聖霊によって悪霊を追い出していたのですが、エルサレムから来た律法学者たちは、イエス様が悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると中傷していたのです。そのような律法学者たちに、イエス様は、「あなたたちは、聖霊を冒涜する罪を犯している。聖霊を冒涜する罪は永遠に赦されない」と警告されたわけです。今朝の御言葉に出てくる、イエス様のお名前を使って悪霊を追い出していた人は、少なくとも、イエス様が悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているとは考えなかったはずですね。この人は、イエス様が神様から遣わされた権威あるお方であることを信じて、イエス様のお名前を使って悪霊を追い出したはずです。私たちの周りにも、いろいろな人がいます。教会に来る人もいれば、インターネットのホームページを見るだけの人もいます。あるいは、教会には来ないけれども、聖書やキリスト教に関心をもっている人もいます。あるいは、無関心な人もいます。なかには、キリスト教会に反対している人もいるかも知れません。そのような色々な人たちに囲まれている私たちに、イエス様は、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言われるのです(新改訳2017「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」参照)。このことを、私たちは、今朝、しっかりと心に刻みたいと思いますね。教会の礼拝になかなか人が来ない。そうすると、私たちは、すべての人が私たちに反対しているように錯覚してしまいます。キリスト教会に無関心な人が多いことは事実だと思います。日曜日の朝に、教会に行って礼拝をささげることに、何の意味も見いだせない人が多いことは事実だと思います。そのことをしないでこれまで生活して来たので、その必要を感じないのです。しかし、だからといって、その人たちを、私たちの方から敵視してはいけないのです。なぜなら、イエス様は、「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方なのである」と言われるからです。教会に来ない人であっても、私たちに反対しないならば、私たちの味方なのです。未信者の家族のことを考えればよく分かると思います。家族が未信者であっても、信者である自分が教会の礼拝に出席することに反対しないならば、その人は、私たち(イエス様と弟子たち)の味方であるのです。
味方とは、困ったときに助けてくれる人のことです。その私たちを助けてくれる人に対する報いを、イエス様は約束してくださいます。41節で、イエス様はこう言われます。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。ここで、「キリストの弟子だという理由で」とありますが、もとの言葉には、「弟子」という言葉はありません。元の言葉では、「キリストのものだという名前のゆえに」と記されているのです(聖書協会共同訳「キリストに属する者だという理由で」参照)。私たちは、自分たちのことを、キリスト者とか、クリスチャンと言います。私たちは、キリストに属する者たちであるのです。その私たちに、誰かが一杯の水を飲ませてくれるならば、イエス・キリストはその人に必ず報いを与えてくださるのです。それは、イエス様が、弟子である私たちと御自分とを同一視してくださるからです。キリストに属する私たちに一杯の水を飲ませてくれる人は、イエス・キリストに一杯の水を飲ませてくれる人であるのです。ですから、イエス・キリストは、その人に必ず報いを与えてくださるのです。このことは、私たちの互いの関係においても言えることです(マタイ25:31~46参照)。ですから、礼拝の後に麦茶を出せないことは残念なことであるのです。
2.つまずかせるな
42節をお読みします。
わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
イエス様は、37節で、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。「私の名のために、小さな者を受け入れなさい」と言われたのです。そのイエス様が、42節では、小さな者をつまずかせないようにしなさいと警告されるのです。「つまずかせる」とは、「罪を犯すように誘惑すること」、とりわけ「イエス・キリストを信じないようにさせてしまうこと」です。このことの実例が『コリントの信徒への手紙一』の第8章から第10章に渡って記されています。そこで、使徒パウロは、「偶像にささげられた肉の問題」のことを記しています。コリントの教会の中には、偶像に供えられた肉を食べることによって、イエス様の御支配から偶像の支配に引き戻されてしまうと考える弱い人たちがいました。その弱い人たちをつまずかせないように、パウロは、強い人たちに、偶像に供えられた肉を食べる自由を用いないようにと記したのです。イエス様を信じる小さな者をつまずかせてしまうのは、教会に反対する者だけではありません。江戸時代に、踏み絵を踏ませて、イエス様に対する信仰を捨てさせてしまうことがありましたが、そのような人たちのことがここで言われているのではないのです。イエス様の名によって小さな者を受け入れるように命じられている教会の交わりの中で、小さな者をつまずかせてしまうことが起こるのです。ですから、イエス様は、「そのような者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」と弟子たちに警告されるのです。大きな石臼(ろばの石臼)を首に懸けられて、海に投げ込まれたら、どうなるでしょうか。死んでしまいますよね。しかも苦しみながら死ぬことになるのです。イエス様を信じる小さな者をつまずかせる者は、それにまさる苦しみを、厳しい裁きを受けることになるというのです。48節に、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」とありますが、地獄(ゲヘナ)の苦しみを味わうことになるわけです(イザヤ66:24参照)。そうならないように、イエス様は、私たちに警告しておられるのです。
43節から48節までをお読みします。
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
ここで、イエス様は、自分自身をつまずかせることがないようにと警告しておられます。イエス様は、「もし、片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」と言われていますが、これ誇張法(事物を過度に大きくまた小さく形容する表現法)でありまして、そのとおりに行ってはなりません。イエス様は、誇張法を用いて、そのぐらいの覚悟をもって、永遠の命にあずかるように努めなさい、と言われているのです。このようなイエス様の御言葉を読みますと、自分で罪を犯さないで、神様の掟を守って神の国に入るようにと教えている印象を受けます。しかし、そうではありません。なぜなら、「つまずく」とは「イエス・キリストを信じないようにさせること」であるからです。イエス様は、「もし片方の手が罪を犯して、わたしを信じないようにさせるならば、切り捨ててしまいなさい」と誇張法を用いて言われたのです。それは、イエス・キリストを信じることに、私たちが天国に行くか、地獄に行くかがかかっているからです。イエス様は、片手を、片足を、片方の目を捨てるほどの覚悟で、御自分を信じることを、私たちに求められるのです。それほどまでに、私たちが永遠の命にあずかることを願っておられるのです。
3.キリスト者らしさという塩味
49節と50節をお読みします。
人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。
イエス様は、「人は皆、火で塩味を付けられる」と言われます。ここでの「火」は「地獄の火」ではなくて、「聖霊」のことであります。洗礼者ヨハネが、自分よりも後から来られる方は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言ったように、火は「聖霊」を表すのです(マタイ3:11)。聖霊である火によって付けられる塩味とは何でしょうか。それは「キリスト者らしさ」(聖霊によって私たちの内に形づくられていくイエス・キリストのかたち)という塩味です(ガラテヤ4:19参照)。イエス・キリストを信じて、聖霊を与えられた私たちは、キリスト者らしさという塩味を付けられた者たちであるのです。しかし、その塩気がなくなってしまうことがあると、イエス様は言われるのです。私たちがキリスト者らしくなくなってしまう。私たちが自分を大いなる者として、小さな者を排除することによって、私たちに反対しない人たちを敵視することによって、小さな者と自分自身の救いに無関心になってしまうことによって、私たちは、キリスト者らしさを失ってしまうのです。ですから、イエス様は、私たちに、「自分自身の内に塩を持ちなさい」というのです。キリストに属する者として、キリストの教えに従い、キリストの警告にはおののいて歩みなさいと言われるのです。さらに、イエス様はこう言われます。「そして、互いに平和に過ごしなさい」。イエス・キリストの死と復活の二回目の予告に続く一連の教えは、私たちが互いに平和に過ごすための教えであるのです。そして、その平和は、主の僕であるイエス・キリストの苦難の死に基づくものであるのです(イザヤ53:5参照)。