いちばん偉い者 2021年7月04日(日曜 朝の礼拝)

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いちばん偉い者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 9章30節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」マルコによる福音書 9章30節~37節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝は、『マルコによる福音書』の第9章30節から37節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.人々の手に引き渡される

 30節に、「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」とあります。「そこ」とは、「フィリポ・カイサリア地方」のことであります。第8章27節に、「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」と記されています。イエス様は、フィリポ・カイサリア地方で、弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。それに対して、ペトロは、「あなたは、メシアです」と答えたのでした。ペトロの信仰告白を受けて、イエス様は、御自分がどのようなメシア、王であるのかを教え始められました。イエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに教え始められたのです。そして、イエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのです。イエス様は、御自分に従う弟子としての覚悟を求められたのです。その六日の後、イエス様は、ペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて、高い山に登られました。弟子たちは、イエス様の姿が神様によって変えられ、白く輝く姿を目の当たりにしました。弟子たちは、天の声によって、イエス様こそが、神の愛する子であり、聞き従うべき御方であることを示されたのです。イエス様と三人の弟子たちが高い山から降りますと、残りの弟子たちが群衆に囲まれており、律法学者たちと議論をしていました。ある父親が息子から悪霊を追い出して欲しいと弟子たちに願いましたが、弟子たちには追い出すことができなかったのです。イエス様は、弟子たちの不信仰を嘆かれました。さらには、父親の不信仰をも嘆かれるのです。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願う父親に、イエス様は、こう言われます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。父親はすぐに叫んでこう言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。父親は、信仰のない自分をそのままイエス様にゆだねたのです。そして、イエス様は、父親の願いどおりに、息子から悪霊を追い出してくださったのです。このような出来事の後で、イエス様と弟子たちは、フィリポ・カイサリア地方を去って、ガリラヤを通って行ったのです。「ガリラヤを通って行った」とありますから、ガリラヤが目的地ではありません。ガリラヤは通過点であります。第10章1節にはこう記されています。「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」。さらに、第10章32節にはこう記されています。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」。イエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と言われました。イエス様は、御自分を排斥して殺す、長老、祭司長、律法学者たちがいるエルサレムへと向かっているのです。ガリラヤは、イエス様が神の国の福音を告げ知らせ、多くの人々を癒した場所であります。しかし、このとき、イエス様は、人々に気づかれるのを好まれませんでした。それは、イエス様の関心が、弟子教育にあったからです。イエス様は、弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われました。これはイエス様の二回目の死と復活の予告であります。ここでは、「長老、祭司長、律法学者たち」という最高法院の議員については言われていません。「人々」と漠然とした言い方がされています。イエス様を殺すのは、指導者たちだけではない、すべての人々であるのです。また、「引き渡される」とありますが、この主語は、神様であります。イエス様は、神様によって、人々の手に引き渡され、殺されるのです。そして、神様によって三日目に復活させられるのです。弟子たちはこの言葉の意味が分かりませんでした。分からなければ質問したらよいと思うのですが、弟子たちは怖くて尋ねられなかったのです。弟子たちは、イエス様の不吉な予告を聞きたくなかったのです。よく、「人は聞きたいことだけを聞く」と言いますが、弟子たちも同じであったのです。

2.いちばん偉い者

 イエス様と弟子たちはカファルナウムに来ました。カファルナウムは、イエス様のガリラヤ宣教の拠点でありました(マルコ1:21参照)。カファルナウムには、ペトロとアンデレの家がありましたので、一行が着いた家もペトロとアンデレの家であったかも知れません(マルコ1:29参照)。家に着くとイエス様は弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになりました。弟子たちは、黙っておりました。なぜなら、彼らは途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからです。このことは、弟子たちがイエス様の御言葉が分からなかったことを端的に示しています。イエス様は、御自分が人々の手に引き渡され、殺されるメシアであると教えられました。しかし、弟子たちの心は、自分たちが思い描くメシア像で一杯なのです。イエス様は、人々に引き渡され、殺されるためにエルサレムに向かっております。しかし、そのイエス様の後に従う弟子たちは、イエス様が王様になった後の側近としての順位争いをしていたのです。律法学者は正式に教えるとき、座って教えたと言いますが、ここでイエス様も座って、十二人を教えられます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。ここで注意したいことは、イエス様は、一番先になりたいという思いを否定してはいないということです。イエス様は、弟子たちの「一番偉い者」「一番大きい者」になりたいという思いを否定してはおられません。「あなたたちは一番大いなる者になりたいと願っている。そうであれば、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」とイエス様は言われるのです。仕えられる者と仕える者。食卓で食事をする者と給仕する者。どちらが偉い者でしょうか。この世においては、仕えられる者、食卓で食事をする者です。しかし、イエス・キリストにおいて到来した神の国においてはそうではないのです。すべての人に仕える者がいちばん偉大であるのです。これは、神の国の中心的な現れである教会においてもそのまま当てはまります。教会の交わりにおいて、大いなる者とは、仕えられる者ではなくて、仕える者なのです。それは、他でもない教会の頭であり、王であるイエス様が、すべての人に仕える僕であるからです。ここで、私たちが思い起こすべきは、旧約聖書の『イザヤ書』第53章に記されている「主の僕の苦難と死」の預言であります。そこには、主の僕が神様の御心に従って、多くの人の罪を自ら負って死ぬことが預言されています。イエス様は、その主の僕として、すべての人に仕える僕となられたのです。ですから、イエス様は最も偉大な御方であるのです。そのイエス様に倣うことが、弟子たちに、私たちに求められているのです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。この御言葉は、今朝、私たちに語られている主イエスの御言葉であるのです。

3.わたしの名のために

 イエス様は、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせられました。そして、子供を抱き上げてこう言われるのです。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。ここで注意したいことは、子供と訳される言葉(パイディオン)が僕とも訳すことができるということです。35節の「仕える者」(僕)と37節の「子供」がつながっているわけです。当時、子供は取るに足らない存在であると見なされていました。子供は文字通り小さい者であります。その子供を抱き上げて、イエス様は、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われるのです。私たちが受け入れたいと願うのは、どのような人でしょうか。それは地位や名誉や肩書きのある大いなる者です。地位や名誉や肩書きのない小さな者を、私たちは受け入れようとしません。しかし、イエス様は、そのような小さな者を、御自分の名によって遣わされるのです。このことは、私のような牧師のことを考えていただければよくお分かりいただけると思います。私は、地位や名誉や肩書きのない小さな者です。しかし、そのような私が語る説教を皆さんは耳を傾けて聞き、アーメンと受け入れてくださいます。それは、私がイエス・キリストによって遣わされた者であると信じているからです。イエス様から遣わされた私を受け入れることによって、皆さんは、私を遣わされたイエス様を受け入れるのです。教会がある人を牧師として招くということは、そのような信仰のうえに成り立っているのです(牧師就職式の誓約を参照)。

 イエス様は、「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と言われました。イエス様をお遣わしになった方とは、父なる神様のことであります。ユダヤでは、「遣わされた人は、その人を遣わした人自身である」と言われていました。ですから、イエス様の名のゆえに、小さな者を受け入れる人は、その小さな者を遣わされたイエス様を受け入れ、さらにはイエス様を遣わされた神様を受け入れるのです。

 ここで、つまずきとなりかねないのは、イエス様によって遣わされた牧師の小ささであります。その小ささが人々のつまずきとなるのです。この点について、宗教改革者ジャン・カルヴァンは、『キリスト教綱要』の中で、神が人間を通して、それも自分よりも劣った人間を通して語られることを認めたうえで、その理由を次のように記しています(『キリスト教綱要』4:3:1)。

 第二に、自分たちと同列の、時にしばしば我々よりも品位の劣る人を通じて御言葉が宣べ伝えられても、我々はそれに服従することに習熟させるのだから、これは我々の謙遜の最善また最有効な修練である。もし天から御自ら語られたとすれば、聖なる託宣がすべての耳と魂にたちどころに恭しく受け入れられるのは驚くに当たらない。すなわち、眼前の神の力に恐れ入らない者があろうか。神の尊厳を最初に目にしただけで打ち倒されない人があろうか。その無限の光輝に圧倒され取り乱さない者があろうか。ところが、塵から起こされたどこかの小さな人間が神の御名によって語る時、その人が我々にいかなる点においても優る所がないのに、彼の帯びる務めに対して己れを素直な者として示すならば、神そのものに対する我々の敬虔と服従が、最善の証しによって表明されるのである。したがって、この理由で主は、天上の御知恵の宝をもろき土の器に隠し(Ⅱコリント4:7)、我々がそれをどう扱うかを見て、より確かな試験をされるのである。更に加えて、一人の牧師が立てられ、他の人々を同時に教え、弟子であることを命じられた人々が一つの口から共通の教えを受けるという絆に結ばれるにまして、相互の愛を育むに相応しい道はない。すなわち、自己満足して他の人々の働きを必要としないならば(人間の素質にある思い上がりとはそういうものだ)、人は他者を軽蔑し、他人からは軽蔑されるのである。そこで主は、救いと永遠の生命の教理を人間に託し、その人の手によって他の人々に教理が分かたれるようにすることによって、最も強固な一致の結びつきを備えて、御自身の教会を結び合わせたもうた。

 取るに足らない、小さな者をキリストの名によって受け入れること。そこにおいてこそ、私たちは謙遜の最善の修練を受ける。また、私たちの敬虔と服従がはっきりと証しされるとカルヴァンは語るのです。このカルヴァンの言葉を心に留めていただいて、これからも小さな者を、キリストの名のゆえに受け入れていただきたいと願います。そして、小さな者を通して語られる神の言葉によって結び合わされた、一つの教会を形づくっていきたいと願います。

 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。このイエス様の御言葉を、私は、牧師と教会員の関係に当てはめてお話ししましたが、このイエス様の教えは、教会員同士の関係においても当てはまります。すなわち、教会の交わりは、小さな者を見下して排除する交わりではなくて、小さな者をイエス様の名のために重んじて受け入れる交わりであるのです。それは、イエス様が、その小さな者に仕えてくださり、小さな者のために命を捨ててくださったからです(一コリント8:11参照)。また、復活して、今も活きておられるイエス様が、その小さな者と共にいてくださるからです。イエス様の名のために、小さな者を重んじて受け入れる交わり。それが、イエス・キリストを主と仰ぐ教会の交わりであるのです。

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