ヨナタンとダビデの契約 2021年7月07日(水曜 聖書と祈りの会)

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ヨナタンとダビデの契約

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
サムエル記上 17章55節~18章4節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かうのを見て、軍の司令官アブネルに聞いた。「アブネル、あの少年は誰の息子か。」「王様。誓って申し上げますが、全く存じません」とアブネルが答えると、
17:56 サウルは命じた。「あの少年が誰の息子か調べてくれ。」
17:57 ダビデがあのペリシテ人を討ち取って戻って来ると、アブネルは彼を連れてサウルの前に出た。ダビデはあのペリシテ人の首を手に持っていた。
17:58 サウルは言った。「少年よ、お前は誰の息子か。」「王様の僕、ベツレヘムのエッサイの息子です」とダビデは答えた。
18:1 ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。
18:2 サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。
18:3 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、
18:4 着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。サムエル記上 17章55節~18章4節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『サムエル記上』の第17章55節から第18章4節より、「ヨナタンとダビデの契約」という題でお話しします。

 サウルは、ダビデがあのペリシテ人(ゴリアト)に立ち向かうのを見て、軍の司令官アブネルにこう聞きました。「アブネル、あの少年は誰の息子か」。するとアブネルはこう答えます。「王様。誓って申し上げますが、全く存じません」。このサウルとアブネルの対話を読んで、私たちは、「あれ、おかしいなぁ」と思うのではないでしょうか。と言いますのも、第16章において、サウルはダビデのことを大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てたからです。サウルは、エッサイに「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った」と言い送りました(16:22)。しかし、今朝の御言葉では、サウルは、ゴリアトを倒した若者がだれであるかを知らないのですね。このことは、ダビデについて、いくつかの異なった伝承があったことを示しています。そのことは、第17章54節の御言葉からも分かります。そこには、こう記されていました。「ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り、その武具は自分の天幕に置いた」。この御言葉は時代錯誤のように思います。と言いますのも、当時、エルサレムは、エブス人の町であったからです(サムエル下5:6参照)。しかし、ここでは、ダビデがエルサレムを自分の町としており、自分の天幕を持つ家長として描かれています。そのことは、ダビデとゴリアトのお話しが、ダビデがエルサレムを占領した後も言い伝えられていたことを示しているのです。このように、ダビデについては、いくつかの異なった伝承があったのです。サウルから悪霊を追い出すために、竪琴の名手として召し抱えられたという伝承もあれば、ゴリアトを倒すことによって、サウルに召し抱えられた無名の若者という伝承もあったのです。『サムエル記』の編集者は、そのどちらの伝承もそのまま記したのです。54節に、「ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り」とありました。しかし、57節を読むと、サウルの前に出た時、ダビデはあのペリシテ人の首を手に持っていたと記されています。このような矛盾に編集者は気が付いたと思いますが、伝えられた伝承のとおり記したのであります。そのことを私たちは理解して、読みたいと思います。サウルは、あのペリシテ人の首を手に持つ若者に、こう尋ねました。「少年よ、お前は誰の息子か」。するとダビデはこう答えます。「王様の僕、ベツレヘムのエッサイの息子です」。ある研究者は、サウルが、このように尋ねたのは、25節の約束のゆえであると言っています。25節の兵の言葉によれば、王様は、あのペリシテ人を討ち取った者に、大金と王女を与え、その父の家に特典を与えることを約束していました。その約束を実現するために、サウルはダビデのことを知っていながら、ダビデが誰の息子であるのかを尋ねたというのです。このように解釈しますと、第16章と第17章は、矛盾することなく読むことができます。しかし、ダビデについては、いくつかの伝承があったと理解した方が良いと思います。もう一つだけ言いますと、第16章18節で、従者は、竪琴の名手であるダビデのことを、「勇敢な戦士で、戦術の心得もあり」と言っています。しかし、第17章39節で、ダビデは、鎧や兜や刀には慣れていないと語っています。ダビデは戦士としてではなく、羊飼いとしてゴリアトと戦い、勝利するのです。このように、ダビデについての記述には食い違いがあるのです。それは、ダビデについての異なる伝承があったことを示しているのです。

 ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛しました。「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びついた」とは、ヨナタンがダビデに一目惚れをしたということです。『レビ記』の第19章18節に、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」と記されています。まさに、ヨナタンは、この掟のとおりダビデを愛したのです。それは、ダビデが美しい若者であったからではなく、主に信頼する人物であったからでしょう。ヨナタンの活躍については、第14章に記されていましたが、そこで、ヨナタンはこう語っておりました。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」。また、ダビデは、サウルにこう言っておりました。「わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません」。このように、ヨナタンもダビデも、イスラエルの神、主を信じる者であるのです。「類は友を呼ぶ」(「似た者同士は自然と寄り集まる」の意)と言いますが、信仰熱心なヨナタンは、信仰熱心なダビデに一目惚れをして、自分のように愛したのです。サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許しませんでした。彗星の如く現れたダビデという伝承においても、ダビデはサウルに仕えるようになるのです。

 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結びました。これは、ヨナタンがダビデと友情を結んだということです。ヨナタンは、ダビデに、着ていた上着を脱いで与え、自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えました。このことは、ヨナタンがダビデを自分のように愛していたことを表しています。ヨナタンは、自分のようにダビデを愛していたので、自分の大切な上着や装束を与えるのです。そのようにして、ヨナタンは、ダビデを友人として、自分と対等の者として扱うのです。ここには、ダビデの気持ちは記されていませんが、ダビデもヨナタンを自分のように愛したと思います。ダビデのヨナタンに対する気持ちは、サウルとヨナタンの死を悼む歌の中に記されています。今朝は、そのところを読んで終わります。『サムエル記下』の第1章25節と26節をお読みします。旧約の481ページです。

 ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはイスラエルの高い丘で刺し殺された。あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女にまさる驚くべきあなたの愛を。

 神様は、ダビデに信仰の友を備えてくださいました。そして、神様は、私たちにも主イエス・キリストを信じる信仰の友を備えてくださったし、これからも与えてくださるのです。  

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