この戦いは主のもの 2021年6月23日(水曜 聖書と祈りの会)
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この戦いは主のもの
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記上 17章41節~54節
聖書の言葉
17:41 ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。
17:42 彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。
17:43 このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、
17:44 更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
17:45 だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。
17:46 今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。
17:47 主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」
17:48 ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。
17:49 ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。
17:50 ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。
17:51 ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。
17:52 イスラエルとユダの兵は立って、鬨の声をあげ、ペリシテ軍を追撃して、ガイの境エクロンの門に至った。ペリシテ人は刺し殺され、ガトとエクロンに至るシャアライムの道に倒れていた。
17:53 イスラエルの兵士はペリシテ軍追撃から帰ると、彼らの陣営を略奪した。
17:54 ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り、その武具は自分の天幕に置いた。サムエル記上 17章41節~54節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記上』の第17章41節から54節より、「この戦いは主のもの」という題でお話しします。
ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいてきました。この「ペリシテ人」は4節に記されていた、大男で怪力の戦士、ゴリアトのことであります。ゴリアトは、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮りました。そして、こう言うのです。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか」。ゴリアトは、頭に青銅の兜をかぶり、青銅の鎧を着て、足には青銅のすね当てを着けていました。また、肩には青銅の投げ槍を背負っており、穂先は鉄でできていました。ゴリアトは、戦士として、青銅の防具を身に着け、鉄の武器を手にしていたのです。しかし、ダビデは、兜も鎧も身に着けずに、剣や槍も手にしていませんでした。彼は、いつもの羊飼いの姿で、杖を持っていたのです。そのダビデを、ゴリアトは自分の神々によって呪います。第5章に、ペリシテ人がイスラエルから奪った神の箱を、ダゴンの神殿に運び込んだことが記されていました。ゴリアトは、ダゴンなどのペリシテ人が信じている神々の名でダビデを呪ったのです。そして、こう言うのです。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」。ゴリアトは大男で怪力でしたから、声も大きかったのではないかと思います。そのゴリアトから、このように言われれば、恐ろしくて震えだしてしまいそうですが、ダビデは違いました。ダビデは、ペリシテ人にこう言い返すのです。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」。ここには、ダビデの驚くべき信仰が語られています。ダビデは、剣や槍で向かってくるゴリアトに、彼が嘲笑ったイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によって立ち向かうと言うのです。主は、御自分の御名に依り頼むダビデに勝利を与えることによって、イスラエルに神がいますこと、主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされないことを示されると言うのです。このダビデの信仰は、イスラエルのまことの王が主であるという信仰であります。
第10章に、サムエルがミツパで主のもとに民を呼び集めたことが記されていました。その17節から19節までをお読みします。442ページです。
サムエルはミツパで主のもとに民を呼び集めた。彼はイスラエルの人々に告げた。「イスラエルの神、主は仰せになる。『イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ。わたしがあなたたちをエジプトの手から救い出し、あなたたちを圧迫するすべての王国からも救い出した』と。しかし、あなたたちは今日、あらゆる災難や苦難からあなたたちを救われたあなたたちの神を退け、『我らの上に王を立ててください』と主に願っている。よろしい、部族ごと、氏族ごとに主の御前に出なさい。」
この後、くじによって、サウルが王として選ばれるわけですが、ダビデは、主がイスラエルの王として、あらゆる災難や苦難からイスラエルを救って来られたことをしっかりと覚えていたのです。
また、第12章に「サムエルの告別の言葉」が記されています。その13節と14節をお読みします。
今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならばそれでよい。
飛んで24節と25節をお読みします。
主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。
このように、主は王をイスラエルの民に与えられました。それは、イスラエルの民が主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従うためであったのです。特に、王は主の御言葉に従うことによって、イスラエルのまことの王が主であると示すことが求められていました。サウルはこの点において失格者であったのです。しかし、ダビデは違います。ダビデは、イスラエルのまことの王が万軍の主であることを信じていました。それゆえ、ペリシテ人との戦いは、主のものであるのです。ダビデは、イスラエルのまことの王が万軍の主であり、自分はその勝利のために用いられる器に過ぎないことを信じていました。そして、このような信仰こそが、王にふさわしい信仰であるのです。キリストの教会である私たちにとって、戦いとは霊的な戦いであり、福音宣教の戦いとも言えます。ゴリアトに象徴される世の力は強く、福音宣教はなかなか進展しません。礼拝出席者は増えるどころか、減っています。けれども、私たちは、この戦いが主イエス・キリストの戦いであることを思い起こしたいと思います(マタイ16:18「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」、28:20「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」参照)。主イエス・キリストが、世との戦いにすでに勝利しておられることを思い起こしたいと思います(ヨハネ16:33「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」参照)。使徒言行録は、イエス・キリストが聖霊において、弟子たちを通して働かれた記録であります。イエス・キリストは、今も、弟子である私たちに聖霊を与えて、私たちを用いて、福音宣教という霊的な戦いを戦っておられるのです。ですから、私たちは、教会の王であるイエス・キリストの御名を大胆に宣べ伝えていきたいと願います。この戦いは主のものであり、勝利が約束されていることを信じて、主イエス・キリストの御名を大胆に宣べ伝えていきたいと願います(使徒4:31参照)。
ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来ました。また、ダビデもペリシテ人と立ち向かうために戦いの場へ走って行きました。ダビデは袋に手を入れて、小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばしました。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れました。石投げ紐は、石を挟んで、頭上でぐるぐる振り回し、遠心力で飛ばす道具です。羊飼いは野獣を倒すために用いていましたが、アッシリアの軍隊などでは、重要な武器として用いられていました。ダビデは、石投げ紐と石一つで、ペリシテ人に打ち勝ったのです。ダビデは、47節で、「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされない」と言っていましたが、そのことを実証してみせたのです。ダビデは剣を持っていませんでしたので、ペリシテ人の剣を取り、その剣でとどめを刺し、首を切り落としました。これを見たペリシテ軍は、逃げ出しました。それは彼らが、イスラエルに神がいますことを認めたからです。ダビデは、46節で、「全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう」と言いましたが、ペリシテ軍は自分たちの勇士が殺されたのを見て、そのことを認めたのです。また、イスラエル軍も、ダビデがゴリアトに勝利したのを見て、自分たちと共に神がおられることを認めたのです。それゆえ、ペリシテ軍は逃げだし、イスラエル軍は鬨の声をあげて、ペリシテ軍を追撃したのです。キリストの教会である私たちが、自分たちと共に神がおられると認めることができるのは、どのようなときでしょうか。それは、主イエス・キリストの名によって集まり、礼拝をささげているときです。私たちは礼拝においてこそ、神が共におられる、インマヌエルの祝福を味わうことができるのです。礼拝においてこそ、私たちは鬨の声をあげることができるのです。福音宣教という戦いを戦う私たちにとって、礼拝はその最前線であり、養いを受ける補給基地であるのです。