神の僕として生きよ 2021年6月20日(日曜 朝の礼拝)
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神の僕として生きよ
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- 村田寿和 牧師
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ペトロの手紙一 2章11節~17節
聖書の言葉
2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、
2:14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
2:16 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。ペトロの手紙一 2章11節~17節
メッセージ
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序.前回の振り返り
前回(5月30日)、私たちは、イエス・キリストを信じる私たちが生きた石であり、聖なる祭司であることを学びました。神様は、イエス・キリストを信じる私たちを生きた石として用いて、霊的な家である教会を建て上げてくださいます。また、神様は、イエス・キリストを信じる私たちを聖なる祭司として、御自分に仕える者、御自分の力ある業を宣べ伝える者としてくださったのです。9節に、こう記されていました。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」。ここに、私たちがキリストの教会として集い、主の日ごとに礼拝をささげている目的があります。私たちは、主イエス・キリストによって暗闇の中から驚くべき光の中へ招き入れていただいた者として、主イエス・キリストの力ある業を、十字架と復活を宣べ伝えているのです。神様は、私たちが神様を礼拝し、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために憐れみ、御自分の民としてくださったのです。
今朝の御言葉はその続きであります。
1.立派に生活しなさい
11節と12節をお読みします。
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
ペトロは、小アジアのキリスト者たちに「愛する人たち」と呼びかけます。「愛する人たち」とは「愛されている人たち」とも言い換えることができます。小アジアのキリスト者たちは、ペトロから愛されている人たち、さらには、イエス・キリストの父である神から愛されている人たちであるのです。ペトロの愛は、イエス・キリストの父である神を源としているのです。それゆえ、私たちは、「愛する人たち」というペトロの言葉を、私たち自身に対する呼びかけとして読むことができるし、読むべきであるのです。
ペトロは、神様を源とする愛をもって、次のように勧めます。「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。私たちキリスト者が仮住まいの身であることは、第1章1節と17節に記されていました。イエス・キリストを信じる私たちは、天に本国を持つ者であり、地上では旅人、仮住まいの身であるのです。私たちは、天国を目指す旅人であり、地上では仮住まいの身である。こう聞きますと、この地上の生活を好きなように過ごしてもよいのではないか、と思われるかも知れません。しかし、ペトロはこう勧めます。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。ここでの「魂」は、イエス・キリストを信じて、神様の御心を知った私たちのことであります。また、「肉の欲」とは、生まれながらの私たちが持つ自己中心的な欲望のことです。この「肉の欲」については、第4章3節に具体的に記されています。ここでは、第4章1節から4節までをお読みします。新約の432ページです。
キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく、神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
私たちは、イエス・キリストを信じて、魂の救いを受けており、神様の御心に従って生きる者とされました。しかし、私たちには、なお罪が残っておりますので、肉の欲に捕らわれて、罪を犯してしまうのです。私たちは、魂に戦いを挑んでくる肉の欲を避けなければならないのです(ガラテヤ5:16~21参照)。また、私たちは、肉の欲を駆り立てるものから自分を遠ざけねばならないのです(一ヨハネ5:21参照)。
今朝の御言葉に戻ります。新約の430ページです。
ペトロは、旅人であり、仮住まいの身である私たちに、「異教徒の間で立派に生活しなさい」と勧めます。「立派」と訳されている言葉(カロス)は、「善い」とか「美しい」とも訳すことができます。「イエス・キリストを信じていない人たちの間で、善い生活、美しい生活を送りなさい」というペトロは言うのです。旅人であり、仮住まいの身である私たちキリスト者の生活は、消極的言えば、魂に戦いを挑む肉の欲を避ける生活であります。また、積極的に言えば、神様の御心に従う善き生活であるのです。「善き生活」という言葉は、私たち改革派教会の創立宣言の第二の主張の中に出て来る言葉でもあります。創立宣言には、二つの主張があります。第一の主張点は、「有神的人生観乃至世界観こそ新日本建設の唯一の確かなる基礎なり」という主張です。そして、第二の主張点は、「地上に於いて、見えざる教会の唯一性が、一つの信仰告白と、一つの教会政治と、一つの善き生活とを具備せる『一つなる見ゆる教会』として具現せらるべきを確信す」という主張です。「善き生活」は、私たち改革派教会が最初から重んじてきたことであるのです。神様の御言葉に従った善き生活があってこそ、教会は具体的にこの地上に現れる。私たちが神の民であることは、神様の御言葉に従う善き生活によって示されるのです。ペトロは、「そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」と記します。小アジアのキリスト者たちは、イエス・キリストを信じたゆえに、周りの人たちから悪人呼ばわりされていました。しかし、小アジアのキリスト者たちが神様の御心に従って善き生活に励むならば、その善き生活をよく見ている周りの人たちが、訪れの日に神をあがめるようになる、とペトロは言うのです。ここでの「訪れの日」には、二つの解釈があります。一つは「イエス・キリストが天から来られる日である」という解釈です。そして、二つ目は「キリスト者のことを悪人呼ばわりしている人の心をイエス・キリストが訪れてくださる日である」という解釈です。私は、二番目の解釈を取りたいと思います。私たちが神様の御言葉に従って善き生活に励むならば、神様はその私たちの善き生活を用いてくださって、救われる者たちを起こしてくださるのです。私たちの善き生活は、福音宣教を推進する大きな力であるのです(マタイ5:16参照)。それゆえ、私たちは、イエス・キリストを信じていない多くの人々の間で、イエス・キリストに従う善き生活に励むことが求められているのです。
2.王に服従しなさい
13節から15節までをお読みします。
主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
13節と14節は、私たちキリスト者と国家の関係について教えています。イエス様をキリスト、王と信じる私たちは、統治者としての王(皇帝)に従わなくてもよいのかと言えば、そうではありません。ペトロは、私たちが主のために、人間の立てた制度に従うこと。王や総督に服従することを命じています。「王や総督に服従する」とは、私たちに当てはめて言えば、「政治を行う人たちや裁判官や警察に服従する」と言えるでしょう。主のために、私たちが人間の立てた制度に従い、政治を行う人たちや裁判官や警察に服従するならば、それは「善を行う」ことであるのです。「服従する」と訳されている言葉(ヒュポタッソー)の元々の意味は「下に配置する」という意味です。王に服従するには、王の下に自分を置かなければなりません。そのように、服従するとは、他の人の下に、自分を置く、能動的な行為であるのです。使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第13章で、「上に立つ権威」について教えています。新約の292ページです。第13章1節と2節をお読みします。
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
ここでパウロは、すべての上に立つ権威は神様によって立てられているのだから、従うべきであると記しています。その権威者がイエス・キリストを信じない者であっても、神様によって権威を与えられているゆえに、従うべきであるのです。これが、旧約聖書に記されているユダヤ人の考え方でありますね。そのことは、『ダニエル書』を読むとよく分かります。『ダニエル書』には、バビロンの宮廷でのダニエルと三人の友だちの物語が記されています。そこで、ユダヤ人であるダニエルたちは、バビロンの王様に誠実に仕えています。それは、ダニエルたちが、バビロンの王様もイスラエルの神、ヤハウェによって立てられていることを知っていたからです。そのことは、バビロンの王ネブカドネツァルの夢で示されたことでありました。すなわち、「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神の御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできる」のです(ダニエル4:14)。ただし、ダニエルと三人の友だちは、王様の命令なら何でも従ったわけではありません。王様から金の像を拝むように命じられたとき、三人の友だちは従いませんでした。「わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」と答えたのです(ダニエル3:18)。また、ダニエルも、「王様を差し置いて他の人間や神に願いごとをする者は、獅子の洞窟に投げ込まれる」という王の禁令を知りながら、いつものように、二階の部屋の開かれた窓際にひざまずき、エルサレムに向かって祈りと賛美をささげました。このように、ダニエルたちは、王様の命令が神様の掟に背く場合は、王様ではなく、神様に従ったのです(使徒5:29「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」参照)。しかし、そうではない場合は、バビロンの王様に、忠実に従ったのです(ダニエル6:23参照)。それは、バビロンの王様も、イスラエルの神、ヤハウェによって立てられていることを信じていたからなのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の430ページです。
「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」の「主のために」とは、文脈から言えば、「主イエスを証しするために」という意味であります。私たちキリスト者にとって、すべて人間の立てた制度に従うこと。政治を行う人たちや裁判官や警察に従うことは、主イエスを証しする善い行いであるのです。そして、神様の御心は、私たちが人間の立てた制度や政治を行う人たちに服従する善い行いによって、イエス様を信じない人たちの無知な発言を封じることであるのです。「無知な発言」とは、イエス・キリストを信じる者たちを悪人呼ばわりする発言のことです。イエス・キリストを信じるゆえに、周りの人から悪口を言われる。そのとき、私たちはどうすればよいのか。主を証しする善い生活に励めばよいのです。その私たちの生活をよく見ている周りの人たちは、私たちを悪人呼ばわりしなくなるのです。さらには、イエス様がその人の心を訪れてくださる日に、神様をあがめるようになるのです。
3.神の僕として生きよ
16節と17節をお読みします。
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
ここでの「自由な人」とは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷状態から自由にされた人のことです。その自由の名のもとに、悪事をしてはいけないとペトロは記します。ペトロは、自由と放縦を混同しないように戒めているのです。神様によって自由にされた人は、神様の僕であります。このことは、神様によって奴隷の家、エジプトから導き出されたイスラエルの人々のことを考えるならば、よく分かります。イスラエルの民は、主によって、エジプトの奴隷状態から解放され、自由な人になりました。そのイスラエルの民に対して、神様はこう言われました。「エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である」(レビ25:42)。また、『イザヤ書』の第40章以降を読むと、神様は、イスラエルの民を「わたしの僕」と何度も呼んでおります(イザヤ41:8、9参照)。私たちは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷状態から解放されて自由な人になりました。それは悪事を行う自由ではなくて、神の僕として行動する自由であるのです。神の僕として生きるところに、本当の自由があるのです(ヨハネ8:32「真理はあなたたちを自由にする」参照)。
ペトロは、17節で、私たちが神の僕としてどのように行動すべきかを短く記します。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。これらのことを完全に行われたのが、主の僕であるイエス・キリストでありました。主の僕であるイエス様は、すべての人を御自分の目に高価で尊い者と見なし、御自分の民である弟たち、妹たちを愛し、父なる神様の御心に従い、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれて十字架の死を死なれました。イエス様がローマの総督ポンテオ・ピラトのもとで裁きを受けられたことは、イエス様が皇帝を敬われたことを示しているのです。私たちは、主イエスに倣う神の僕として、すべての人を敬い、兄弟を愛し、神様を畏れ、政治を行う人たちを敬う者でありたいと願います。