私の不信仰を助けてください 2021年6月13日(日曜 朝の礼拝)

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私の不信仰を助けてください

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 9章14節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。マルコによる福音書 9章14節~29節

原稿のアイコンメッセージ

序.前回の振り返り

 先週、私たちは、イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて、高い山に登られたこと。その山の上で、イエス様の姿が変えられ、真っ白に輝いたこと。雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声がしたことを御一緒に学びました。イエス様こそ、神様に油を注がれた王であり、神の独り子であり、聞き従うべき預言者であるのです。今朝の御言葉はその続きであります。

1.信仰のない時代

 イエス様と三人の弟子たちが高い山から降りて、ほかの弟子たちのところに来ると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していました。群衆は皆、イエス様を見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶しました。イエス様が、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者がこう答えます。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」。イエス様が、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子たちを連れて、高い山に登られていた間に、この人は、息子から悪霊を追い出してもらおうと、イエス様のもとに来ました。しかし、イエス様はおられない。それで、弟子たちにお願いした。弟子たちも悪霊を追い出したことがありました。第6章に、イエス様が十二人を二人ずつ組にして遣わされたこと。十二人が多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしたことが記されています。ですから、弟子たちは、悪霊を追い出すことができると思って、引き受けた。しかし、弟子たちは悪霊を追い出すことができなかった。その様子を見ていた律法学者が、弟子たちに議論をしかけてきた。群衆はその様子を興味本位で眺めている。そのような状況であったのです。

 このある者の言葉を聞いて、イエス様は、こうお答えになりました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」。このイエス様の御言葉は、弟子たちのことを念頭において語られています。弟子たちは、イエス様から悪霊を追い出す権能を与えられていました(マルコ3:14、6:7参照)。しかし、弟子たちは、悪霊を追い出すことができなかったのです。それで、イエス様は、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれるのです。六日前、イエス様は弟子たちに、御自分が多くの苦しみを受けて、殺され、三日目に復活することになっていること。そして、天へと上げられ、終わりの日に栄光の人の子として再び来られることを教えられました。イエス様は、いつまでも弟子たちと共にいることはできないのです。そのことを念頭に置きながら、イエス様は、「いつまであなたがたと共にいられようか」「いつまで忍耐しなければならないのか」と言われるのです。そして、悪霊に取りつかれた子を自分のもとに連れて来るようにお命じになるのです。

2.私の不信仰を助けてください

 人々は息子をイエス様のところに連れて来ました。悪霊は、イエス様を見ると、すぐにその子をひきつけさせました。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。このようにして悪霊は、イエス様に対して抵抗するのです。イエス様が父親に「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになると、父親はこう答えました。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」。息子は幼い時から悪霊に取りつかれていました。ですから、父親は長い間、息子を苦しめる悪霊によって、苦しめられて来たのです。「わたしどもを憐れんで助けてください」とあるように、息子を憐れんで助けることは、父親を憐れんで助けることでもあるのです。ここで父親は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください」と言いました。「おできになるなら」という言葉には、イエス様に対する疑いの心が表れています。なぜ、このとき、父親は「おできになるなら」と言ったのでしょうか。それは、イエス様の弟子たちが、できなかったからです。父親は、イエス様の弟子たちができなかったので、イエス様に対しても、「おできになるなら」と言ってしまったのです。この父親の言葉を受けて、イエス様はこう言われます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。イエス様が、「信じる者には何でもできる」と言われるとき、それは「神様を信じる者には何でもできる」という意味です。第10章27節で、イエス様は、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われます。神は何でもできる。それゆえ、その神様を信じる者には何でもできるのです。つまり、信仰そのものに力があるのではなくて、信じている神様が力の源であるのです。人間は神様を信じることによって、神様の全能の力にあずかることができるのです。イエス様が、「信じる者には何でもできる」と言われるとき、その「信じる者」とは、イエス様本人のことです。イエス様が悪霊を追い出すことができるのは、御自分を遣わされた父なる神様を信じているからなのです。

 イエス様の御言葉を聞いて、その子の父親はすぐにこう叫びました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。父親の言葉、「おできになるなら」という言葉には、イエス様に対する疑いの心が表れていました。そのことをイエス様から指摘されて、「信じる者には何でもできる」という言葉を聞いたのです。父親は、このイエス様の言葉を、「信じる者となりなさい」という招きの言葉として聞いたようです。父親が「信じます」と言うとき、それは、「信じる者には何でもできる」と言われるイエス様を信じます、ということです。神様を信じて悪霊を追い出すことができるイエス様を信じます、ということです。そして、その言葉に続けて、父親はこう言うのです。「信仰のないわたしをお助けください」。「信じます」と言いながら、その直ぐ後で、「信仰のないわたしをお助けください」と、なぜ言うのか。それは、父親の信仰が完全な信仰ではないからです。イエス様は父なる神様を完全に信頼しておられます。しかし、父親は完全に神様を、またイエス様を信頼することができないのです。父親は、イエス様から疑いの心を指摘されても、疑いの心を完全に無くすことはできないのです。ですから、父親は、「信じます」と言った後で、「信仰のないわたしをお助けください」と言うのです。「信仰のないわたしをお助けください」。この御言葉は元の言葉を直訳すると「私の不信仰をお助けください」となります(岩波訳参照)。イエス様から「信じる者には何でもできる」と言われて、人は、信じることができるかと言えば、そんな簡単な話ではありません。信じますと言いながら、信じられない自分がいる。その信じられない自分をまるごとイエス様にゆだねるのです。

3.祈りによらなければ

 イエス様は、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになりました。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」。すると、悪霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行きました。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言いました。しかし、イエス様が手を取って起こされると、立ち上がったのです。このようにして、イエス様は、父親と息子を憐れんで助けてくださったのです。

 イエス様が家の中に入られると、弟子たちはひそかに、こう尋ねました。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」。すると、イエス様はこう答えられます。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」。イエス様は、弟子たちが悪霊を追い出せなかったことを聞いたとき、「なんと信仰のない時代なのか」と言われました。信仰のない弟子たちは、祈らなかったのです。自分たちは、イエス様から悪霊に対する権能を授けられていると考えて、彼らはイエス様を信頼することも、イエス様に祈ることもしなかった。ある説教者は、「そんなことはない。弟子たちだって祈ったはずだ」と言っています。そして、「弟子たちの祈りは祈りになっていなかった」と言うのです。口先では、「イエス様、この子供から悪霊を追い出してください」と祈ったかも知れない。しかし、その心は、イエス様から遠く離れていた。イエス様を信じきれない、疑いがあったと言うのです。

イエス様の癒し、それはイエス様において神の国が到来していることを示す出来事啓示であります。ですから、啓示の書物である聖書が完結している時代において、癒しの奇跡は原則として止んでおります。現代において、イエス様は、医療を通して、癒しの業をなされています。お医者さんの手やお薬を通して、私たちはイエス様の癒しの業にあずかることができるのです(一般恩恵)。では、今朝の御言葉を、私たちは、どのように解釈したらよいのでしょうか。私は、礼拝の説教のことを考えたらよいと思います。なぜなら、礼拝の説教においてこそ、私たちは悪霊の支配から解放されるからです。私は、御言葉の教師として、中会で按手を受け、イエス様から御言葉の語る権能を授けられて、羽生栄光教会に遣わされている者であります。では、私は何の用意もせずに説教を語ることができるかと言えば、そんなことはありません。説教の準備をするときには沢山の書物を読みます。また、説教原稿を書くときには、書けるだろうかと不安になります。それこそ、祈りがなければ説教の原稿を書き、語ることはできないのです。今朝の御言葉で、イエス様が問題にしているのは、悪霊を追い出す弟子たちの信仰と、悪霊を追い出してもらうことを願う父親の信仰であります。礼拝の説教に置き換えれば、説教を語る説教者の信仰と、説教を聴く聴衆の信仰が問題とされているのです。そのとき、改めて気づかされることは、その信仰が不完全であるということであります。私たち(説教者と聴衆)も、この父親のように、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫ばざるをえないのです。そのような叫びとして、公同の祈りの中で、聖霊なる神様に「説教者を聖霊で満たし、御言葉の真理を大胆に、分かりやすく語ることができるようにしてください。また、説教を聴く一人一人の心を照らして、信仰をもって聞き従うことができるようにしてください」と祈るのです(聖霊の啓明を求める祈り)。そのように、神様に信仰を祈り求めて、説教者は語り、聴衆は聞くのです。そして、イエス様は、そのような私たちから、神の言葉を聞くことができない悪霊を追い出して、神の言葉を聞くことができるようにしてくださるのです。神様をほめたたえることのできない悪霊を追い出して、神様をほめたたえることができるようにしてくださるのです。

結.真実(まこと)の信仰

 今朝は、最後に、『ハイデルベルク信仰問答』から「まことの信仰」について学んで終わりたいと思います(春名純人訳)。

第21問 真実(まこと)の信仰とは、何ですか。

答 真実(まこと)の信仰とは、神が御言葉において、わたしたちに、啓示されたすべてのことを、みな真理と見なす、確実な認識のことであるばかりでなく、聖霊が、福音によって、わたしたちの心に起こして下さる、心からの信頼のことでもあります。それによって、罪の赦しと永遠の義と救いが、他の人にばかりでなく、このわたしに、神から与えられていること、しかも、それが、ただ恩恵(めぐみ)により、キリストの御業のゆえに、与えられていることを確信するのです。

 イエス様は、このような、まことの信仰を、福音の説教を通して、私たち(説教者と聴衆)に、今も与えてくださるのです。

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