憤るダビデ 2021年6月09日(水曜 聖書と祈りの会)
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憤るダビデ
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記上 17章12節~30節
聖書の言葉
17:12 ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった。
17:13 エッサイの年長の息子三人は、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに出た三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであり、
17:14 ダビデは末の子であった。年長の三人はサウルに従って出ていたが、
17:15 このダビデは行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていた。
17:16 かのペリシテ人は、四十日の間、朝な夕なやって来て、同じ所に立った。
17:17 さて、エッサイは息子ダビデに言った。「兄さんたちに、この炒り麦一エファと、このパン十個を届けなさい。陣営に急いで行って兄さんたちに渡しなさい。
17:18 このチーズ十個は千人隊の長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい。」
17:19 サウルも彼らも、イスラエルの兵は皆、ペリシテ軍とエラの谷で戦っていた。
17:20 ダビデは翌朝早く起き、羊の群れを番人に任せ、エッサイが命じたものを担いで出かけた。彼が幕営に着くと、兵は鬨の声をあげて、戦線に出るところだった。
17:21 イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合って戦列を敷いていた。
17:22 ダビデは持参したものを武具の番人に託すと、戦列の方へ走って行き、兄たちの安否を尋ねた。
17:23 彼が兄たちと話しているとき、ガトのペリシテ人で名をゴリアトという戦士が、ペリシテ軍の戦列から現れて、いつもの言葉を叫んだのでダビデはこれを聞いた。
17:24 イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた。
17:25 イスラエル兵は言った。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」
17:26 ダビデは周りに立っている兵に言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」
17:27 兵士たちはダビデに先の言葉を繰り返し、「あの男を討ち取る者はこのようにしてもらえる」と言った。
17:28 長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。「何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心はわたしが知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」
17:29 ダビデは言った。「わたしが、今、何をしたというのですか。話をしているだけではありませんか。」
17:30 ダビデは兄から他の人の方に向き直って、前と同じことを聞いた。兵士の答えは、最初と同じであった。サムエル記上 17章12節~30節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記上』の第17章12節から30節より、「憤るダビデ」という題でお話しします。今朝の御言葉には、ダビデが出てきます。第16章には、サムエルがダビデに油を注いだことが記されておりました。ダビデこそ、サウルに代わってイスラエルの王となる人物であるのです。しかし、そのことは、まだ隠されております。サムエルがダビデに油を注いだことの意味は、これから少しずつ明らかとなっていくのです。
ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子でありました。エッサイには八人の息子がありました。「サウルの治世に、彼は人々の間で長老であった」とありますが、「長老」と訳されている言葉は「老人」とも訳すことができます。それで、新改訳2017は、このところを次のように翻訳しています。「この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた」。エッサイは老人になっており、戦いに出ることはできなかったけれども、エッサイの年長の息子三人は、サウルに従って戦いに出ていたのです。戦いに出た三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであります。この三人の名前は、第16章にも記されていました。そこには、サムエルが長男のエリアブを見て、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」と思ったことが記されていました。しかし、主は、エリアブも、アビナダブも、シャンマもお選びになりませんでした。主が選ばれたのは、末っ子のダビデであったのです。年長の三人の息子はサウルに従って戦いに出ていましたが、末っ子のダビデは、行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていました。「行ったり来たり」とは、この後に記されているように、兄たちに食糧を届けたりしていたということです。「サウルに仕えたり」とは、悪霊に悩まされるサウルのために竪琴を奏でていたことを指すのでしょう。しかし、今は、ペリシテ軍との戦いの最中でありましたので、ダビデは暇をもらって、父の家に帰り、羊の世話をしていたのです。かのペリシテ人、ゴリアトは、四十日の間、朝と夕にやって来て、同じところに立ち、イスラエルの戦列に挑戦しました。四十日もの間、イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合ったままであったのです。
さて、エッサイは、息子のダビデにこう言いました。「兄さんたちに、この炒り麦一エファと、このパン十個を届けなさい。陣営に急いで行って兄さんたちに渡しなさい。このチーズ十個は千人隊の長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい」。新共同訳聖書は、18節までをエッサイの言葉として解釈していますが、新改訳2017も聖書協会共同訳も、19節までをエッサイの言葉として翻訳しています。例えば、聖書協会共同訳では、19節を18節に続けてこう訳しています。「サウルも兄さんたちも、またイスラエルの兵士も皆、エラの谷で戦っているところだ」。当時は、イスラエルの兵の多くは民兵であり、武器も食糧も自前でありました。それで、エッサイは、ダビデに、戦いに出ている兄たちに食糧を届けるようにと命じるのです。また、兄たちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来るように命じるのです。このあたりのやりとりは、『創世記』の第37章に記されているヨセフ物語と大変似ています。ヨセフも末っ子であり、父ヤコブから兄たちのところへと遣わされるのです。
ダビデは翌朝早く起きて、羊の群れを他の人に任せて、エッサイが命じたものを担いで出かけました。彼が陣営に着くと、兵は鬨の声をあげて、戦線に出るところでした。イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合って戦列を敷いていたのです。ダビデは持参したものを武具の番人に託すと、戦列の方へ走って行き、兄たちの安否を尋ねました。ダビデが兄たちと話していると、ペリシテ軍の戦列からゴリアトが現れて、いつも言葉を叫びました。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。わたしはペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。その者にわたしと戦う力があって、もしわたしを討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ」。このゴリアトの言葉をダビデも聞いたのです。イスラエルの兵は皆、ゴリアトを見て後退し、非常に恐れました。こんなことが四十日も繰り返されていたのでしょう。イスラエルの兵は、ダビデにこう言います。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ」。サウルは、ゴリアトを討ち取る者に褒美を与えると言っていたようです。このことに、ダビデは大変関心を持ったようです。と言いますのも、ダビデは、別の二人の人に、そのことを確認しているからです(26、30節参照)。『申命記』の第19章15節に、「二人、または三人の一致した証言は真実である」と記されています。ダビデは、三人の人から、ゴリアトを打ち倒した者に与えられる褒美について尋ねて、そのことが真実であると確かめたのです。では、ダビデは、褒美が欲しくて、ゴリアトを打ち倒そうとしたのでしょうか。そのように考えたのは、長兄のエリアブでした。エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立ててこう言いました。「何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心はわたしが知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう」。ここで「野心」と訳されている言葉は「悪い心」とも訳すことができます。聖書協会共同訳では、「私はお前の傲慢さと悪い心を知っている」と翻訳しています。このエリアブの言葉は正しいのでしょうか。私は正しくないと思います。なぜなら、ダビデは、心を見られる主が選ばれた者であるからです。ここで悪いのは、ダビデの心ではなくて、ダビデを見るエリアブの目であるのです。エリアブは、サムエルがダビデに油を注いだことを見ておりました(13節「兄弟たちの中で彼に油を注いだ」参照)。そのことによって、エリアブは、ダビデをねたみの目で見るようになったようです。ダビデが話をしているだけなのに、エリアブは、ダビデは傲慢で悪い心を持っていると言うのです。
では、ダビデが、サウルが与えると約束した褒美に無関心であったかと言えば、そうではないと思います。先程も申しましたように、ダビデは、褒美について三人の人に尋ねて確認しているからです。では、ダビデが、褒美が欲しいから、ゴリアトと戦うのかと言えば、そうではありません。26節でダビデはこう言っているからです。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」。ここで、ダビデはまったく恐れていません。自分たちイスラエルは生ける神の民である。他方、ペリシテ人は無割礼の、神の契約と関係のない者たちである。その無割礼のペリシテ人が、生ける神の戦列に挑戦するとは何たることか、とダビデは憤っているのです。これは聞きようによっては、イスラエルの兵士たち、さらには兄たちへの非難の言葉のようにも聞こえます。「生ける神の戦列に挑戦する、あの無割礼のペリシテ人を、なぜ、あなたたちは放っておくのですか」。そのように、言っているようにも聞こえるわけです。ですから、エリアブは、ダビデに腹を立てたのかも知れませんね。ともかく、ここでダビデは、イスラエルの兵士たちが、忘れかけていたことを大胆に口にしたわけです。つまり、自分たちは生ける神の戦列であり、ペリシテ軍は無割礼のまことの神を知らない者たちであるということです。このような信仰は、本来、王であるサウルが持っているべき信仰でありました。しかし、サウルからは主の霊が離れており、そのような信仰は無くなっていたのです。そして、そのような信仰、あらゆることを神様との関係において考え、神様に信頼する信仰を持っていたのは、サムエルから油を注がれ、主の霊が留まっているダビデであったのです。