生きた石、聖なる祭司 2021年5月30日(日曜 朝の礼拝)
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生きた石、聖なる祭司
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
ペトロの手紙一 2章1節~10節
聖書の言葉
2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、
2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。ペトロの手紙一 2章1節~10節
メッセージ
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前回(4月18日)、私たちは、私たちが朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたことを学びました。預言者イザヤは、「主の言葉は永遠に変わることがない」と記しましたが、私たちに告げ知らされたイエス・キリストの福音こそ、永遠に変わることない神の生きた言葉であるのです。その生きた言葉によって新しく生まれた私たちは、どのように生きるべきでしょうか。そのことをペトロは今朝の御言葉で教えております。
第2章1節から3節までをお読みします。
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで、成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
『新改訳2017』は、1節を次のように翻訳しています。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」。この『新改訳2017』の翻訳の方が元の言葉に近いのです。神の生きた言葉によって新しく生まれた私たちは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てることが求められているのです。ペトロは、第1章22節で、「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」と記しました。生きた言葉によって新しく生まれ、偽りのない兄弟愛を抱く者とされた私たちは、その兄弟愛を破壊する、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てることが求められているのです。
また、ペトロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と記します。生まれたばかりの赤ちゃんは、本能的に、お母さんの乳を慕い求めます。その赤ちゃんのように、あなたがたも、混じりけのない霊の乳を慕い求めよとペトロは言うのです。「まじりけのない霊の乳」とは、「純粋な御言葉の乳」のことです(新改訳参照)。私たちは、純粋な御言葉の乳を慕い求めて、今朝も礼拝に集ってきたのです。赤ちゃんがお母さんの乳を飲んで成長するように、私たちは純粋な御言葉の乳によって養われ、成長し、救われるのです。私たちは、純粋な御言葉の乳を味わうことにより、主イエス・キリストが恵み深いお方であることを知ったのです(詩34:9参照)。純粋な御言葉の乳は、「主イエス・キリストは恵み深いお方だ」という味がするのです。
4節と5節をお読みします。
この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
ペトロが、「この主のもとに来なさい」と記す「この主」とは、主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、人々から捨てられましたが、神様にとっては、選ばれた、尊い、生きた石であるのです。実際、ユダヤの最高法院の議員たちは、イエス様をメシア失格者として捨てて、十字架につけて殺してしまいました。しかし、神様は、そのイエス様を死から三日目に栄光の体で復活させられました。そして、御自分の右の座へとあげられたのです。そのようにして、神様は、人々から捨てられたイエス様が、選ばれた、尊い、生きた石であることを示されたのです。ペトロが、「生きた石」という不思議な言い方をするのは、石であるイエス様が復活して、今も活きおられるからです。霊的な家は、生きた石であるイエス・キリストを土台として立てられるのです。そして、ペトロは、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」と言うのです。ここでの「霊的な家」とは聖徒の交わりである教会のことです(使徒信条参照)。そして、霊的な家である教会を造り上げられるのは、神様であります。神様は、教会を造り上げるために、生きた石であるイエス・キリストを土台として据えられました。そして、その土台の上に、イエス・キリストを信じる私たちを生きた石として積み重ねて、霊的な家を造り上げられるのです。ここで言われていることは、キリストの体である教会を形づくって行く「教会形成」であります。神様は、イエス・キリストを信じる私たち一人一人を生きた石として用いてくださり、霊の家であるキリストの教会を造り上げられるのです。
また、ペトロは、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」と記します。イエス・キリストを信じる私たちは、神様にお仕えする聖なる祭司であるのです。旧約時代において、祭司の働きは、動物をいけにえとして献げることでした。しかし、新約時代においては、イエス・キリストが十字架の上で永遠の贖いを成し遂げてくださったので、動物をいけにえとして献げる必要はありません(ヘブライ10章参照)。それで、ペトロは、霊的ないけにえを、イエス・キリストを通してささげるようにと記すのです。イエス・キリストこそ、御自身をいけにえとして献げて永遠の贖いを成し遂げてくださった永遠の大祭司であります。イエス・キリストは、御自分の贖いの御業を根拠として、今も父なる神の右で、私たちのために執り成してくださっているのです。そのイエス・キリストを通して、神様に喜ばれる霊的ないけにえを献げなさいと、ペトロは言うのです。「神様に喜ばれる霊的ないけにえ」とは何でしょうか。『ヘブライ人への手紙』は、その第13章15節と16節で、こう記しています。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」。私たちは礼拝において神様の御名をほめたたえる歌を歌います。そのようにして私たちは、賛美のいけにえをささげているのです。また、私たちの善い行いと施しは、神様が喜ばれるいけにえであるのです。キリストの名によってささげる礼拝と御言葉に従う善き生活こそ、神様が喜ばれる霊のいけにえであります。私たちは、聖なる祭司として、礼拝をささげ、善き生活を営むことにより、神様に喜ばれる霊的ないけにえをささげているのです(20周年宣言「神中心的・礼拝的人生観」参照)。
6節から8節までをお読みします。
聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
6節の御言葉は、『イザヤ書』の第28章16節の御言葉です。そこにはこう記されています。「それゆえ、主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない』」。ペトロは、この貴い隅の石こそ、イエス・キリストであると言うのです。ペトロは、4節で、「主イエス・キリストは、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石である」と記しましたが、その証拠聖句が、『イザヤ書』の第28章16節であるのです。尊いかなめ石であるイエス・キリストは、信じる私たちにとってはかけがえのない御方であります。しかし、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石」であり、「つまずきの石、妨げの岩」であるのです。7節は、『詩編』の第118編22節からの引用であります。そこにはこう記されています。「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと」。この御言葉は、イエス様が御自分に当てはめて引用された有名な御言葉であります(マルコ12:10、11参照)。家を建てる者である最高法院の議員たちは、イエス様をメシア失格者として退けてしまいました。しかし、その退けられた石を、神様は最も大切な隅の親石として用いられるのです。イエス様を信じない人たちは、家を建てる者である最高法院の議員たちと同じものの見方をしているのです。
8節は、『イザヤ書』の第8章14節からの引用であります。そこにはこう記されています。「主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる」。十字架につけられたイエス様が神の御子、救い主であるという福音は、信じない者たちにとって、つまずきの石、妨げの岩であるのです(一コリント1:23参照)。
8節の後半に、「彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように、以前から定められているのです」と記されています。このところを『聖書協会共同訳』では次のように翻訳しています。「彼らがつまずくのは、御言葉に従わないからであって、そうなるように定められていたのです」(新改訳2017も参照)。このように翻訳すると、信じない者たちのつまずく原因が、御言葉に従わない、彼らの不信仰にあることが分かります。御言葉に従うならば、イエス・キリストにつまずくことはないのです。しかし、彼らは御言葉に従わないという自分の決断によってつまずくのです。では、なぜ、彼らは御言葉に従わないのかと言えば、それは神様が以前からそのように定められているからだとペトロは記すのです。ペトロは、ここで、彼らがつまずく原因を二つの段階で述べています。なぜ、ある人々は、イエス・キリストを信じないのか。それは、彼らが御言葉に従わないからだ。そのように、まず人間の責任を記します。そして、では、なぜ、御言葉に従う人間と御言葉に従わない人間がいるのかと問うならば、それは神様が以前から定められておられるからだ、と記すのです。ある人々がイエス・キリストにつまずくのは、御言葉に従わないという彼らの決断によるものですが、究極的には、それは神様が定めておられたからであるのです。私たちは、神様が天地創造の前から、キリストにあって、私たちを選んでくださったと信じています(エフェソ1:4参照)。そのことをよく考えるならば、キリストにあって選ばれなかった人たちもいるわけです。こう聞きますと、それでは、福音を宣べ伝えても無駄ではないかと思われるかも知れません。しかし、ここで注意したことは、私たちには御言葉を信じない者が誰であるのか分からないということです。今、信じていなくても、信じるようになる人はたくさんいるわけです。パウロもそうでした。かつてパウロは、教会の迫害者でありました。しかし、復活の主イエスはパウロに出会ってくださり、御自分の使徒とされたわけです。ですから、今、信じていないからといって、諦めてはいけません。むしろ、私たちは主に祈りつつ、知恵を働かせて、福音を伝えるべきであるのです。そのためにこそ、私たちは、イエス・キリストを信じて、神の選ばれた民、王である祭司とされたのです。
9節と10節をお読みします。
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。
9節は、『出エジプト記』の第19章6節を背景にして記されています。そこにはこう記されています。「あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これがイスラエルの人々に語るべき言葉である」。主なる神様は、エジプトから導き出したイスラエルの人々に、「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と言われました。そのことを背景にして、ペトロは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷状態から導き出された私たちに、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と記すのです。そして、それは、私たちを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を広く伝えるためであるのです。「力ある業」とは、神様がイエス・キリストを十字架の死から三日目に復活させられたことです(エフェソ1:20参照)。私たちは、神様が十字架の死から復活させられたイエス・キリストを信じることによって、悪魔の支配から神様の支配へと招き入れられたのです(使徒26:18「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」参照)。それは、私たちが「良かった。良かった」と自分たちだけで喜ぶためではありません。私たちが、神様の力ある業であるイエス・キリストの復活を多くの人々に、広く伝えるためであるのです。そして、ここに、神様が私たちを憐れみ、御自分の民としてくださった目的があるのです(ホセア2:25参照)。