油を注がれたダビデ 2021年5月19日(水曜 聖書と祈りの会)

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油を注がれたダビデ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
サムエル記上 16章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
16:2 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
16:3 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
16:6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
16:8 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:9 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。サムエル記上 16章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『サムエル記上』の第16章1節から13節より、「油を注がれたダビデ」という題でお話しします。

 前回学んだ第15章に、主がサウルを王位から退けられたことが記されていました。主は御自分の言葉を退けたサウルを王位から退けられたのです。主はイスラエルの王国をサウルから取り上げて、サウルよりも、すぐれた隣人にお与えになるのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

 主はサムエルにこう言われました。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見出した」。「わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見出した」とありますが、もとの言葉では、「わたしのための王を見出した」と記されています(新改訳2017参照)。第8章に記されていたとおり、イスラエルに王を立てることは、民の願いによることでありました。その民の願いに応えて、主はサウルをイスラエルの上に王として立てられたのです。しかし、サウルは、イスラエルのまことの王である主の御言葉に聞き従いませんでした。そのようなサウルをイスラエルの王に立てたことを主は悔やまれたのです。そして、今朝の御言葉において、主は「ベツレヘムのエッサイの息子たちの中に、わたしのための王を見出した」と言われるのです。主は主体的に、また積極的に、御自分のために王を立てられるのです。

 サムエルはこう言います。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう」。サムエルは、サウルに、「主があなたを王位から退けられた。今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる」と告げました。しかし、サウルは依然としてイスラエルの王として君臨していたのです。そのようなサウルにとって、サムエルは、自分の王権を脅かす危険人物でありました。サウルは、自分がサムエルから油を注がれてイスラエルの王とされたことを知っていたので、サムエルの動きに警戒していたようです。

 サウルに脅えるサムエルに対して、主はこう言われます。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」。ここで、主はサムエルに嘘をつくように言っているのではありません。そうではなくて、真実の半分だけを伝えるようにと言っているのです。実際、サムエルは若い雄牛を引いて行き、主にいけにえをささげ、食事をするのです。第10章に、サムエルがサウルの頭に油を注いだことが記されていましたが、その前にも、いけにえを献げて、食事をしたことが記されています。サムエルは、エッサイの息子の一人に油を注ぐ前にすること、いけにえをささげることだけを告げればよいと言われたのです。

 サムエルは主が命じられたとおりにしました。サムエルがベツレヘムに着くと、町の長老たちは不安げに出迎えて、こう尋ねます。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」。ベツレヘムは、『ルツ記』の舞台でありましたが、小さな町であります。そのベツレヘムに、有名な預言者サムエルが来たので、町の長老たちは不安になったのです。サムエルは、こう答えます。「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください」。また、サムエルは、エッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招きました。もちろん、エッサイとその息子たちは、自分たちがいけにえの会食に招かれた理由を知るよしもありません。彼らがやって来ると、サムエルは長男のエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思いました。しかし、主はサムエルにこう言われるのです。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。エリアブは、サウルのように背が高かったようです。サウルは背の高い、美しい若者でした。そのサウルと同じようにエリアブは背が高く、美しかったのでしょう。サムエルは、エリアブがサウルに代わる王にふさわしい人物であると思うのですが、主は彼を退けられます。そして、御自分は目に見えるうわべではなく、目に見えない心を見ると言われるのです。「主は心によって見る」とありますが、これは「主は心を見る」ということです(新改訳2017参照)。主のための王の第一条件は、主の言葉に聞き従う心を持っていることであるのです。これは、今も同じでありますね。主が御自分の教会に教師、長老、執事を立てられるとき、どのような人を選ばれるでしょうか。それは主の言葉に聞き従う心を持っている人であるのです。

 エッサイは、続けて、アビナダブを、次に、シャンマを通らせますが、いずれも主はお選びになりませんでした。その場に来ていた七人の息子を通らせましたが、主はこれらの者を選ばれませんでした。そこで、サムエルがエッサイに、「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねると、エッサイはこう答えました。「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」。この「末の子」がダビデであるのですが、エッサイは、ダビデをいけにえの食事に連れて来ませんでした。それは、ダビデがこのとき、未成年(12歳ぐらい)であったからであると考えられています。サムエルはこう言います。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓にはつきません」。エッサイは人をやって、その子を連れて来させました。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派でありました。主は心を見るのでありますが、ダビデは目に映る外見も美しかったのです。主はダビデを自分のための王として選ばれるのに、彼の心を御覧になりましたが、結果として、彼はその外見も美しかったのです。主はサムエルにこう言われます。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」。サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注ぎました。ここで注意したいことは、サムエルはダビデに油を注いだ意味について、何も説明していないということです。サムエルがサウルの頭に油を注いだ時は、その意味することを告げました。サムエルはサウルに、「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです」と言ったのです(10:1)。しかし、サムエルは、ダビデに、油を注いだ意味について何も告げないのです。そのことの意味は、これから少しずつ明らかになっていくのです。

 ダビデは、サムエルから油を注がれたことの意味を知りませんが、その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになりました。ダビデに注がれた油は、神様の霊を見えるかたちで示していたのです。ダビデの頭に油を注ぎ、御自分のための王とされた主は、その働きのために必要な力と賜物を聖霊によって与えられるのです。それは教会の役員においても同じです。神様は、按手によって、教師、長老、執事を立てられます。そして、その職務を果たすことができるように、必要な力と賜物を与えてくださるのです。

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