私を何者だと言うのか 2021年5月09日(日曜 朝の礼拝)

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私を何者だと言うのか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章27節~33節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」マルコによる福音書 8章27節~33節

原稿のアイコンメッセージ

序.前回の振り返り

 前回(4月11日)、私たちは、イエス様がベトサイダで、盲人の目を見えるようにされたお話しを御一緒に学びました。旧約聖書の『イザヤ書』第35章に記されているように、見えない人の目が開くことは、神様が来られるときに行われる救いの御業でありました。その救いの御業を目撃した弟子たちの心の目も開かれたことが、今朝の御言葉に記されております。

1.イエスとは何者か

 イエス様は、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになりました。「フィリポ・カイサリア地方」は、ガリラヤ湖から北に40キロメートルほどの所にある、水の豊かな緑の美しい地方であります。その途中、イエス様は弟子たちにこう言われました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」。イエス様の周りにはいつも沢山の人々が集まって来ましたが、その人々は、わたしのことを何者だと言っているのかとイエス様は問われるのです。弟子たちは、こう言いました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。洗礼者ヨハネは荒れ野で、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた人物であります。洗礼者ヨハネは、ヘロデ王によって捕らえられ、首をはねられてしまいました。人々は、その洗礼者ヨハネの霊がイエス様の内に働いていると噂していたのです(マルコ6:14参照)。「エリヤ」は、紀元前9世紀に活躍した預言者で、生きたまま炎の馬車に乗って天に上げられた人物であります。旧約の最後の預言者であるマラキは、主の日の到来に先立って、エリヤが遣わされると預言しています(マラキ3:23参照)。「預言者の一人」とは、旧約聖書に記されているような預言者の一人ということです。旧約聖書と新約聖書の間の時代、いわゆる中間時代には、預言者が与えられておりませんでした(一マカバイ4:46参照)。神様は、400年もの間、沈黙しておられたのです。しかし、人々は、イエス様のことを預言者の一人であると噂していたのです。

 そこでイエス様は、弟子たちにお尋ねになりました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。「人々が私のことを何者だと言っているのかは分かった。それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」とイエス様は尋ねられたのです。弟子たちを代表してペトロはこう答えます。「あなたは、メシアです」。ここで「メシア」と訳されている言葉は「キリスト」(クリストス)です。新共同訳は「キリスト」という言葉が称号として用いられているときは「メシア」と訳しています(固有名詞といて用いられるときはキリストと訳している)。「メシア」とはヘブライ語で、「油を注がれた者」という意味であります。神様は、御自分の特別な働きに人を任命するとき、その人の頭に油を注ぐことを命じられました。旧約聖書を読みますと、預言者や祭司や王になる人の頭に油を注いだことが記されています。水曜日の聖書の祈りの会で、『サムエル記上』を学んでいますが、そこには、サムエルがサウルの頭に油を注いでイスラエルの王としたこと。また、ダビデの頭に油を注いで、サウルに代わるイスラエルの王としたことが記されています。イエス様の時代、イスラエルは異邦人であるローマ帝国の支配下に置かれていました。神の民であるイスラエルがまことの神を知らないローマ帝国の支配下にあったのです。イスラエルの人々は、自分たちの王を持つことができず、ローマ皇帝を自分たちの王としなければならない屈辱の中にあったのです。そのような状況において、人々が待ち望んでいたメシアとは、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくださる王でありました。また、メシアは、終末的な救い、神様の義を打ち立てる人物と考えられていました。預言者や祭司や王の職務を一人で担われる究極的なメシア、油を注がれた者が待ち望まれていたのです。ペトロは、イエス様に、「あなたはメシア、神様によって油を注がれた方です」と答えました。ここでペトロは、弟子たちを代表して答えていますから、弟子たちの間で、このことがしばしば話し合われていたのだと思います。第4章35節以下に、「突風を静める」というお話しが記されていました。イエス様が風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪になりました。弟子たちは非常に恐れて互いにこう言ったのです。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」。この時から、弟子たちの中には、自分たちが従っているイエスとは何者なのかという問いがあったはずです。そのような問いを持ちながら、弟子たちはイエス様に従って、様々な力ある業を見てきたのであります。しかし、弟子たちはなかなか悟らないわけです。イエス様から、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と言われてしまうのです(マルコ8:17、18)。しかし、その弟子たちが、イエス様に対して、「あなたはメシアです」と告白するのです。今朝の御言葉の直前に、イエス様が盲人の目を見えるようにされたお話しが記されていました。それと同じように、イエス様は、弟子たちの見えない心の目を開いて、「あなたは、メシアです」と告白させてくださったのです。

2.イエスはどのようなメシアか

 するとイエス様は、御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められました。イエス様は、御自分がメシアであることを誰にも言ってはならないと言われたのです。なぜでしょうか。それは、イエス様が人々の思い描いているメシアとはかけ離れていたからです。メシア、油を注がれた者という言葉には、人々の様々な願望が投影されていました。弟子たちだってそうです。弟子たちは、イエス様のことをメシアと告白しましたが、そこには、それぞれのメシア像があるわけです。そのような弟子たちに、イエス様は御自分がどのようなメシア、油を注がれた者であるかを教え始められるのです。

 それから、イエス様は、弟子たちにこう教え始められました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。かつてイエス様は、御自分を花婿に譬えて、「花婿が奪い取られる時が来る」と言われて、御自分の死を暗示されたことがありました(マルコ2:20)。しかし、今朝の御言葉では、御自分の苦難の死についてはっきりとお話しになったのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。「人の子」とは、イエス様が御自分のことを言うときの決まった言い方です(2:10、2:28参照)。「人の子」とは人間という意味です(詩8:5「人の子は何ものなのでしょう」参照)。イエス様は、「メシアは必ず多くの苦しみを受け」とは言われませんでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け」と言われたのです。それは「人の子」である御自分においてメシアの意味を再定義するためであります。イエス様は、御自分が必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっていると言われました。「長老、祭司長、律法学者たち」とは、当時のユダヤの最高法院を構成する者たちです。イエス様は、自分が最高法院によって捨てられ、殺されると言われたのです。そして、神様が最高法院によって捨てられ殺された自分を三日目に復活させてくださると言われるのです。それが「私についての神様の御計画である」と言われたのであります(ここで「ねばならない」と訳されている言葉(デイ)は神様の必然を表す)。このようなことをイエス様はどのようにして知ったのでしょうか。それは、聖書を通してであります。少し先の第9章12節に、こう記されています。「イエスは言われた。『確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか」。このように、イエス様は、旧約聖書を読み解くことによって、御自分の定めについて知られたのです。イエス様は、ヨハネ福音書の第5章39節で、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われました。これがイエス様の聖書解釈の大原則であるのです。つまり、イエス様は聖書に記されている約束や預言を、御自分と結びつけて解釈されたのです。そのようにして聖書を読み解かれた結果、分かったことは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」ということであったのです。

3.ペトロを叱るイエス

 すると、ペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めました。ここで「いさめ始めた」と訳されている言葉は「叱った」とも訳せる言葉です。なぜ、ペトロは、イエス様を叱ったのでしょうか。それは、イエス様が教えられた人の子の歩みが、自分が思い描いていたメシアとはかけ離れたものであったからです。ペトロは、イエス様に対して、「あなたはメシアです」と告白しましたが、イエス様がどのようなメシアであるのかは分かっていないのです。

 イエス様は御自分をいさめるペトロをお叱りになります。しかも振り返って、他の弟子たちを見ながらペトロをお叱りになられたのです。そのことは、イエス様がペトロだけではなくて、他の弟子たちをもお叱りになったことを示しています。ここでもペトロは、弟子たちを代表して行動しているのですね。イエス様は、ペトロを叱ってこう言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。「サタン」とは悪魔のこと、神様の敵のことです。イエス様は、神様から油(聖霊)を注がれた後、四十日間、荒れ野に留まり、サタンから誘惑を受けられました(マルコ1:12、13参照)。そのサタンの誘惑を、イエス様はペトロの言葉に聞き取ったのです。「引き下がれ」とありますが、これは「私の後ろに行け」ということです。イエス様は、ペトロに、「弟子としての正しい位置に戻れ」と言われたのです。弟子とは先生の後ろに従って歩む者であります。しかし、このとき、ペトロは、イエス様の前に出て、先生であるかのように振る舞うのです。なぜ、ペトロは、イエス様をいさめたのでしょうか。それは、ペトロが神のことを思わず、人間のことを思っているからです。イエス様がペトロに、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われるとき、その神のこと(神の事柄)とは、神様が与えようとしている救いのことです。そして、人間のこと(人間の事柄)とは、人間が願っている救いのことです。ペトロが願っている救い、それはイエス様がエルサレムで王として君臨して、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくださることでしょう。さらに言えば、自分がそのイエス様の右の座に着くことであったのです。第9章30節以下で、イエス様は、再び自分の死と復活を予告されます。その後に何が記されているのかと言いますと、弟子たちは、自分たちの中でだれが一番偉いかと議論していたのです。イエス様がメシアとして君臨された後のポスト争いを弟子たちはしているわけです。また、第10章32節以下に、イエス様が三度自分の死と復活を予告されたことが記されています。そして、その後に何が書いてあるかと言えば、ヤコブとヨハネが、イエス様が王となった際には、自分たちを右と左に座らせてほしいと願ったことが記されているのです。また、他の十人の弟子もこれを聞いて腹を立てたことが記されています。他の弟子たちはヤコブとヨハネが自分たちを出し抜こうとしたので腹を立てたのです。このように、弟子たちの心は、神様が与えようとしている救いよりも、自分たちが願っている救いで一杯なのです。イエス様から「わたしは苦しみを受けて死ぬ。そして三日目に復活することになっている。それが神様から定められた、わたしの歩むべき道である」と三度言われても、弟子たちの心は、イエス様が王となって、自分たちは、その側近として、イスラエルを治めることになるのだという願い(欲望)で一杯なのです。ですから、彼らは、イエス様が捕らえられた時に、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。彼らは、イエス様をメシアと告白しながら、イエス様から、「わたしは必ず多くの苦しみを受けることになっている」と何度も聞いておりながら、イエス様を見捨てて逃げてしまうのです。

このことは、人ごとではありません。私たちは、イエス様をメシア、油を注がれた者と告白しています。しかし、どのような意味で、私たちは、イエス様をメシアと告白しているのでしょうか。自分が願っている救いをイエス様に押しつけていないでしょうか。もし、そうならば、私たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまうことになるのです。神様がイエス・キリストによって、与えてくださる救い、それは、何よりも罪からの救いであります。日本人が求めている救いは、貧・病・争からの救いであると言われます。貧困、病気、争いからの救いを願う。それは人間として当然のことでしょう。しかし、神様がイエス・キリストによって与えてくださる救いは、その貧困、病気、争いの根本にある罪からの救いであるのです。神様は、イエス・キリストにあって、私たちを罪から救い、御自分との平和な関係に生かしてくださいます。なぜ、人の子は多くの苦しみを受け、殺されなければならないのか。それは、私たちが多くの苦しみを受け、殺されねばならない者たちであるからです。イエス・キリストは、その私たちのために多くの苦しみを受け、殺されるのです。イエス様は、その苦難と死によって、私たちに罪の赦しと神様との平和を与えてくださるのです(イザヤ53:5参照)。神様は、そのことの確かな保証として、イエス様を死から三日目に栄光の体で復活させられたのです。私たちが、メシア、油を注がれた者と告白している御方は、私たちの罪のために十字架に死んでくださり、私たちを正しい者とするために死者の中から復活された御方であるのです(ローマ4:25参照)。

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