イエスの名のために 2006年12月17日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの名のために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 5章33節~42節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
5:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
5:35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
5:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
5:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
5:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
5:40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
5:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
5:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。使徒言行録 5章33節~42節

原稿のアイコンメッセージ

 使徒言行録5章17節以下には、12使徒が捕らえられ、最高法院に引き出されたことが記されています。

 このことは、正式な手続きに基づいてのことでありました。ユダヤでは、いきなり刑罰を与えるのではなくて、警告、再警告、刑罰の判決・執行という手順になっていたからです。4章にペトロとヨハネが捕らえられ、最高法院で取り調べを受けたことが記されておりましたが、その18節に最高法院が「二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」と記されています。これが、使徒たちに対する最初の警告と言えます。最高法院は、神の権威をもって、ペトロとヨハネにあの男の名によって語ってはならないと命じたのです。

 しかし、ペトロとヨハネは、最高法院の命令に従うことはできないと答えましたので、議員たちは、二人を更に脅してから釈放したのです。この「更なる脅し」が使徒たちへの再警告にあたると言えるのです。

 5章の18節に、使徒たちは「公の牢」に入れられたと記されています。4章でペトロとヨハネが入れられたのは単なる「牢」でありましたが、5章では「公の牢」と記されているのです。それはおそらく、「罪を犯した者が入れられる牢」ということでありましょう。4章でのペトロとヨハネの逮捕は、取り調べと警告で済みましたけども、5章において全ての使徒たちが捕らえられたのは、最高法院の警告、再警告に従わない者への刑罰を判決し、執行するためであったのです。それは、全ての使徒たちが処刑されてしまうかも知れない大変危険な状況であったのです。 

 19節に、「夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』と言った。」とありますが、このことは、使徒たちが直面していた危機的状況を知る時はじめて、正しく理解できます。主は、御使いを通して、神殿で命の言葉を宣べ伝えることが、神の御心であり、彼らの使命であることを改めて教えられたのです。

 27節以下には、再び捕らえられた使徒たちが、最高法院に引き出され、大祭司から尋問を受けたことが記されています。

 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」

 大祭司がまず指摘していることは、お前たちは、私たちの警告、再警告に従っていない、背き続けているということでありました。それどころか、使徒たちはエルサレム中に自分の教えを広めていたのです。そして、それはイエスの血の責任を最高法院に負わせることと一つのことでありました。なぜなら、使徒たちは、「最高法院が処刑したイエスを神は復活させられ、メシアとなされた。自分たちはそのことの証人である」と教えていたからです。彼らの教えが広まれば広まるほど、最高法院の立場は危うくなる。最高法院に与えられいる権威さえ、おぼつかないものになってしまう。そのことを、彼らは恐れていたのであります。

 それに対してペトロと使徒たちはこう答えました。

 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 大祭司が「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と使徒たちを責めるのに対して、使徒たちは「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と答えます。使徒たちにとって、もはや最高法院は、ただの人間なのです。それも、神の御意志に背く人間なのであります。天に上げられる前、主イエスは、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と仰せになりました。また、昨夜、使徒たちを牢から外へ連れ出した主の天使も「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と使徒たちに命じました。この神の御意志に私たちは従わなくてはならない。こう使徒たちは大胆に宣言したのです。

 また、大祭司は「お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」と使徒たちを責めました。それに対して、使徒たちは自分たちが宣べ伝えている教えをここでも繰り返し告げます。使徒たちは、最高法院においても命の言葉を語り続けるのです。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」

 このペトロの言葉は、数ヶ月前に同じ議員たちが主イエスを裁いたことを思い起こす時、感慨深いものがあります。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と迫る最高法院に対して、イエス様は「今から後、人の子は全能の神の右に座る」と仰せになりました。これを聞いた議員たちは、神を冒涜する者として、イエス様を死刑に定めたのです。しかし、使徒たちは、神がそのイエスを復活させ、神の右に上げられたと証言するのです。ここで、最高法院は使徒たちの証言を通して、あの時のイエス様の言葉が真実であったことを知ることになるのです。

 31節に「イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために」とありますが、元の言葉から直訳しますと「イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために」となります。イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、神はイエス・キリストを復活させられ、御自分の右に上げられたのです。古代オリエントにおいて、王の右の座は、王と共の統治する皇太子や大臣がすわる座であります。神は、イエス・キリストを御自分の右の座にすわらせ、天と地の一切の権能を授けられたのです。このイエス・キリストの復活、昇天、着座、さらに再臨をまとめてイエス様の高い状態、高挙と言いますが(ウ小教理問28参照)、この高い状態を切り離さないで、ひと続きのものとして考えることが大切であると思います。復活させられたキリストは、天に上げられたキリストであり、天に上げられたキリストは、今、神の右に座したもうキリストなのです。使徒たちが、「神がイスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるためにキリストを御自分の右に上げられた」と語る時、それは、悔い改めと罪の赦しが、復活したキリストが神の右に上げられてはじめて与えられることを教えています。イエス様が復活されただけでは、まだ、悔い改めも罪の赦しも与えられないのです。そのイエス様が神の右に上げられて、そこではじめて悔い改めと罪の赦しが与えられるのであります。イエス様の十字架の死によって、贖いの御業は完成したのでありますけども、それを私たち一人一人に当てはめるためには、復活し、神の右へ上げられることが必要だったのです。天に上げられたイエス様から聖霊を与えられて、そこではじめて、キリストの贖いの恵みは、私たち一人一人に有効なものとなるのです。

 私たちの罪のために死に、私たちを義とするために復活されたイエスが天におられ、父なる神の右に座しておられる。この厳かな事実が、私たちを悔い改めへと導き、罪の赦しを与えるのです。今、目には見えませんけども、父なる神の右には、イエス・キリストが座しておられる。そのキリストは、わたしたちの導き手として、また救い主として神の右に上げられたキリストなのです。「導き手」とありますが、イエス様は、私たちを神がおられる天へと導くために、その第一の者として、父なる神の右に上げられたのです。ヨハネによる福音書の14章2節、3節でイエス様はこう仰せになりました(新約196頁)。

 「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」

 このように、イエス様が天へと上げられたのは、私たちの場所を用意するためであり、私たちを天へと迎え入れるためであったのです。このことが分かるならば、私たちにとって死の意味がまったく違ったものになります。イエス・キリストを信じる者にとって、死は永遠の滅びではなくて、永遠の命への入り口となるのです。イエス様は「あなたたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と仰せになりましたが、これはイエス様の終末における再臨のことばかりではなくて、それぞれの人生の終わり、死についても言えることなのです。キリスト教会において、死ぬのことを、召天、天に召されると申しますが、死ぬとは、言い換えれば、イエス様が私たち一人一人を天へと迎え入れてくださることでもあるのです。そのような導き手として、イエス様は今、父なる神の右に座しておられるのであります。

 また、イエス様は私たちの救い主として、神の右にあげられました。罪と死の力に打ち勝たれた勝利者として、イエス様は父なる神の右に座しておられるのです。私たちの復活の初穂とも言える、栄光の体をもって父なる神の右に座しておられるのです。 

 導き手であり、救い主であられるイエス・キリストが父なる神の右に座しておられる。その幻を信仰においてはっきりと思い描く時、私たちは悔い改めずにはおれないのではないかと思うのです。そして同時に、自分の罪が赦されていることを確信せずにはおれないのではないかと思うのであります。

 このことは、私たちのイマジネーション、想像力によるものではありません。32節で、ペトロが言っているように、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊が証ししてくださるからなのです。聖霊が私たちの内に住み込んでくださり、使徒たちの証言を事実として受け入れさせてくださるのです。

 ある牧師が、「悔い改めと罪の赦しの確信はどこで与えられるのか。それは他でもない礼拝のただ中で与えられる」と言われたことがあります。私たちの導き手であり、救い主であるイエス・キリストを通して神を崇める礼拝のただ中で、悔い改めと罪の赦しが与えられるられるというのです。使徒たちが大祭司を初めとする最高法院に伝えたかったこともそのことではないかと思います。復活し、天に上げられたキリストを崇めるとき、あなたたちも悔い改めることができる。あなたたちも自分の罪が赦されていることが分かる。どうぞ、その低さにあなたたちも立っていただきたい。そう使徒たちはここで語っているのではないかと思うのであります。

 けれども、これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えました。このことは、使徒たちが招いた、イエスを崇める低さに彼らが立てなかったことを教えています。議員たちは、自分たちだけでなく、聖霊もそのことを証ししているという使徒たちの言葉を聞いて、激しく怒り、もはや生かしてはおけないと考えたのです。議員たちは、自分たちこそが、神の代理人であると考えていたわけでありますけども、使徒たちによれば、聖霊は最高法院の側にではなくて、使徒たちの側に立っておられるというのであります。ここまで言われては、使徒たちを処刑せずにはおれないと議員たちは考えたのです。ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、こう提案いたします。

 「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで、今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ。」

 ガマリエルは、ここで、過去に起こった二つの事例をあげています。一つ目はテウダの事例です。ここで「自分を何か偉い者のように言って」とありますが、これは自分が預言者であると言っていたのではないかと考えられています。テウダは自分を預言者であると主張し、四百人ほどの男が付き従いましたけども、頭であるテウダが殺されると、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなったというのです。二つ目はガリラヤのユダの事例です。住民登録の際、皇帝に税金を納めることは、神の王権に背くことであるとユダは民衆を率いて反乱を起こしました。しかし、やはり、頭であるユダが死ぬと、従った者も皆、ちりぢりにさせられたのです。この二つの事例から分かることは、どのような集団もその頭が死んでしまえば、放っておういても皆ちりぢりになるということです。使徒たちが主と崇めるイエスが、十字架につけられ死んだままならば、最高法院が手をくださなくとも、時がたてばちりぢりになる。しかし、もし、使徒たちが証しする通り、神がイエスをよみがえらせ、御自分の右に上げたのであれば、最高法院は使徒たちを滅ぼすことはできないし、神に逆らう者となるかも知れないと言うのであります。

 ガマリエルは、律法の教師でファリサイ派に属する者でありますから、復活信仰は持っているわけです。大祭司が属するサドカイ派は天使も復活も認めないわけでありますから、使徒たちの証言を聞いて、そんなことはあり得ないと切り捨ててしまうわけです。しかし、復活信仰を持つ、ファリサイ派の議員たちは、大祭司たちほど、使徒たちの証言をあり得ないとは思わなかったわけです。むしろ、時間をかけて、彼らがどうなるかを見極めて、神がイエスを本当に復活させられたのかどうかを見極めようとしたのです。

 ここでのガマリエルの発言は、激しく怒る議員たちの頭を冷やさせる、もっともな発言ではないかと思います。ガマリエルは、最後に「もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかも知れないのだ」と警告しますが、これは、最高法院が神の御心に従って判決を下さなければならないという基本を思い起こさせる言葉です。間違った裁きをそれば、その責任を問われる。その恐れを忘れてもらっては困るとガマリエルは告げているのであります。

 使徒たちは、このガマリエルの発言によって、死刑に処せられるという危機を脱することができました。天使を使わし、彼らを牢獄から外へ連れ出した神は、今度は、ガマリエルという人を通して、使徒たちを死の危機から救われたのです。私たちも、直接、天使によって救われた体験はなくても、人を通して、主に救っていただいたと思えるような体験をしたことがあると思います。その人の顔が、まるで天使のように見えたという経験をしたことがあると思います。主は、今も人を通して私たちを助け、導いてくださっているのです。

 一同はガマリエルの意見に賛成したわけでありますが、しかし、使徒たちは何の罰も受けずに釈放されたわけではありませんでした。何もおとがめなしということでは、最高法院としてのしめしもつきませんから、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならない命じたうえで、釈放したのです。この鞭打ちは、おそらく40回に1たりない、39回の鞭打ちであったと思われます(申命25:3)。これは決して軽い罰ではありません。鞭打ちの刑は、死人さえも出たと言われるほどの厳しい罰でありました。けれども、使徒たちは、イエスの名のための辱めを喜んでその身に受けたのです。鞭で打ち叩かれても、痛く感じなかったとかそういうことではありません。肉体の痛みを感じながらも、それよりも、霊的な喜び、イエスのために辱めを受けているという信仰の喜びが勝ったのであります。ここで「辱めを受けるほどの者にされた」とありますが、口語訳聖書は、このところを「恥を加えられるに足る者とされた」と訳し、新改訳聖書は、「はずかしめられるに値する者とされた」と訳しています。イエスの名のために辱めを受けるという光栄、名誉があり、それに足る者、値する者にしていただいたと記されているのです。ここで、使徒たちが喜んだのは、何よりイエス様の苦難を、自らの苦難として負うことができたからであります。自分たちに加えられた辱め、それはイエスの名のためである。イエス様に代わって、自分たちは今、辱めを受けている。使徒たちは、鞭打ちの痛みの確かさの中に、自分たちがイエス様と一つにされていることの確かさをも実感していたのです。

 またこの時、使徒たちは、イエス様が山上の説教で語られたあの言葉を思い起こしていたのではないかと思います。イエス様はマタイによる福音書の5章11節、12節でこう仰せになりました(新約6頁)。

 「わたしのためにののしられ、迫害され、あらゆる悪口を浴びるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 使徒たちは、今自分たちが受けている辱めに、天で主イエスが報いてくださるという約束のゆえに、なお一層喜ぶことができたのです。私は、このことこそ、使徒たちが証しするように、主イエスが復活し、父なる神の右に上げられ、生きておられることの証拠ではないかと思います。なぜなら、死んでしまった者には何の報いも期待することはできないからです。イエスが報いていくださる。それはイエスが今も生きておられ、父なる神の右に座しているからに他なりません。天の報いを期待して、辱めを喜ぶのは、打算的で不純ではないかと感じる方もおられるかも知れません。しかし、聖書は、神がこの地上の生涯の歩みに応じて、それぞれに報いを与えてくださることをはっきりと教えています(二コリント5:10)。ヘブライ人への手紙の11章6節には次のようにさえ記されているのです(新約414頁)。

 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」

 イエス様は、「わたしの名の故に迫害される時、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と約束しておられます。主イエスは、天の大きな報いを約束してくださり、私たちの地上の信仰生活を力づけ、励ましておられるのです。私たちは、イエス様を信じて何の特があるかとつぶやいてしまうわけでありますけども、イエス様は、そんなことはない。天には大きな報いがあると私たちの信仰を励ましてくださるのです。

 このような期待は、もしイエス様が死んだままでおられるならば、まったく空しいものであります。けれども、そのように約束されたイエス様が、今も生きておられ、神の右に座し、天と地の一切の権能を授けられたお方であると信じることができるならば、この使徒たちの喜びは確かなものと言えるのです。そして、この喜びこそ、主イエスが生きておられることの最大の証しであると言えるのです。

 現代の私たちの生活において、使徒たちのように、鞭打たれるような迫害はないかもしれません。けれども、イエス・キリストを信じることのゆえに、悪口を浴びせられ、辱めを受けるのであれば、私たちは決して恥じてはならないのです。むしろ、イエス様は喜び、喜べと言われる。そして、天の報いへと私たちの心を向けさせてくださるのです。使徒たちが、イエスの名のための辱めを喜ぶことができたこと、それは彼らの心がいつも天におられる主イエスへと向けられていたことを教えています。その天の喜びのゆえに、使徒たちは、神殿の境内や家々でメシア・イエスについて福音を告げ知らせることをやめなかったのです。あの男の名によって話すなと鞭を持って脅されようが、誰も使徒たちから、この喜びを奪うことはできなかったのであります。私たちも、主イエスが約束してくださった天の報いを期待し、喜びに溢れて、イエス・キリストの福音を宣べ伝えてゆきたいと願います。

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