使徒たちの癒し 2006年12月03日(日曜 朝の礼拝)
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使徒言行録 5章12節~16節
聖書の言葉
5:12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、
5:13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。
5:14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
5:15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。
5:16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。使徒言行録 5章12節~16節
メッセージ
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12月に入りまして、今年もあと1ヶ月となりました。教会暦によれば、今日の主日から待降節、アドヴェントに入ります。アドヴェントとは、「到来」という意味でありますが、これはキリストが、貧しい姿でお生まれになった来臨のことばかりではなく、復活され、天に上げられたキリストが、栄光の姿で来てくださる再臨をも表す言葉であります。ですから、アドヴェントは、イエス様のお誕生を待ち望む期間でありますが、同時に、イエス様が全世界の裁き主として再び来てくださる、イエス・キリストの再臨を待ち望む期間でもあるのです。もちろん、私たちは、主人の帰りを待つ僕のように、いつも目を覚ましていなければならないわけですけども、アドヴェントは、特にそのことを覚える期間として与えられているのです。私たちキリスト者にとりまして、クリスマスは、かつて来られたイエス・キリストに思いを向けるだけではなくて、やがて来たり給うイエス・キリストに思いを向ける時であります。そのことを覚えて、今日から始まる待降節、アドヴェントを過ごしていただきたいと思います。
さて、先程は使徒言行録の5章12節から32節までをお読みしました。以前学んだ4章30節に、「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」という信者たちの祈りがありましたが、その祈りに主なる神は豊かに応えてくださいました。12節から14節にはこう記されています。
使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われていた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
「使徒たちの手によって」とありますように、イエスの名によるしるしと不思議な業は、ここでは使徒たちに限られています。そして、それはどうやら、彼らがイエス様から与えられた権威と関係があるのです。
イエス様は復活する以前、弟子たちの中からペトロをはじめとする12人を弟子たちの中から選び使徒と名付けられました。このことがルカによる福音書の6章に記されています。そして9章に入りますと、イエス様は、12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになり、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために使わされたのです。使徒とは、使者、使わされた者という意味でありますが、これは使わす人の全権を委託されて、いわば名代として使わされるのです。ユダヤの社会では、「使わされた者は、その人を使わしたその人自身である」と考えられていたのです。
使徒たちが、イエスの名によって、多くのしるしと不思議な業とを行っていたこと。これは天に上げられたイエスが今も生きて働いておられることを表すと同時に、12人が、まさしくイエス様の使徒、名代であることを表しているのです。いわば、ここにルカによる福音書の9章に記されていた使徒たちの働きが、より力強く継続されているのです。
「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」と記されています。ルカはこれまで、信者たちが主にあって心を一つにしていたことを、教会の理想像としてしばしば記してきましたが、ここでは、アナニアとサフィラの事件があった後ですので、重い意味を持っていると思います。教会が心も思いも一つにして、主の御心に従おうとする中にあって、アナニアとサフィラは、心を一つにして、主を欺いたのでした。つまり、ここで心を一つにするという教会の中に、主を欺くために心を一つにするという不調和、罪が入り込んできたのです。そのことは、3節のペトロの言葉からも明かです。そこでペトロはこう語っています。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。」 教会が神に従うことに心を一つにしている中で、アナニアとサフィラは、神の敵であるサタンに心奪われ、サタンにあって心を一つしにしていたのです。9節の「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。」という言葉はこのことを教えています。
アナニアとサフィラは、教会にあって、神を欺くことに心を一つにしていたゆえに、突然の死という仕方で、その交わりから断たれたました。よって、アナニアとサフィラの事件は、教会戒規、教会訓練という側面をもっています。イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた者の中にも、サタンに心を奪われ、聖霊を欺く罪が生じることを、アナニアとサフィラの事件は、教えています。そして、彼らの突然の死は、教会がそれを放置せずに、教会訓練によって対処しなければならないことを教えているのです。もし、アナニアとサフィラのような、心を一つにして主を欺く者たちを、放っておくならば、また、見て見ぬふりをするならば、12節で「一同は心を一つにして」と書くことができなかったと思います。アナニアとサフィラの事件、それを聞いた人々に恐れを抱かせるような事件を通して、教会は再び、心を一つにすることができたのです。アナニアとサフィラの事件は、私たちに主は侮られるお方ではないことをはっきりと教えてくれる、そのようにして、私たちの心を主において一つとしてくれる反面教師としての意義を持っているのです。
13節に、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。」とあります。
これはおそらく、アナニアとサフィラの事件を聞いて非常に恐れた人々が、教会に加わることに、慎重になったということではないかと思います。つまり、興味本位で、軽い気持ちで、教会に加わろうとする者はいなくなった。これが「あえて仲間に加わろうとはしなかった」という言葉が意味するところだと思います。
しかし、他方では、「民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」のです。
ここで民衆と訳されている言葉は、神の民を表すラオスという言葉であります。群衆をホクロスといいますけども、ルカは、神の民を表すラオスと、群衆を表すホクロスをちゃんと使い分けています。それがルカ文書の特徴とも言えるのです。ですから、ルカがここで言おうとしていることは、神の民は、アナニアとサフィラの事件につまづくことなく、むしろ、その清さに心を引かれ、称賛していたということなのです。この13節、14節の記述は、後の13章48節と近いのではないかと思います。アンティオキアでのパウロの説教の後の言葉でありますが、13章48節にはこうあります。「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」
アナニアとサフィラの事件の後、あえて仲間に加わろうとしない者たちもおりましたけども、しかし、神の民である民衆は彼らを称賛していた、そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていったのです。
ここで、男ばかりではなく、女にも言及していることは、当時としては驚くべきことであります。当時は、今から2000年ほど前の古代の社会でありまして、そこで、男と女が等しく扱われていることは、他の団体ではほとんどなかったのではないかと思います。ここにキリストの教会の目を見張るべき新しさがある。こう言えるのです。男も、女も同じように扱われたこと、これは実は、アナニアとサフィラの事件からも分かることなのです。アナニアとサフィラのお話しは、よく旧約聖書のヨシュア記の7章に記されているアカンの罪と比べて理解されます。ヨシュア記の7章1節にこう記されています(旧約348頁)。
イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。
ここで、「滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った」この「盗み取った」という言葉が使徒言行録5章1節の「妻も承知のうえで、土地の代金をごまかし」の「ごまかし」と訳されている言葉と同じ言葉なのです。旧約聖書のギリシャ語訳、70人訳聖書を見ますと、「盗み取った」と「ごまかし」と訳されている言葉は同じ言葉が用いられています。
イスラエルは、ヨルダン川を渡り、約束の地へカナンに入ります。そして、エリコを占領するわけでありますけども、そこでの分捕り物は、滅ぼし尽くして主に献げるべきものでありました。けれども、アカンは、その一部を盗んだ、つまり、美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て欲しくなり、天幕の下に埋めて隠したのです。この罪のゆえに、主なる神はイスラエルの人々に対して激しく憤り、彼らはアイに攻め上ったが敗退してしまいました。結局、主の指摘により、アカンの罪が判明し、アカンを処刑することによって、主の激しい怒りは止むわけでありますけども、ここで実は、アカンの罪によって、その家族も処刑されているのです(25節)。これは、アナニアとサフィラの事件とは大違いであります。サフィラは、夫の罪アナニアのためではなくて、自分自身の罪のために、息絶えたのですね。ペトロは、わざわざ、そのことを本人に確認した上で、主の裁きの言葉を告げるわけです。これは、消極的なケースではありますが、教会において、つまり主の御前に、男も女も等しく、一つの人格として重んじられていたを教えています。
このことは、イエス様の御生涯を振り返るならば、当然でありますね。イエス様のおそばには、男の弟子ばかりではなく、女の弟子たちもいたのですから、その主イエスの霊が形づくってくださっている群れでありますから、教会において、男も女も等しく重んじられたことは当然であると言えるのです(なお、各人の責任については、エゼキエル書18章を参照のこと)。
使徒言行録に戻ります(新約221頁)。
15節から16節をお読みします。
人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。
ここには、使徒たちの手によって為された多くのしるしと不思議な業が具体的に記されています。それは、一言でいえば「いやし」であります。この記述は、イエス様の歩みを思い起こさせる記述です。例えば、マルコによる福音書の6章53節から56節にはこう記されています(新73頁)。
こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
ここでは、人々が病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせて欲しいと願ったこと。そして触れた者は皆いやされたことが記されています。これは「ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。」という言葉と対応しています。イエス様の服のすそに、病を癒す力があったように、ペトロの影にも、病を力があると人々は考えたのです。それほどまでに、ペトロのうちにイエス様のお力が働いていたのあります。まさに、ペトロをはじめとする12人は、イエス様から権威を委ねられ使わされた使徒であったのです。
また、近くの町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来ましたが、一人残らず癒してもらいました。イエス様の時と同様、病人や汚れた霊に悩まされている人、またその家族や友人たちが、使徒たちのもとに集まってきたのでありました。ほかの者たちが、あえて仲間に加わろうとしない中にあって、彼らは、病という弱さを通して、イエス様のもとに、使徒たちのもとに、身を委ねることができたのです。イエス様は、かつて、生まれつきの盲人について、「神の業がこの人に現れるためである」と仰せになったことがありましたが、まさに、病という弱さのゆえに、人々は、主イエスの使徒たちのもとに行くことができたのです。そして、癒されるという体験を通して、イエス・キリストの恵みを味わい知ることができたのであります。
わたしは、これまで、ルカによる福音書からお話しした中で、癒しについて語ってきましたが、その際どのように説明したかと言いますと、特別啓示として説明してきました。神学で言えば、組織神学の考え方で説明してきたわけです。思い出していただくために、改めて申しますと、神様の御心を表す特別啓示には、大きく3つあります。一つは、神様が現れてくださる神顕現。2つ目は、言葉啓示である預言。3つ目は、出来事啓示である奇跡。そして、最後の2つ、言葉啓示と出来事啓示は2つで1組であるとお話ししました。例えば、イエス様は、12人に派遣し、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒すようにと言われましたが、これはどちらも、神の国がイエス・キリストにおいて到来したことを指し示していたわけです。このように、しるしや不思議な業を特別啓示として捉えるとき、啓示の書である新約聖書が完結したときに、もう教会が、しるしや不思議を行えなくなった、その理由を理論的に説明できるわけです。このことが、ウェストミンスター信仰告白の一番始めに記されています(ウ告1:1)。
そのような理論を承知の上で、言うのでありますけども、それでは、このところを、私たちは自分たちとまったく関係なく読むのかと言うとそうではないと思います。週報に「今週の祈り」と題して、祈りの課題をあげておりますけども、そこには「心や体に弱さを覚えている兄弟姉妹のために」という祈りの課題が挙げられています。このことを祈るとき、私たちはどのように祈るのか。それは、おそらく、病が癒されるように、回復へと向かいますようにと祈るのだと思います。それでは、この祈りは、間違っているのかと言えば、もちろん、そうではありません。なぜなら、イエス・キリストにおいて、またその使徒たちにおいて明らかになったことは、病が癒されること、それが主の御心であるということだからです。病を負うていれば、そこから癒されることを願う。それは私たちだけではなくて、主の御心でもあるのです。そして、主イエスは、その病を私たちに代わって担ってくださったお方なのです。イザヤ書53章4節に、「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」と書いてある通りです。イエス様は、十字架において、私たちを罪からだけではない、病からも解放してくださったのです。
そうは言っても、イエス様を信じた今でも、私たちは病の中にあるではないかという人があるかも知れません。けれども、その病はすでにイエス様にあって癒されている病なのです。イエス・キリストを信じる信仰の眼でみるならば、私たちのすべての病は癒されているのです。
ヘブライ人への手紙11章1節に、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、目に見えない事実を確認することです。」とあります。
また、パウロは、ローマ書の8章で、「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」とあります。
見えないものをまるで見ているかのように確認すること。見えないものを忍耐して待ち望むこと。これが信仰であります。もし、病が癒されるからイエス様を信じるのであれば、それは信仰ではありません。目には見えないが、病が癒されていることを確信して、イエス様を信じる、それが信仰なのです。私たちは、イエス様のもとに連れてこられた病人がことごとく癒された。また、使徒たちのもとに連れてこられた病人がことごとく癒されたという記事を読みますときに、ここに、私たちの姿が描かれていると、信仰を持って読むことができるのです。
イエス・キリストを信じるということはそういうことであります。イエス・キリストを信じるということは、今、病の中にある自分が、実はもうすでに、主イエスにあっては癒されているということを信じることなのです。復活のイエス様を信じるとはそういうことであります。
わたしたちは、この後に、讃美歌の532番をもって主を賛美します。その4節に、こう記されています。
ひるとなく、よるとなく/主はともにましませば、いやされぬやまいなく、さちならぬ禍もなし。
私たちは、この讃美歌で、「いやされぬやまいなく」と歌いますけども、それを病の中にある人が歌うのは、間違っているのでしょうか。決してそうではありません。例え、今、どのような病にあっても、主がともにいてくださる以上、「いやされぬやまいなく」と歌うことができるのです。イエス・キリストを信じる信仰によって、歌うことができるのです。その癒しが、この地上の生涯において実現するのか、あるいは、来るべき世において実現するのかは分かりませんけども、復活の主イエスを信じる私たちは、今すでに、「癒されぬ病なし」と高らかに歌うことができるのです。その復活の光の中で、今朝の御言葉を瞑想していただきたいと願います。