神を欺く罪 2006年11月26日(日曜 朝の礼拝)

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神を欺く罪

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 4章32節~5章11節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
4:33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。
4:34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
4:36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
4:37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
5:1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
5:2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
5:3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
5:4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5:5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
5:6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
5:7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
5:8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
5:9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
5:10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
5:11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。使徒言行録 4章32節~5章11節

原稿のアイコンメッセージ

 32節をお読みします。

 信じた人々の群れは心も思いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。

 イエス・キリストを信じる群れは、主にあって心も思いも一つにしておりました。人々は同じ一つの聖霊を与えられているゆえに、心も思いも一つにすることができたのです。そして、それは、心や思いという内面的なことに限られず、持ち物を共有することにおいても表されたのです。

 「一人として持ち物を自分のものだと言うものだと言う者はなく」とありますけども、これは言い換えれば、皆が自分の持ち物を主の物だと考えていたということです。24節にありますように、人々は、「主こそが、天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」と心を一つにして祈る者たちでありました。その信仰が、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有することによって、生活として表れているのです。

 33節をお読みします。

 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。

 29節、30節で、御言葉を大胆に語ること、イエスの名によって、しるしと不思議な業が行われることが祈られておりましたが、主はその祈りに答えられ、大いなる力をもって使徒たちの上に臨んでくださり、主イエスの復活を証しさせてくださいまいた。また、使徒たちだけでなく、皆の上に、大きな恵みを注いでくださったのです。新共同訳聖書は、「皆、人々から非常に好意を持たれていた」と訳していますが、このところは、文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書、どの翻訳聖書を見ても「大きな恵みが一同のうえにあった」と訳されています。もとの言葉には、「人々から」という言葉はありませんので、「大きな恵みが一同のうえにあった」との翻訳のほうがよいと思います。34節に、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」とありますけども、これは、一同のうえにあった恵みがどれほど大きいかを表しているのです。大きな恵みが一同のうえにあった。それは一人も貧しい人がいないほどであった。こうルカは記しているのです。そして、ここに、旧約聖書の約束が実現していることをルカは私たちに教えているのです。

 申命記の15章4節、5節にはこう記されています(旧約305頁)。

 あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。

 お気づくのように、神の祝福と、貧しい者がいなくなることがセットになっています。これは、使徒言行録の記述と同じです。神様の祝福、それは貧しい者がいなくなる、それほどの祝福なのです。けれども、それは、あなたがたが主の御声に聞き従うことによって実現されるのであります。つまり、貧しい人に惜しみなく貸し与えるという仕方でそれは実現するというのです。

 7節から11節をお読みします。

 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七日目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい物がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

 使徒言行録に戻ります(新約220頁)。

 34節から36節をお読みします。

 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ -「慰めの子」という意味- と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

 ここには、信者の中に、一人も貧しい人がいなかったこと。そして、それが、どのようにして可能であったかを教えています。

 「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄った」とありますが、これはもちろん強制されてではなく、自ら進んで為された行為です。信じた人々は、貧しい人々とも、思いと心を一つにしていたがゆえに、土地や家を売り、その代金を使徒たちの足もとに置いたのです。彼らは、貧しい人々の貧しさをそのようして共に担ったのです。また、それは直接、施すという仕方ではありませんでした。それは、使徒たちの足もとに置かれたのです。「足もとに置く」ことは、所有権の譲渡を意味します。つまり、これをご自由にお使いくださいと差し出したのです。そして、それを使徒たちが必要に応じて、おのおのに分配したのです。

 さて、これだけ見ますと、貧しい人々を救済することだけが目的とされる、今で言う、慈善団体と大差がないように思えます。例えば、生活にゆとりがある人が、ユニセフに募金をして、それをユニセフの職員が、貧しい人のために用いる。その原型をここに見ることができる。そのように思えるのです。しかし、ここで決定的に違うことは、それが主イエス・キリストの使徒たちの足もとに置かれたということであります。神殿に例えれば、これは祭壇に供えたことと同じなのです。ですから、土地や家を売ったお金は、貧しい人々のために使われるのでありますけども、それは神への献げもの、献金なのです。土地や家を売った者たち、彼らが献げたのは、何より主に献げたのであります。使徒たちの足もとにおいたということはそういうことです。そして、貧しい人々も、それを他でもない主からのものとして受けるのです。富める者と貧しい者の間に、主イエスがおられる。富める者は、それが主の御心であると信じ、土地や家を売り、その代金を使徒たちの足もとに置いた。そして、貧しい者も、生活に必要なお金を、主からの恵みとして受け取ったのであります。このことに気づきますと、ここに記されていることが、慈善団体とは一線を画する、主の祝福だけが形づくることができる交わりであることが分かるのです。

 私は、先程、使徒たちの足もとに置くことは、神殿の祭壇に献げることに等しい。使徒たちの足もとに置くことは、主に献げることだと申しました。しかし、これは、当時の人々からすれば、それほど、明かなことではなかったと思います。なぜなら、エルサレムにはちゃんと立派な神殿があったからです。当時の人々が、神様に献げると言えば、当然、エルサレム神殿を通して献げることを考えたと思います。

 けれども、ぺトロとヨハネが捕らえられ、最高法院との問答で明らかになったことは、その神殿祭儀を執り行い、管理していた指導者たちが、「神に従う者たちではない」ということでありました。むしろ、ペトロとヨハネは、自分たちこそが神に従う者たちであることを、その時、はっきりと自覚したのです。

 二人から、その話しを聞いた仲間たちもそうであります。前回、その祈りについて学びましたが、その背後にあるものは、主とそのメシアであるイエスに従う自分たちこそが、真の神の民、真のイスラエルだという自覚であります。

 この流れの中で、今朝の御言葉を読むとき、人々がエルサレムの募金箱にではなくて、使徒たちの足もとにその代金を持って来た理由が分かるのです。私たちが、献げる場所は、主イエスを十字架につけた指導者たちのもとへではない。そうではなくて、主が使わしてくださった使徒たちの足もとこそが、神に献げる本当の場所だということが分かったのです。それゆえ、使徒たちからバルナバと呼ばれるヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持ってきて使徒たちの足もとに置いたのです。使徒たちの足もとに置くことは、神にささげること。今や、神にささげるには、使徒たちの足もとに献げるしか道はない。そのことを知っていたがゆえに、バルナバは、畑の代金を使徒たちの足もとに置いたのです。

 しかし、そのことを弁えていない人たちもおりました。それがアナニアとサフィラの二人であります。5章1節から2節をお読みします。

 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

 アナニアも、土地を売り、その代金を使徒たちの足もとにおいたわけでありますが、それはその一部でありました。ここで「ごまかし」と訳されている言葉は、「盗む」とも訳することができます。ですから、このところは、「代金を盗んで、その一部を持って来た」とも訳すことができるのです。3節のペトロの言葉の中にも「なぜ、土地の代金をごまかしたのか」とありますが、これも「なぜ、土地の代金を盗んだのか」と訳すことができます。ですから、この言葉から分かることは、アナニアとサフィラは、前もって、土地を売ったその代金を主に献げると公に言っていたということです。ですから、そのことを使徒たちも知っていた。使徒たちばかりではなくて、他の人たちもおそらく知っていたのです。しかし、アナニアが実際に持って来たのは、その一部であったのです。

 すると、ペトロはこう言いました。

 「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになったではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

 アナニア夫妻が、土地を売り、その代金を使徒たちの足もとに置こうとしたことは、彼らが自主的に決めたことでありました。誰から強制されたものでもない、彼らが自分で決めたことなのです。売らないでおけば、自分のものだったし、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのです。つまり、彼らが自分で、土地を売り、その全額を献げることを決めたのであります。それなのに、彼らは、その代金をごまかして、その一部だけを持って来たのです。「ごまかす」という言葉は「盗む」とも訳せると申しましたが、その土地を売り、代金をささげると、公に告げた段階で、それは「主のもの」となっていたのであります。ですから、ここでペトロは、「なぜ、土地の代金をごまかしたのか、盗んだのか」と責めたのです。

 3節に「聖霊を欺く」とあり、4節には「神を欺く」とあります。さらに、飛びまして9節にも「主の霊を試す」とあります。「聖霊」「神」「主の霊」これらは同じお方を指していますが、ペトロはここでふさわしく使い分けているのです。3節で、「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて」と言うとき、この聖霊は、アナニアの心に宿ってくださった聖霊のことを言っているのだと思います。もしかしたら、この聖霊に促されて、彼らは、土地の代金をささげようと決心したのかも知れません。しかし、実際、土地を売って、現金を目にしたとき、その心にサタンの誘惑が聞こえてきたのではないかと思います。その一部だけを持って行って、これがあの土地の代金です。そう言っても誰にも分からないのではないか。そのようなサタンの誘惑が聞こえてきたのだと思います。そして、アナニアは、それを妻のサフィラにも話し、妻も承知の上で、それを使徒たちの足もとに持って来たのです。そう考えますと、土地を売ることの相談は、聖霊に促されてのものであったが、代金をごまかし、その一部だけを献げるという相談は、サタンの誘惑によって行われたということができるのです。ペトロの「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いたのか」という言葉は、そのアナニアとサフィラの心の移り変わりを教えているのであります。

 また、4節に「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」とあります。ここでの「人間」は使徒たちを、ここでの「神」は、使徒たちの背後にいる神を指しています。アナニアは、その一部を持って来て、これがあの土地の値段と言えば、使徒たちには分かるまいと高をくくっておりました。しかし、使徒ペトロは、それを見抜き、あなたが欺いたのは、私たちではなく、神なのだと告げるのです。それは、先程も、申しましたように、使徒たちの足もとに置くことは、神にささげるということであったからであります。そして、アナニアの突然の死は、そのことを明確に物語っているのです。なぜ、アナニアは、ペトロの言葉を聞くと、倒れて息が絶えたのか。それは、他でもない、アナニアが欺いたのは、人間ではなく、天地万物をお造りになった、私たちの命を支えておられる神であったからです。そして、同じことをサフィラの死からも教えられるのであります。

 アナニアとサフィラが、突然息絶えたという知らせは、それを聞いた人々に非常な恐れを起こさせました。おそらく、これを読む私たちもそうだと思います。なぜ、アナニアとサフィラは、サタンに心奪われ、聖霊を欺いてしまったのでしょう。それは、使徒たちの足もとに置くことは、神にささげることであるという意識が希薄であったからです。ペトロの「あなたは人間ではなく、神を欺いたのだ」という言葉は、このことを教えています。先程も申しましたように、この使徒たち足もとに置かれたお金は、貧しい人々の必要に応じて、分配されておりました。その必要を覚えて、バルナバは、畑を売って代金を持ってきましたし、アナニアとサフィラもその必要を覚えて、畑を売り、代金を献げようとしたのです。しかし、ここに、落とし穴があったのではないでしょうか。先程、この教会の姿は、この世の慈善団体のようにも見えると申しましたけども、もしかしたら、アナニアとサフィラは、主のことを忘れて、教会を慈善団体のように、考えていたのではないでしょうか。神に献げるといっても、その代金は、貧しい人たちに分配されるだけではないか、彼らはこう考えてしまったのです。これは、私たちも、陥りやすい誘惑ではないかと思います。私たちは、礼拝において、神様に献金をいたします。しかし、その献金はどのように使われるのかと言うと、牧師の給料であったり、大会や中会の負担金であったり、光熱費であったりするわけですね。そうすると、神様に献げるというけども、それは人間のために用いられるのではないか、こう思ってしまうのだと思います。そして、そう思った途端、神様にささげるという光栄な喜ばしい特権が、色あせてしまう。感謝と喜びを持って献げるべきはずの神への献金が、このくらいでいいだろうと打算的なものになる、そのような誘惑があるのです。私たちは、午後から会員総会を開こうとしているわけでありますけども、そこでは、まさに、献金がどのように使われたのか。そして、来年はどのように献金を用い、それを満たすために、どれだけの献金が必要なのかを話し合います。しかし、そこで、私たちが忘れてはいけないことは、教会のすべのお金は献金であり、それは神様のお金であるということです。私たちが献げた時点で、もう私たちのお金ではないのです。神様のお金は、神様のご用のために用いられる。神様の御心を実現するために用いられるべきものなのであります。そのことを覚えて、私たちはそれぞれの力に応じて、感謝と喜びをもって献げていきたい。神様は、ただ教会を通して、私たち人間の献げ物を受け取ってくださるのです。

 旧約聖書の創世記の4章にカインとアベルの物語があります。カインは土を耕す者となり、土の実りを主に献げた。そして、アベルは、羊を飼う者となり、肥えた羊を主に献げたのです。しかし、主は、アベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。私は、この物語を読むたびに、ある恐れを感じます。自分の献げ物が主に受け入れられなかったらどうしようと思うのです。もし、神様から、「今後一切、お前からの献げ物は受け入れない」と言われたらどうしようと恐れるのです。そのように恐れるとき、主が私たちの献げ物を喜び受け入れてくださることは、どれほど幸いなことかと思うのです。その幸いの道を、他でもない主イエス・キリストが十字架において御自身を献げることによって、切り開いてくださったのであります。ですから、私たちは、自分のうちに住んでおられる聖霊を欺いてはならない。教会を導いておられる主イエスを侮ってはならないのです。

 今朝の御言葉を通して、私たちも非常な恐れを抱き、主の民としての教会の歩みを整えて参りたいと願います。

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