主が喜ばれること 2021年4月28日(水曜 聖書と祈りの会)

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主が喜ばれること

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
サムエル記上 15章12節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:12 朝早く、サムエルが起きて、サウルに会おうとすると、「サウルはカルメルに行って自分のために戦勝碑を建て、そこからギルガルに向かって下った」との知らせが届いた。
15:13 サムエルがサウルのもとに行くと、サウルは彼に言った。「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果たしました。」
15:14 サムエルは言った。「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか。」
15:15 サウルは答えた。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」
15:16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。あなたに言わねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語られたことだ。」サウルは言った。「お話しください。」
15:17 サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。
15:18 主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。
15:19 何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」
15:20 サウルはサムエルに答えた。「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。
15:21 兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」
15:22 サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは/王位から退けられる。」サムエル記上 15章12節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『サムエル記上』第15章12節から23節より、「主が喜ばれること」という題でお話しします。

 朝早く、サムエルが起きて、サウルに会おうとすると、「サウルはカルメルに行って自分のために戦勝碑を建て、そこからギルガルに下った」との知らせが届きました。『出エジプト記』の第17章に、エジプトを脱出したばかりのイスラエルにアマレクが戦いをしかけてきたことが記されています。ヨシュアが率いるイスラエルは、モーセの祈りによって勝利をおさめます。そのとき、モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けたのでした。しかし、アマレク人に勝利したサウルは、ユダの南にあるカルメルに、自分のために戦勝碑を建てたのです。そのようにして、サウルは自分を偉大な者としたのです。サムエルがギルガルにいるサウルのもとに行くと、サウルはこう言いました。「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果たしました」。このサウルの言葉を読むと、私たちは、3節の主の御言葉、「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」という御言葉に忠実に従ったように思えます。しかし、そうでありませんでした。サムエルはサウルにこう言います。「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか」。サウルはこう答えました。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました」。ここでの「兵士」は元の言葉では民(アム)です。サウルは、羊や牛を引いてきたのは「民」であると責任転嫁しています。9節に、「しかしサウルと兵士(民)は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」と記されていました。しかし、サウルは、民がアマレク人のもとから羊や牛を引いて来たと言うのです。また、サウルは、民が羊と牛の最上のものを取って置いたのは、主への供え物にするためであったと言うのです。このようにサウルは、民に責任を押しつけ、さらには、その動機を宗教的な敬虔で装うのです。しかし、サムエルはサウルにこう言いました。「やめなさい。あなたに言わねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語られたことだ」。サウルが「お話しください」と言うと、サムエルはこう言いました。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ」。このサムエルの言葉は、サウルの「民が最上の羊と牛を主への供え物にしようと取って置いて、引いて来た」という主張に対する反論です。主によって油を注がれて、イスラエルの王とされたサウルには、自分ではなく、民がしたことだと言い訳することはできないのです。そして、王には誰よりも、主の御言葉に聞き従う義務があるのです。サムエルは続けてこう言います。18節から。「主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を獲ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか」。サウルは、「民が最上の羊と牛を取って置いたのは、主への供え物とするためだ」と言いましたが、サムエルは、「サウルが戦利品を獲ようと飛びかかった」と言います。最上の羊と牛を取って置いたのは、主に供えるためというよりも、その供え物の一部を食べるためであったのです。この戦いは、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くして献げること、聖絶することが命じられていました。ですから、アマレクとの戦いにおいて戦利品はないのです。すべてを滅ぼし尽くして主にささげるわけですから、通常の戦いとは違って、戦利品はないのです。そこで、サウルと民は、最上の牛と羊を主への供え物とするという大義名分によって、戦利品を獲ようとしたわけです。しかし、サウルは、サムエルにこう答えます。「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。兵士(民)が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです」。サウルは、自分が主の御声に聞き従ったと主張します。しかし、本当でしょうか。主は、サウルに、アマレクを討てと命じられました。しかし、サウルはアマレクの王アガグを殺さず、引いて来たのです。また、主はサウルに、「アマレクに属するものは一切、牛も羊も打ち殺せ」と命じられました。しかし、サウルと民は、主への供え物にしようと、最上の羊と牛を取って置いたのです。サウルは、「滅ぼし尽くして主に献げても、祭壇で供え物として献げても、同じではないか」と考えたのだと思います。ですから、彼は本心から、「わたしは主の御声に従いました」と言ったのだと思います。しかし、サムエルはこう言うのです。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは/王位から退けられる」。サウルは、滅ぼし尽くして主に献げても、祭壇で供え物として献げても、どちらでもよいではないかと考えました。しかし、そうではありません。なぜなら、主は、サウルに、「アマレクとアマレクに属する物を滅ぼし尽くして主に献げよ」と命じられたからです。主が喜ばれることは、何よりも主の御声に聞き従うことであるのです。サウルは、主に聞き従うことをしませんでした。主に聞き従うことなく、アガグを生きたまま引いて来て、最上の羊と牛を取って置いたのです。そのようにして、サウルは主に背いたのです。また、主の御言葉よりも自分の考えを優れたものとしたのです。23節に「反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい」とあります。占いの罪とは、神様の隠された意志を知ろうとする罪です。神様に背くこと、それは神様の明確な意志である神さまの言葉を退けて、神様の隠れた意志を知ろうとする占いの罪にあたります。また、神様の言葉よりも自分の考えを優先することは、自分を神とする偶像崇拝の罪に当たるのです。主の御声に聞き従わない。その根底にあるのは神さまに背く反逆と自分を神さまよりも優れた者とする高慢であります。そして、それは王としてふさわしくない態度であるのです。サムエルは、「主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」と言いました。ここにあるのは、「目には目を、歯には歯を」といった同害報復法であります。主はサウルが御言葉を退けたゆえに、サウルを王位から退けられるのです。第13章では、サウルの王権が続かないことが宣言されました。今朝の第15章では、サウルが王位から退けられることが宣言されるのです。

 今朝の奨励題を「主が喜ばれること」としました。主が喜ばれること、それは何よりも「主の御声に聞き従う」ことであります。私たちは、残念ながら、主の御声に完全に聞き従うことができません。しかし、私たちの王であるイエス・キリストは、主の御声に完全に聞き従われました。イエス・キリストは、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、父なる神様に従われたのです。それゆえ、私たちはサウルのような弱い者であっても、王位から退けられることはないのです。私たちは、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、王とされているのです(エフェソ2:6「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」参照)。

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