聖なる者として歩め 2021年4月25日(日曜 朝の礼拝)

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聖なる者として歩め

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
レビ記 19章1節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 主はモーセに仰せになった。
19:2 イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
19:3 父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
19:4 偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。
19:5 和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげなさい。
19:6 献げ物の肉は、ささげた当日とその翌日に食べねばならない。三日目まで残ったものは焼き捨てよ。
19:7 もし、三日目にわずかでも食べるなら、それは不浄なことであって、受け入れられることではない。
19:8 それを食べた者は責めを負う。主にささげられた聖なるものを汚したからである。その人は民の中から断たれる。
19:9 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。
19:10 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
19:11 あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。
19:12 わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
19:13 あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。
19:14 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
19:15 あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。
19:16 民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。
19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

レビ記 19章1節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 先週、御一緒に学んだ『ペトロの手紙一』の第1章14節から16節にこう記されていました。「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」。ここでペトロは、『レビ記』の第19章2節の御言葉を根拠として、小アジアに住むキリスト者たちに、「聖なる者となりなさい」と記しています。キリストを信じる私たちが生活の全ての面で聖なる者となるべき根拠が、『レビ記』の第19章に記されているのです。このことを念頭においていただいて、今朝は、『レビ記』の第19章から御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 最初に『レビ記』について簡単にお話しします。『レビ記』は『出エジプト記』の続きであります。『出エジプト記』には、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がモーセに現れたこと。主がモーセを用いて、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出されたことが記されています。主は、シナイ山で、イスラエルの民と契約を結び、御自分の宝の民とされたのです。主は、イスラエルに十戒を基本法とする戒めと法を与えられました。また、イスラエルの民と共に歩むために、臨在の幕屋を作るように命じられました。イスラエルの民は、主がモーセに命じられたとおりに臨在の幕屋を作りました。出エジプト記は、その臨在の幕屋に主の栄光が満ちた場面を記して終わっております。『レビ記』は、その臨在の幕屋から、主がモーセを通してイスラエルの人々に示された戒めであるのです(レビ1:1、27:34参照)。

 1節と2節をお読みします。

 主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたの神、主であるわたしは聖なる者である。

 ここで、主は、イスラエルの共同体に属するすべての人々に、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたの神、主である私が聖なる者であるからだ」と言われます(聖書協会共同訳参照)。「あなたの神、主である私が聖なる者だから、その私の民であるあなたたちは聖なる者となりなさい」と言われるのです。「主が聖なる者である」と言われるときの「聖」とは、どのような意味なのでしょうか。聖と訳される言葉(カードーシュ)は、もともとは「分離」や「輝き」を意味していたと考えられています。聖とは神様があらゆるものから分離しておられ、隔絶しておられ、超越しておられることを意味します。また、聖は神様の本質であり、まことの神様だけが持つ絶対的な尊厳を表します。多くの神々が信じられ、さまざまな偶像が拝まれていた世界において、神様は「聖」という言葉で、御自分があらゆるものから超越しておられる、絶対的な尊厳を持つ、まことの神であることを示されたのです。ですから、聖なる方は、天地万物を創造し、イスラエルをエジプトから導き出された主なる神様だけであるのです。聖なる神様の民として、イスラエルの人々は、「聖なる者となりなさい」と命じられているのです。「あなたがたは、聖なる私の民とされたのだから、聖なる私の民としてふさわしく歩みなさい」と主は言われるのです。

 では、聖なる者としてふさわしく歩むには、どうすればよいのでしょうか。それは聖なる神様の掟に従って歩むということです。それゆえ、3節以下には、神様の戒めがズラズラッと記されているのです。3節と4節をお読みします。

 父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。

 ここには、十戒の第五戒(あなたの父と母を敬え)、第四戒(安息日を覚えて、これを聖とせよ)、第二戒(あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない)が記されています。十戒を基本法とする戒めを守って歩むこと。それが聖なる者として歩むことであるのです。戒めの後に、「わたしはあなたたちの神、主である」と記されています。これは「この戒めは、あなたたちの神、主である私が命じるものであるから、守りなさい」ということです。なぜ、父と母を敬わねばならないのか。なぜ、安息日を守られねばならないのか。その答えは、「あなたの神、主である私がそのように命じるからだ」ということです。「わたしは、あなたたちの神、主である」。この言葉は、十戒の序文を思い起こさせる言葉です。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。この序文に続いて、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と十の言葉が語り出されるのです。このように、十戒は、主によって、エジプトの奴隷状態から解放されて、神様の民とされたイスラエルの人々に与えられた言葉であるのです。神様は、御自分の民ではない者たちに、十戒を守って御自分の民となれと言われたのではありません。神様は、御自分の民に対して、十戒を与えて、この戒めを守って神の民としてふさわしく歩みなさいと言われたのです。ですから、イスラエルの民には、救われた者としての感謝と喜びをもって、十戒を守ることが求められたのです。そして、今朝の御言葉でも、神様は、イスラエルの人々が救われたことの感謝の応答として、戒めを守ることを求めておられるのです。

 聖なる神様は、イスラエルの人々が聖なる者として歩むために、たくさんの戒めを与えられました。イスラエルの人々は聖なる神様の戒めを守ることによって、自分たちが聖なる神の民であることを実感したわけです。自分たちは、偶像を仰がない。それは、自分たちが聖なる神の民だからである。自分たちは、穀物を収獲するとき、畑の隅まで刈り尽くさない。それは、自分たちが聖なる神の民だからである。神様の戒めを守ることによって、彼らは、神様の御支配のもとに留まることができるわけです。

 私たちは、先程、十戒を御一緒に朗読しました。私たちは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪の奴隷状態から導き出されて、神様の民とされた者たちとして、十戒を朗読したのです。神様の民として、どのように生きればよいのか。聖なる神様の民としてどのように歩んだらよいのかを、十戒を通して教えられたのです。そして、この十戒を守ることによって、私たちは、神様の恵みの御支配のもとに留まることができるのです(掟は柵のようなもの)。十戒は、大きく二つに分けることができます。それは神様に対する掟と隣人に対する掟です。イエス様は、『マタイによる福音書』の第22章で、こう仰せになりました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37~40)。このイエス様の御言葉は、十戒に対応しているわけです。イエス様は、十戒の要約として、全身全霊で神様を愛することと自分のように隣人を愛することの二つの戒めを最も重要な掟であると教えられたのです。この二つの掟を、私たちはイエス様から与えられているのです(「罪の勧告と祈祷」でこの二つの掟が読まれることの意味)。

 この第二の掟については、『レビ記』の第19章18節に記されています。

 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

 ここには、イエス様が教えられた最も重要な掟の第二の掟、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という掟が記されています。イスラエルの人々は聖なる者としてふさわしく歩むために、自分を愛するように隣人を愛することが命じられていたのです。そして、同じことが、イエス・キリストを信じて聖なる神の民とされている私たちにも命じられているのです。

 「自分のように隣人を愛しなさい」。この掟を私たちが守ろうとするとき、思い起こすべきことがあります。それは、「わたしは主である」と言われる神様とイエス様が、私と私の隣人を愛しておられるということです。神様は、独り子を与えられたほどに、私と私の隣人を愛してくださっている。また、イエス様は、命を捨てられたほどに、私と私の隣人を愛してくださっている。その神様とイエス様の愛が、私たちの心に聖霊によって注がれている。私たちは、神様とイエス様から愛されている者たちである。神様とイエス様との愛の交わりに生かされている者たちである。その神様とイエス様の愛を源として、私たちは、自分を愛し、自分のように隣人を愛するのです。

 では、私たちの隣人とは誰でしょうか。『レビ記』において、隣人は、同胞の民イスラエルであります(ただし、寄留者を含む。34節参照)。しかし、イエス様は、「善いサマリア人のたとえ」で、隣人とは助けを必要としているすべての人であると教えられました(ルカ10章参照)。私たちは、助けを必要としているすべての人に、自分を見出して、憐れみの業を行うべきであるのです。イエス様を信じる私たちにとって、隣人は、人種や民族や国籍の違いを越えたすべての人、神のかたちに似せて造られたすべての人であるのです。考えてみますと、イエス様にとって、私たちは外国人でありますね。イエス様は、外国人である私たちを憐れみ、救ってくださいました。ですから、私たちも人種や民族や国籍の違いを越えて、すべての人の隣人になることが求められているのです。そして、ここに、キリスト教が世界宗教である理由があるのです。キリスト教が世界宗教であるのは、イエス・キリストの愛が全世界の人々に注がれているからであり、その弟子たちが全世界の人々を自分のように愛することを命じられているからであるのです。そして、そのような私たちを通して、イエス・キリストの父なる神が聖なる愛のお方であることが世に示されるのです。

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