十人のおとめのたとえ 2015年10月11日(日曜 朝の礼拝)
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十人のおとめのたとえ
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 25章1節~13節
聖書の言葉
25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタイによる福音書 25章1節~13節
メッセージ
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イエス様は、御自分が人の子として天から来られることにより、主の日が到来し、この世が終わると教えられました。私たちが住んでいるこの世界は、今、天におられるイエス・キリストが、栄光の人の子として来られることによって、終わりを迎えるのです。では、その後は、どうなってしまうのでしょうか?天地が創造される前の無の状態に戻るのでしょうか?そうではありません。新しい世界が始まるのです。イエス様は、19章28節で、弟子たちにこう言われておりました。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。人の子であるイエス様が栄光の座に座るとき、新しい世界になるのです。その新しい世界を、イエス様は今朝の御言葉で、「天の国」と言い表しているのです。「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」。今朝の御言葉は、「天の国のたとえ」でありますが、その天の国は、イエス様の福音宣教において到来した天の国ではなくて、イエス様が人の子として来られることによって、その裁きを通して完成される天の国であるのです。4章17節によれば、イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められました。「天の国」は「神の国」のことでありまして、より正確に言えば、「神の王国」、「神の王的御支配」のことであります。神様が王として御支配される領域が「神の国」、「天の国」であるのです。今からおよそ2000年前、「天の国」はイエス・キリストにおいて到来いたしました。イエス様の権威ある教えや権威ある業、病の癒しや悪霊追い出しはそのことをあらわす徴であったのです。イエス様は、御自分において到来した神の国について、13章でやはりたとえを用いて教えられました。イエス様は御自分において到来した神の国をからし種やパン種にたとえて教えられたのです。そして、今朝の御言葉では、御自分が人の子として来られるときに完成する天の国を十人のおとめにたとえて教えられるのです。しかし、このたとえは天の国そのものというよりも、天の国を待ち望む弟子たちの姿勢について教えるたとえであると言えます。イエス様は、24章45節で、「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか」と言われておりました。主イエスが来られることを待つ僕である私たちには、忠実で賢いことが求められているのです。では、その「賢さ」とは、どのような賢さであるのか?そのことを教えるために、イエス様は、十人のおとめのたとえをお語りになるのです。
当時、ユダヤでは夜に結婚式が行われ、花婿が花婿の友人たちと行列をなして、花嫁の家に迎えに行きました。その花婿を花嫁に先立って迎えるのが花嫁の友人である十人のおとめたちであったのです。これはたとえでありますから、その意味するところを確認しておきたいと思います。ここでの「花婿」とは、栄光の人の子として来られるイエス様であります。かつて、イエス様は、ヨハネの弟子たちから、「なぜ、あなたたちの弟子たちは断食しないのですか」と問われたとき、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」と言われました。今朝の御言葉でも、イエス様は御自分を「花婿」に譬えておられるのです。また、花婿が来ることを待つ「十人のおとめ」は、キリストの弟子である私たちのことであります。そして、花婿が来ることによって始まる婚宴こそ、「天の国」であるのです。イエス様は、22章2節で、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と言われましたが、今朝の御言葉でも「天の国」を「婚宴」に譬えられているのです。花婿はイエス様、十人のおとめは私たち、婚宴は天の国、これらのことを確認した上で、たとえ話そのものを見ていきたいと思います。
花婿を迎えに出て行くために、花嫁の家に十人のおとめが集まっていたのですが、「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と記されています。イエス様は、何を基準にして、「愚か」とか「賢い」と言われているのでしょうか?その基準は油を用意していたかどうかであります。「愚かなおとめたちは、ともし火を持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」。ここでの「ともし火」はランプのことであります。たいまつと解釈する人もいるのですが、話全体から考えて、ランプのことであると思います。当時のランプは、陶器の器に、油を入れて、その油に灯心となる布きれを垂らしたものでありました。今で言うと、お茶を入れる急須のようなものであります。愚かなおとめたちは、ランプを持っていましたが、予備の油を持っていませんでした。しかし、賢いおとめたちは、ランプと一緒に、壺に油を入れて持っていたのです。賢いおとめたちは、もしかしたら花婿が遅れるかも知れないということを考えて、予備の油を持っていたのです。実際、ユダヤの結婚式において、花婿が遅れるということがあったと言われています。花婿が花嫁を迎えに行くまえに、花婿は花嫁の父親と結納金などの交渉をしたと言われています。花嫁の父親は、大切な娘を嫁に出すわけですから、少しでも結納金の金額を上げようとして、その交渉が長引くということがあったのです。このイエス様のたとえ話でも、花婿は時間通りに来ませんでした。「ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」。ここには、イエス様が来られるのが遅れていると考えるマタイの教会の状況が反映されていると読むこともできます。また、現代の私たちからすれば、イエス様が十字架の死から復活され天に昇られてから、2000年近く経っているわけですから、イエス様が来るのは大変遅れているわけです。花婿が来るのが遅れたので、おとめたちは皆眠気がさして眠り込んでしまいました。すると、突然、真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしました。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えるのですが、愚かなおとめたちはあることに気がつきます。それはランプの油がなくなりかけており、火が消えそうであるということです。このとき、おとめたちはまだ家の中にいたようですが、ランプをともしていたようです。ランプをともして眠っていたようであります。それで、起きてランプを整えてみると、愚かなおとめたちは、油がなくなりそうで、火が消えかかっていることに気づいたのです。ランプに火がともっていることは、花婿を迎える花嫁の友人であることを示す欠かすことのできない徴でありました。当時は電気はありませんし、街灯もありませんから、ともし火を持たずに夜の道を歩くことはできないわけです。愚かなおとめたちも、婚宴に出席したいわけですから、ともし火が消えそうであることは、大問題であったわけです。それで、愚かなおとめたちは、賢いおとめたちにこう言いました。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」。それに対して賢いおとめたちはこう答えました。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」。真夜中に店が開いているのかなぁと疑問に思うのですが、愚かなおとめたちが買いに行っているのを見ると、開いている店があったようです。ある研究者は、「小さな村で婚宴がある夜は、夜中でも店が開いていることがあったであろう」と記しています。愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿は到着し、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められました。このたとえ話では、「花嫁」が出てこないのですが、ここでは、用意のできている五人のおとめたちがまるで花嫁のように描かれています。この婚宴がどこで開かれたのかは記されておりませんが、通常、婚宴は花婿の家で行われました。花婿は花嫁の家に花嫁を迎えに行き、自分の家で婚宴を祝ったのです。ですから、ここでも花婿の家で婚宴が行われたと考えたいと思います。花婿の家の戸が閉められた後で、ほかのおとめたちも来て、「ご主人様、ご主人様、開けてください」と言いました。しかし、その家の主人である花婿はこう答えます。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」。こうして、愚かなおとめたちは、祝宴の席に入ることはできなかったのです。すなわち、イエス様が来られたとき、迎えに出る用意のできていなかったキリスト者たちは、天の国に入ることができなかったのです。ですから、イエス様は、13節でこう言われます。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。イエス様は、「目を覚ましていなさい」と言われていますが、これが文字通り眠らないでいることではないことは明かです。なぜなら、愚かなおとめも賢いおとめも皆眠り込んでしまったからです(5節)。では、「目を覚ましている」とは、どのようなことを言うのでしょうか?それは、花婿を迎えに出る「用意ができている」ということです(10節)。賢いおとめたちは、花婿が遅れるかもしれないと考えて、ともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていました。賢いおとめたちは、真夜中に花婿が来ても迎えに出ることができるように、用意をしていたのです。イエス様は、御自分がいつ来ても、迎えに出ることができるように用意をしておきなさいと、私たちに言われているのです。もし、迎えに出る用意ができていなければ、天国に入ることができないぞと、警告しておられるのです。
私たちは、花婿であるイエス様がいつ来られても迎えに出ることができるように、油を用意し、ともし火をともし続けなくてはなりません。では、ともし火をともし続けるとは、どういうことでしょうか?それは、イエス様の御言葉を聞き、そのイエス様の御言葉を行うことであります(7:24参照)。イエス様の御言葉に聞き従う、立派な行いをし続けること、それが、イエス様がいつ来られても迎えに出ることができる、私たちがなすべき用意であるのです(5:16参照)。このことは、「迎えに出る」という言葉に着目すると、よくお分かりいただけると思います。もし、私たちがイエス様の御言葉に聞き従っていないならば、私たちは喜んで、イエス様をお迎えに出ることができるでしょうか?もっと言えば、イエス様の御言葉に背いて罪を犯しているときに、イエス様が来られたら、喜んで迎えに出ることができるでしょうか?できないと思います(創世3:8参照)。しかし、イエス様の御言葉に聞き従って良い業に励んでいるならば、私たちは喜んで、花婿であるイエス様を迎えに出ることができるのです。そして、そのために、私たちは御言葉と共に働かれる油・聖霊をいただかなくてはならないのです(一ヨハネ2:26参照)。イエス様の御言葉に聞き従うというともし火をもやし続けるには、油である聖霊いただかなくてはならないのです。イエス様がいつ来られても迎えに出ることができるように、私たちはイエス様の御言葉を聞き、イエス様の聖霊をいただいて、良い行いをし続けることが求められているのです。そのように用意することができるように、イエス様は、私たちを週毎に、礼拝へと招いてくださっているのです。イエス様がいつ来られても、私たちが喜んで迎えに出ることができるように、イエス様は、礼拝を通して、悔い改めと信仰の生活へと私たちを導いてくださるのです。