稲妻がひらめき渡るように 2015年9月27日(日曜 朝の礼拝)

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稲妻がひらめき渡るように

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 24章15節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:15 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
24:17 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
24:18 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
24:19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
24:20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
24:21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
24:22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
24:23 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
24:24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
24:25 あなたがたには前もって言っておく。
24:26 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
24:27 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
24:28 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」
24:29 「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
24:30 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
24:31 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」マタイによる福音書 24章15節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は神殿を指さす弟子たちに、「これらのすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われました。この発言を受けて、イエス様がオリーブ山で座っておられるとき、弟子たちは密かにこう尋ねました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」。この弟子たちの問いに対するイエス様の答えを今朝もご一緒に学びたいと願います。今朝は15節からでありますが、今朝の御言葉を読みますと、弟子たちの第一の質問、「神殿の崩壊はいつ起こるのですか」という質問に答えておられるように思われます。イエス様は、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と言われました。「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者」とは何でしょうか?旧約聖書のダニエル書9章27節に次のような御言葉があります。「彼は一週の間、多くの者と同盟を固め/半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついて、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」また、11章31節には次のように記されています。「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる」。また、12章11節にもこう記されています。「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている」。これらのダニエル書の預言は、紀元前2世紀のシリアの王アンティオコス・エピファネスによって実現したと考えられています。実現したというよりも、アンティオコス・エピファネスの振る舞いが預言として記述されていると考えられているのです。いわゆる事後預言であります。旧約聖書続編の中に、マカバイ記という書物がありますが、マカバイ記一の1章54節に、シリアの王アンティオコスが、『祭壇の上に『憎むべき破壊者』を建てた」と記されています。アンティオコスは、エルサレム神殿の祭壇の上にギリシアの最高神であるゼウスの像を建てたのです。そのようなユダヤの歴史を踏まえて、イエス様は、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」と言われるのです。「読者は悟れ」とありますが、それはダニエルの預言がシリアの王アンティオコス・エピファネスだけでは終わらない預言であるからです。ダニエルの預言は、これからエルサレム神殿において実現する預言であり、もっと言えば、世の終わりに実現する預言であるのです(二テサロニケ2:4参照)。ですから、私たちも、ダニエルが預言した憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つことがないかどうかを注意深く見守っていく必要があるのです。

 イエス様は、預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら、「そのとき、ユダヤにいる人々(弟子たち)は山に逃げなさい」と言われます。なぜなら、そのときこそ、神殿が徹底的に破壊されるときであるからです。エルサレム神殿の崩壊は、イエス様を受け入れない者たちへの主の裁きであるからです。23章37節、38節で、イエス様はこう言われておりました。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられ荒れ果てる」。その昔、神様はバビロン帝国を用いて御自分に背き続けるエルサレムを滅ぼされました。それと同じように、神様は預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を打ち殺すエルサレムを、ローマ帝国を用いて滅ぼされるのです。神の御子であり、メシアであるイエス様を受け入れないことによって、エルサレムは自らに滅びを招いてしまうのです。ですから、その滅びに、イエス様を信じる弟子たちは巻き込まれてはならないわけです。それゆえ、イエス様は、「山に逃げなさい」と言われるのであります。これは、旧約聖書の創世記19章に記されているソドムからロトたちが逃げた記事を思い起こさせます。そのとき御使いたちはロトをせきたててこう言いました。「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に降る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」。また、こうも言いました。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと滅びることになる」。二人の御使いがロトに「山に逃げなさい」と言ったように、イエス様も、「山に逃げなさい」と言われるのです。しかも、「屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる物は、上着を取りに帰ってはならない」と即座に、速やかに逃げるよう命じられるのです。「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」とありますが、これは妊娠していることと、赤ちゃんがいることが逃げることの妨げになるからです。また、「逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい」とありますが、冬は寒く、山に逃げて留まるには良い季節とは言えません。また、安息日には、移動できる距離が制限されていましたから、安息日も逃げる日には適しませんでした。それで、イエス様は、「逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい」と言われたのです。21節に、「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである」とありますが、これはダニエル書の12章1節を受けての言葉であります。ダニエル書12章1節にはこう記されています。「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は」。ダニエルは、「国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難」が来ることを預言しましたが、イエス様は、「世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る」と預言されます。そして、この預言は、紀元70年のエルサレム陥落によって実現し、また、世の終わりに実現する預言でもあるのです。それほどの苦難に耐えられるであろうかと私たちは心配してしまうのですが、そのような私たちにイエス様はこう言われます。「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」。終わりの時には、大きな苦難がやって来ます。しかし、その大きな苦難も神様の御手のうちにあるのです。イエス様は、14節で、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われましたけれども、神様は私たちが耐え忍ぶことができるように、その苦難の期間を縮めてくださるのです(一コリント10:12、13参照)。その苦難の期間において、私たちが注意すべきこと、それは「『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない」ということであります。終わりの時には、「偽メシアや偽預言者が現れて、大きな業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするから」です。イエス様はこう言われます。「あなたがたに前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と行っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」。私たちが気がつかないうちに、イエス様がどこかの国に来られているということはありません。また、私たちが気がつかないうちに、イエス様が来られて、どこかに隠れておられるということもありません。なぜなら、イエス様は、稲妻が東から西へひらめき渡るように、誰の目にも明かな仕方で、栄光の人の子として来られるからです。それは、はげ鷹が集まっているところに、死体があるのと同じように、誰の目にも明かなことであるのです。私たちは、私たちの罪のために十字架に死んで、私たちを義とするために復活されたイエス・キリストが天に上げられたこと。そして、今、父なる神の右に座しておられることを信じています。さらには、イエス・キリストが生きている者と死んだ者とを裁くために、栄光の人の子として世の終わりに来られることを信じているのです。その私たちが誰にも惑わされないように、イエス様は、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来る」と言われるのです。イエス様は私たちを苦難から救うために、栄光の人の子として来てくださるのです。そして、そのようなお方として、こう言われるのです。「その苦難の日々の後、たちまち、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。ここに記されていることは、いずれも主の日の到来を預言する現象であります。例えば、旧約聖書のイザヤ書13章9節、10節には、次のように記されています。「見よ、主の日が来る/残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ/そこから罪人を絶つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず/太陽は昇っても闇に閉ざされ/月も光を輝かせない」。イエス様は、このような主の日の到来の預言を背景に、「その苦難の日々の後、たちまち、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」とお語りになったのです。すなわち、主の日の預言は、御自分が人の子として来ることによって実現するとイエス様は教えられるのです。主の日とは、主なる神の裁きの日であります。主なる神が御自分の民を救い、御自分に逆らう者に罰を与える日です。その裁きを行うために、イエス様は人の子として、大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来られるのです。このイエス様の御言葉も、旧約聖書のダニエル書7章の預言を背景にしております。ダニエル書7章13節、14節にこう記されています。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない」。イエス様は、「日の老いたる者」、すなわち神様から権威、威光、王権を受けた者として、すべての人を裁くために力と栄光を帯びて天の雲に乗って来られるのです。そのイエス様のお姿を見て、「地上のすべての民族は悲しむ」と記されています。この地上のすべての民族とは、御国の福音を信じなかった人々のことであります。14節に、「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」とありましたが、御国の福音を受け入れなかった人々は悲しんで、栄光の人の子を見ることになるのです。なぜなら、御国の福音を受け入れなかった人々は、その日、自分の罪に対する罰を受けねばならないからです。イエス・キリストの福音を信じ受け入れない人々にとって、主の日は恐るべき破滅の日であるのです。しかし、イエス・キリストの福音を信じ受け入れている者にとっては、主の日は喜ばしい救いの日であります。私たちは、イエス様が人の子として来られる終わりの日に、罪と死の支配から完全に救われるのです。

 31節に、「人の子は、大きなラッパを合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と記されています。「ラッパ」は旧約聖書で言えば「角笛」であります(イザヤ27:13参照)。30節に、「そのとき、人の子の徴が天に現れる」とありましたが、「徴」は旧約聖書で言えば「旗」のことです(イザヤ11:12参照)。この「旗」と「角笛」は、散らされていた人々を集めるための道具でありました。それゆえ、世の終わりには、「人の子の徴が天に現れ」、「大きなラッパの音」が鳴り響くと言われているのです。このラッパの音を合図に、人の子であるイエス様は天使たちを遣わされます。そして、イエス様によって選ばれてた者たちは全世界から呼び集められるのです。そのとき、私たちはどこにいようと、天使たちによって、主イエス・キリストの御前に呼び集められるのです。そのようにして、私たちは、栄光の人の子であるイエス・キリストをほめたたえる祝福にあずかることができるのです(二テサロニケ1:10参照)。

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