耐え忍ぶ者は救われる 2015年9月20日(日曜 朝の礼拝)
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耐え忍ぶ者は救われる
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 24章1節~14節
聖書の言葉
24:1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
24:2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
24:4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
24:6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
24:9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
24:10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
24:11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」マタイによる福音書 24章1節~14節
メッセージ
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今朝の御言葉には、イエス様が神殿の境内を出て行かれたことが記されています。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」と言われて、イエス様は神殿の境内を出て行かれたのです。そのイエス様に弟子たちが近寄って来て、神殿を指さしました。マルコ福音書の並行箇所を見ますと、弟子の一人がこう言ったと記されています。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」。しかし、イエス様はこう言われるのです。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」。ここでイエス様は、エルサレム神殿が徹底的に破壊されることを預言しておられます。このことは、エルサレム神殿の崩壊が、神の御子であり、メシアであるイエス様を受け入れなかったことに対する神様の裁きであることを教えています。実際、紀元70年にエルサレム神殿はローマ帝国の軍隊によって徹底的に破壊されます(紀元66~70年第一次ユダヤ戦争)。なぜ、エルサレム神殿がローマの軍隊によって徹底的に破壊されてしまったのか?それは、神の御子であるイエス様が出て行かれた神殿がもはや「神の家」ではなく、「おまえたちの家」となってしまっていたからです。
エルサレム神殿の崩壊を預言したのは、イエス様が最初の人ではありません。旧約の預言者であるミカとエレミヤも、エルサレム神殿の崩壊を預言しました。そして、その預言のとおり、エルサレム神殿はバビロン帝国の軍隊によって徹底的に破壊されたのです(紀元前587年)。イエス様と弟子たちが目の当たりにしている神殿は、ソロモン王によって建てられた神殿ではなく、バビロン捕囚の後に造られた第二神殿であり、ヘロデ大王によって大改修・増築されていた、いわゆるヘロデの神殿であったのです。エルサレム神殿が徹底的に破壊されること、それは当時のユダヤ人にとって、考えられないこと、世の終わりを思わせる出来事でありました。ですから、弟子たちは、イエス様がオリーブ山に座っておられるとき、ひそかにこう尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」。ここで、弟子たちは、二つのことを尋ねております。一つは、「エルサレム神殿の崩壊がいつ起こるのか」ということです。そして、もう一つは、「イエス様が来られて世の終わるときには、どんな徴があるのか」ということです。私は正直申しまして、このとき、弟子たちが、「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と質問したとは到底思えないのです。確かに、イエス様は、弟子たちに死と復活だけではなく、再臨についても教えられました。例えば、16章27節で、イエス様は弟子たちにこう言われました。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのときそれぞれの行いに応じて報いるのである」。また、この世が終わって新しい世が来ることについては、19章28節で教えておられます。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたもわたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めるようになる」。しかし、弟子たちが、「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」とイエス様に問うたとはやはり考えにくいのです。福音書記者マタイが、この福音書を記すにあたって用いた一つの資料は、マルコによる福音書であると考えられています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、その内容が似ておりますが、それは、マタイとルカが、マルコによる福音書を一つの資料として用いたからであると考えられております。紀元70年頃にマルコによる福音書が記され、それを一つの資料として、紀元80年頃にマタイ福音書とルカ福音書がそれぞれ記されたと考えられているのであります。そのマルコによる福音書の並行箇所を見ますと、弟子たちはイエス様にこう尋ねているのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。マルコ福音書において、弟子たちが尋ねたことは、エルサレム神殿の崩壊がいつ起こるのかということと、それが実現するときの徴でありました。しかし、マタイ福音書の弟子たちは、「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と問うているのです。このように記すことにより、福音書記者マタイは、「エルサレム神殿の崩壊」と「イエス様の再臨によって世が終わること」を区別しているのです。マルコによる福音書が執筆されたのが70年頃であり、エルサレムの神殿がローマ帝国の軍隊によって滅ぼされたのが70年でありますから、マルコ福音書がエルサレム神殿の崩壊の後に記されたのかどうかはよく分かりません。しかし、マルコ福音書の13章を読みますと、エルサレム神殿の崩壊の後に、イエス様が栄光の人の子として来られるかのように記されています。ですから、エルサレム神殿の崩壊を目の当たりにしたキリスト教会は、イエス様がすぐにでも来てくださると期待したはずであります。しかし、マタイ福音書が執筆された80年頃になっても、イエス様は来られませんでした。それで、福音書記者マタイは、弟子たちの質問をエルサレム神殿の崩壊の時期についての質問と、イエス様が来られて世が終わるときの徴についての質問とに分けて、区別して記しているわけです。それは言い換えれば、この弟子たちの質問の背後には、この福音書が執筆された当時のマタイの教会の問いがあるということであります。マタイによる福音書は80年頃記されたわけですから、エルサレム神殿が紀元70年に、ローマ帝国の軍隊によって滅ぼされたことを知っているわけです。ですから、この福音書を読む読者にとっての関心は、第二の質問、「あなたが来られて世の終わるときは、どんな徴があるのですか」にあるのです。そして、それは私たちの問いでもあるのです。私たちは、使徒信条で告白しているように、イエス・キリストが今、天の父なる神の右に座しておられること、そして、いつの日か、生きている者と死んだ者とを裁くために、再び地上に来てくださることを信じております。この世界とその歴史は、イエス・キリストの再臨によって終わりを迎えることを信じているのです。では、イエス様が来られて世が終わるときは、どんな徴があるのでしょうか?そのような私たちの問いに、イエス様はこうお答えになるのです。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」。ここで、イエス様は、偽メシアの出現、戦争の騒ぎや戦争のうわさ、方々で起こる飢饉や地震について言われておりますが、これらは世の終わりの徴というよりも、産みの苦しみの始まりであると言われます。これらは新しい時代を迎えるにあたって、起こらなければならないことであるのです。このようにイエス様が言われる意図は、私たちが誰にも惑わされず、慌てないで落ち着いた生活をするためであります。水曜日の朝の祈祷会で、テサロニケの信徒への手紙二を学んでいるのですが、テサロニケの信徒たちの中には、主の日がすぐにでも来るのではないかと動揺して分別を無くして慌てふためいている者たちがおりました。主の日がすぐに来るかも知れないと考えて、少しも働かず余計なことをしている者たちがいたのです。そのようなテサロニケの信徒たちに、パウロは、主の日はまだ来ない。なぜなら、世の終わりの徴である神の対する反逆が起こっておらず、不法の者が出現していないからだと言うのです。イエス様が来られて、世が終わると信じるキリスト者にとって、「わたしがメシアである」と名乗る人が出て来れば、惑わされやすいわけです。また、戦争の騒ぎやうわさを聞いたり、飢饉や地震を体験すれば、世界の終わりだと慌ててしまうわけです。しかし、イエス様は、それらは世の終わりの徴というよりも新しい時代を迎えるための産みの苦しみの始まりだと言われるのです。そして、その産みの苦しみは、イエス様の弟子である私たちが受ける苦しみでもあるのです。9節以下で、イエス様はこう言われております。「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」。ここで、イエス様は弟子である私たちに迫害を予告しておられます。そして、この迫害によって教会の多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになると言うのです。偽預言者に多くの人が惑わされ、不法がはびこり、愛が冷えるというのです。ここに描かれているのは、教会が衰退していく姿です。イエス様が来られる世の終わりに、私たちは完全な救いにあずかること、神が人と共に住む、新しい天と新しい地の祝福にあずかることを信じております。しかし、その世の終わりの祝福にあずかるには、苦難を経なければならないのです。私たちの主であり、師であるイエス様が、十字架の死という苦難を経て栄光に入られたように、私たちも苦難を経て栄光に入るのです。そのことをイエス様は前もって、私たちに教えてくださっているのです。それは、私たちが「最後まで耐え忍び救われるため」であります。「以前は、イエス・キリストを信じていた」というのではなくて、生涯にわたってずっとイエス・キリストを信じて救われるために、イエス様は前もって教会が受ける苦難を予告しておられるのです。
イエス様は14節で、「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と言われています。このイエス様の御言葉から判断しますと、全世界に福音が宣べ伝えられることこそが、世の終わりの徴であると言えます。私たちキリスト教会が苦難を耐え忍びながら行う福音宣教こそが、世の終わりの徴であるのです。それは、全世界の人々が、イエス・キリストの福音を聞いて救われるためであります。また、もっと言えば、世の終わりに主の正しい裁きが行われるためであるのです。なぜなら、世の終わりの裁きの基準は、十字架と復活の主であるイエス・キリストを受け入れたかどうかであるからです。
外からの迫害、内からの分裂といった苦難に耐え忍びながら、福音を証しし、宣べ伝える。これは、人間の業では不可能なことであります。それは、イエス・キリストが私たち用いて行ってくださる主の御業であるのです。復活されたイエス・キリストは、弟子たちに次のように言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。ここでイエス様は全世界の人々に福音を宣べ伝えるように命じられると共に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。これは、聖霊において共にいてくださるということであります。イエス様は、御自分の名によって二人または三人が集まるただ中にいてくださるお方であるのです。ですから、私たちは最後まで耐え忍び、御国の福音を証しし、宣べ伝えることができるのです。
イエス様が来られる世の終わりの徴は何か?それは他でもない福音を証しし宣べ伝える私たち自身であるのです。教会の交わりに留まり続け、礼拝をささげるという仕方で、御国の福音を証し、宣べ伝えるところに、世の終わりを待ち望むふさわしい姿勢が整えられるのです。そして、それは御言葉と聖霊によって、イエス・キリストが私たちの内に形作ってくださる信仰の姿勢であるのです。