メシアはダビデの子か 2015年8月23日(日曜 朝の礼拝)
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メシアはダビデの子か
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 22章41節~46節
聖書の言葉
22:41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
22:42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
22:43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
22:44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
22:45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
22:46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。マタイによる福音書 22章41節~46節
メッセージ
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前回、私たちは、ファリサイ派の律法の専門家がイエス様を試そうとして、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたこと。そして、イエス様が、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と答えられたことを学びました。ファリサイ派の律法の専門家はイエス様を試そうとする悪意から質問したのですが、イエス様は律法の精神とも言えるとても大切なことを教えられたのでありました。
さて、今朝の御言葉にもイエス様とファリサイ派の人々の問答が記されていますが、ここでは、イエス様の方からファリサイ派の人々に尋ねておられます。41節に、「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった」とあるように、ファリサイ派の人々がイエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけようと相談しているところに、イエス様は出向かれて、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」とお尋ねになったのです。ファリサイ派の人々については、これまで何度も出て来ましたが、確認のために申しますと、彼らは、律法を熱心に守る真面目なグループであります。最高法院は祭司長、律法学者、長老の三者の代表からなっておりましたが、長老たちや律法学者たちはファリサイ派に属していたと言われています。ですから、ここで集まっていたファリサイ派の人々は最高法院の議員たちであったのです。そのファリサイ派の人々に、イエス様の方から、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」と尋ねられたのです。ここで「メシア」と訳されている言葉は元の言葉を見ますと、「キリスト」と記されています。新約聖書は元々ギリシャ語で記されていますが、「あなたたちはキリストことをどう思うか」と記されているのです。それを新共同訳聖書は、ヘブライ語の「メシア」と訳したのです。つまり、ヘブライ語の「メシア」のギリシャ語訳が「キリスト」であるということであります。「メシア」の意味でありますが、これは「油を注がれた者」という意味であります。イスラエルにおいて、王や祭司や預言者が任職する際に、油をその人の頭に注ぐという儀式を行いました。この油は神の霊を見える仕方で表すものでありまして、その人の頭に油を注ぐことにより、その人に神の霊が降ったことを表したのです。そのようにして、その人を神様の特別なお働きをするものとして聖別したのです。そのようなイスラエルの社会にあって、イエス様は、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」と尋ねられたのです。これに対して、ファリサイ派の人々は、「ダビデの子です」と答えました。私たちはこの答えから、ファリサイ派の人々が望んでいたメシア・油を注がれた者が、ダビデのような王であったことを教えられます。そして、これは当時の人々の期待でもあったのです。ですから、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城した際、大勢の群衆が「ダビデの子にホサナ」と叫んだのでありました。先程、わたしは、イスラエルにおいて、王や祭司や預言者が任職する際、油を注ぐ儀式を行ったと申しましたが、預言者については、旧約聖書の中にその事例は一つしか記されていません。列王記上の19章で、主がエリヤに、「エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ」と言われているだけです。ですから、メシア・油を注がれた者というとき、そこで考えられたのは王であり、また祭司であったと思います。そして、イエス様の時代、大祭司が油を注がれた者として任職しているわけですから、イスラエルが待ち望むメシア・油注がれた者と言えば、当然、王であったわけです。当時、イスラエルは、自治が与えられていたとはいえ、ローマ帝国に支配下にありました。イスラエルには王が久しくいなかったのです。イスラエルは王を持つことが許されなかったわけです。そのような状況にあって、人々がメシア・油注がれた者を、何よりも王として、しかもイスラエルの黄金時代を築いたダビデのような王として待望したのは当然のことであったのです。
ファリサイ派の人々が「ダビデの子です」と言うと、イエス様はこう言われました。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」。誤解のないように申しておきますが、イエス様はメシアがダビデの子孫から生まれることを否定しているのではありません。つまり、御自分がダビデの子孫であることを否定しているわけではないのです。私たちはマタイによる福音書を初めから学んできましたが、その最初で強調されていたのは、イエス様がダビデの子孫としてお生まれになった事実でありました。1章1節には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記されておりましたし、聖霊によってイエス様を身ごもったマリアは、ダビデの子孫であるヨセフのいいなずけであったと記されておりました。イエス様は聖霊によって、おとめマリアから生まれたわけですが、そのマリアはダビデの子孫であるヨセフのいいなずけであったのです。つまり、イエス様はダビデの子孫であるヨセフの子として、お生まれになったのであります。そのように、聖書の約束は実現したということであります。ですから、イエス様は、「どうして、メシアがダビデの子なのか」と言われることによって、御自分がダビデの子孫であることを否定しているのではありません。そうではなくて、ここでイエス様が問題とされているのは、「メシアはダビデのような王なのか」ということであります。ことわざに、「蛙の子は蛙」ということわざがあります。これは、「子の才能や性質は親に似るものである、というたとえ」であります。「蛙の子は蛙」ということわざを用いるならば、「ダビデの子はダビデ」であるわけです。そして、ファリサイ派の人々が期待していたのは、ダビデのような王、イスラエルの国をローマ帝国の支配から解放する政治的、軍事的な王であったのです。しかし、イエス様は、そのような彼らの期待に対して疑問を投げかけるのです。なぜなら、ダビデ自身が、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるからです。「霊を受けて」とは預言してということであります。ダビデは王であり、預言者でもあったわけです。ここで、イエス様が引用しておられるのは、詩編の110編であります。詩編110編はダビデの詩と考えられておりました。「主は、わたしの主にお告げになった」とありますが、はじめの主は「主なる神、ヤハウェ」のことであり、「わたしの主」とは「メシア」のことを指しています。ダビデは自分の子孫からメシアが出ることを知っておりました(サムエル下7章参照)。そのダビデがメシアのことを「わたしの主」と呼んでいるのです。そうであれば、「どうしてメシアがダビデの子なのか」とイエス様は言われるわけであります。ここでイエス様が言いたいことは、「ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、むしろメシアは、主の子、神の子ではないのか」ということでありますね。つまり、メシアはダビデような王という彼らの期待を越えた、神のような王であるのです。ここでイエス様は、御自分がダビデの子以上のもの、すなわち神の子であることを主張しておられるのです。46節に、「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができ」なかったと記されておりますが、それは下手に言葉を返せば、そのことを認めざるを得なくなるからであります。また、「その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」のは、イエス様の知恵にだれも歯が立たないことが皆によく分かったからです。イエス様は真理を語ることによって、御自分に逆らう者たちを黙らせてしまうのです。
今朝の御言葉で、イエス様は、詩編110編を引用して、御自分がダビデのようなメシアではなく、主のようメシアであることをお示しになりました。それは言い換えれば、イエス様において、神の王的御支配に直接あずかることができるということです。イエス様において神の王的御支配に直接あずかることができる。それは、イエス様が、神の右の座にお着きになられたからであります。古来、王の「右の座」とは、大臣や皇太子が座る座であり、王と共にその国を支配する座でありました。メシアをダビデの子として考えるならば、「わたしの右の座」は、エルサレムの宮殿の玉座を指すと解釈することができます。しかし、メシアをダビデの以上の方、すなわち神の子として考えるならば、「わたしの右の座」は、天の神の右の座であるのです。イエス様は、このダビデの詩編をメシアである御自分が天に上げられ、神の右に座する、そのようにして神様と共に全世界を支配する王となることの預言として読まれていたのです。そして、事実、イエス様は十字架の死から三日目に栄光の体で復活させられ、天に上げられ、父なる神の右の座につかれたのでありました。そして、今も、父なる神の右の座についておられるのです。私たちが使徒信条において、「全能の父である神の右に座しておられます」と告白しているように、イエス様は、今も天の父なる神の右に座しておられるのです。そして、天と地の一切の権能を授けられた王の王、主の主として、全世界とそのあらゆる領域を支配しておられるのです。特に、御自分の教会を聖霊と御言葉によって、恵みの御支配の内に守り、導いてくださっているのです。
イエス・キリストは、ダビデの子孫としてお生まれになりましたが、同時に神の子であられます。そのことを後に教会は、「二性一人格」という言葉で言い表しました。イエス・キリストという一つの人格のうちに、神様の性質と人間の性質があるということであります。より正確に言えば、神の永遠の御子であるキリストが、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、人間の性質を取り入れられたのです。神様は約束の救い主として、ダビデの子であると同時に、神の子であるイエス・キリストを遣わしてくださいました。それは、神様が私たちを苦しめる本当の敵から救い出そうとなされたからであります。44節に、「わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」とありますが、この敵とは誰のことでしょうか?ファリサイ派の人々にとって、またイスラエルの人々にとって、この敵とは、自分たちを武力によって支配しているローマ帝国であったと思います。しかし、メシアが神の子であり、神の右の座が天にあるならば、この敵はむしろ神の敵である悪魔のことでありましょう。マタイ福音書は「罪からの救い」を言いますが、私たちに罪を犯させるのは悪魔であるわけです。罪とは神に背くことであり、悪魔に従うことであるからです。ですから、罪からの救いは悪魔に勝利するときにもたらされるのです。神の敵であり、イエス様の敵である悪魔については、ヘブライ人への手紙2章14節と15節にこう記されています。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」。イエス様は、十字架の死によって悪魔に決定的な勝利を収められました。しかし、悪魔は今もなお、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています(一ペトロ5:8参照)。ヨハネの黙示録12章によれば、天上から投げ落とされた悪魔は、最後の悪あがきをしているのです。その悪魔を神様はイエス・キリストの足もとに屈服させてくださるのです。それが、イエス・キリストが再び来られる世の終わりの時であるのです。そのとき、イエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白する私たちも神の右の座に着き、新しい天と新しい地を治める者となるのです。詩編110編は、イエス様が父なる神の右にお座りになることを預言する詩編でありますが、イエス様に結ばれた私たちの将来をも預言しているのです。私たちが敵である悪魔に完全に勝利する日が来る。そのとき、私たちも神の右の座につき、新しい世界を主イエス・キリストと共に治める者となるのです。