神のものは神に返しなさい 2015年7月26日(日曜 朝の礼拝)
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神のものは神に返しなさい
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 22章15節~22節
聖書の言葉
22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22:22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。マタイによる福音書 22章15節~22節
メッセージ
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私たちは、イエス様が「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問う祭司長や民の長老たちに、「二人の息子のたとえ」、「ぶどう園の農夫のたとえ」、「婚宴のたとえ」と三つのたとえを語られたことを学びました。その内容はいずれも祭司長たちやファリサイ派の人々への裁き、審判でありました。イエス様はたとえを用いて、イスラエルの指導者たちの不信仰とそれに対する神の裁きをお語りになりました。「ぶどう園の農夫のたとえ」を聞いた後で、祭司長たちやファリサイ派の人々が自分たちのことを言っていると気づいて、イエス様を捕らえようとしたことが記されておりました。では、「婚宴のたとえ」を聞いた後で、祭司長たちやファリサイ派の人々はどうしたのでしょうか?そのことが今朝の御言葉に記されております。
15節から17節までをお読みします。
それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさならないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
この「ファリサイ派の人々」は、21章45節に記されている、イエス様を捕らえようとしたが、群衆を恐れてできなかった人々のことであります。そのファリサイ派の人々が、出て行って、どうのようにしてイエスの言葉じりをとらえ、罠にかけようかと相談したのです。ファリサイ派の人々は、イエス様と面識のない弟子たちを遣わしました。しかもその弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエス様のもとへ遣わしたのです。「ヘロデ派」とは、ヘロデ王朝の与党で、ローマの支配権に満足したが、総督の代わりにヘロデ王家の支配を望んでいた人々のことであります。なぜ、ファリサイ派の人々は弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエス様のもとに遣わしたのでしょうか?それは、皇帝に税金を納めることについて、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々がまったく逆の考え方をしていたからです。ファリサイ派の人々は、イスラエルの王は主なる神であり、ローマの皇帝に税金を納めるべきではないと考えておりました。しかし、他方、ヘロデ派の人々はローマ皇帝に税金を納めるべきであると考えていました。そのような皇帝に税金を納めることについて全く違う者たちをイエス様のところに遣わすことによって、イエス様がどのような答えをしても、その言葉じりをとらえることができるようにしたのです。ファリサイ派とヘロデ派は全く異なる派でありながら、イエス様に敵対する点において一致していたのです。
彼らの質問は、前置きが長いわけですが、これによって彼らはイエス様が自分たちの質問に答えざるを得ないようにしております。その質問は、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という質問であります。ここで問題にされている皇帝に納める税金は、人頭税のことであり、年に一度、一デナリオンを納めていたようです。一デナリオンは、一日分の労働賃金ですから、金額としては大きな金額ではありません。しかし、ローマ皇帝に人頭税を納めることは、ローマ皇帝の支配を受け入れることであり、神の民と自負するユダヤ人にとっては大きな屈辱でありました。あるユダヤ人たちは、皇帝に税金を納めることは、神に背く反逆行為であるとさえ考えたのです。ですから、もし、イエス様が、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」と答えるならば、イエス様を預言者だと思っていた群衆は失望して離れて言ったことでしょう。なぜなら、来たるべきメシアは、イスラエルを異邦人の支配から解放してくれると期待されていたからです。メシアがイスラエルを異邦人の支配から解放してくださるとは、具体的に言えば、ローマ皇帝に税金を納めなくていいようにしてくださるということであります。ですから、もし、イエス様が「皇帝に税金を納めることは律法に適っている」と答えたならば、ファリサイ派の人々はイエス様の言葉じりをとらえ、イエス様が預言者ではないと群衆に訴えたでしょう。そして、群衆はイエス様に失望し、離れて言ったに違いないのです。そうなれば、ファリサイ派の人々はイエス様を捕らえることができるわけです。
では、もし、イエス様が、「皇帝に税金を納めるのは律法に適っていない」と答えたらどうでしょうか?それこそ、彼らの思う壺であります。彼らの前置きの言葉、イエス様を持ち上げるような言葉から推測しますと、彼らはイエス様が、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っていない」と答えることを期待していたようです。そう答えたならば、ローマ帝国の支配を受け入れているヘロデ派の人々が、イエス様をローマ皇帝に反逆する者として、ローマ総督に訴えたはずです。そのようにして、彼らはイエス様をローマ総督の支配と権威の下に引き渡そうと考えたのです(ルカ20:20参照)。
18節から22節までをお読みします。
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。「彼らは、皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
イエス様は、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と問う彼らの悪意に気づいて、「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか」と言われました。そして、「税金に納めるお金を見せなさい」と言われるのです。このように言われて、彼らはデナリオン銀貨を持って来ました。するとイエス様は、「これは、だれの肖像と銘か」と問われます。当時のデナリオン銀貨には、皇帝ティベリウスの横顔の肖像と、「ティベリウス・カエサル、神聖なるアウグストゥスの子、最高の大祭司」という銘が刻まれていました。それゆえ、彼らは「カエサルのものです」、「皇帝のものです」と答えたのでありました。ここで注意したいことは、イエス様は彼らに税金に納めるお金を持って来させ、彼らの口からそのお金に刻まれている肖像と銘が皇帝のものであると答えさせていることであります。彼らが皇帝の肖像と銘が刻まれているデナリオン銀貨を持っていたこと、そのことは彼らが皇帝の支配の恩恵にあずかっていることを表しています。彼らは、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と問いながら、皇帝の支配の恩恵にあずかり、税金を納めていたのです。彼らは自分でデナリオン銀貨を持って来ることによって、また、自分の口でその銀貨に刻まれている肖像と銘が皇帝のものであると語ることによって、自分たちの問いを無意味なものとしてしまうのです。
イエス様は、彼らの「皇帝のものです」という言葉を受けて、こう言われました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。このイエス様の御言葉は意味深長であります。イエス様は「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉に続けて、「神のものは神に返しなさい」と言われました。このように言われることにより、イエス様は「皇帝のもの」を相対化するわけですね。先程も申しましたように、デナリオン銀貨には、皇帝を神の子、大祭司とする銘が刻まれておりました。ローマの皇帝は自らを神格化することによって、自らの権威を絶対的なものとしたわけです。しかし、イエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われることによって、皇帝の権威を相対化するわけです。すなわち、皇帝は神ではないということであります。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この御言葉は、現代の日本に生きる私たちに何を教えているのでしょうか?私たちは外国の占領下に置かれているわけでも、自らを神格化する為政者に統治されているわけでもありません。その点から言えば、イエス様の時代の状況とは大きく違うわけです。そもそも現代は議会制民主主義の時代でありまして、政治形態そのものが異なっています。では、私たちが用いているお金には何と刻まれているでしょうか?改めて見てみますと、硬貨には「日本国」と刻まれており、紙幣には「日本銀行券」と印刷されています。このことは、私たちが日本国の恩恵にあずかっていることを表しています。そして、日本国の恩恵にあずかっている以上、私たちには税金を納める義務があるのです。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」。この言葉は、日本国の恩恵にあずかっている私たちに税金を納めることを教えている御言葉であると読むことができます。
では、「神のものは神に返しなさい」はどうでしょうか?そもそも神のものとは何を指しているのか?それは神のかたちに似せて造られた私たち人間、神の言葉を心に刻まれている私たち人間のことであります。皇帝も人間であるわけですから、「神のものは神にかえす」義務から免れていないわけです。「皇帝のものは皇帝に返す」のは、年に一度、人頭税として一デナリオン銀貨を納めるだけです。しかし、「神のものは神に返す」とは、私たち自身を神にささげることであるのです。 今朝の説教題を「神のものは神に返しなさい」としました。そして、この説教題を毛筆で書いて、看板に掲示していただいたわけですが、おそらく、多くの人が、「神のものは神に返しなさい」と言われても、「自分の持っているものに神のものなどない」と考えるのではないかと思います。しかし、そうではありません。聖書は、神様が人間を御自分のかたちに似せて造られたこと、そして、人間の心には神の言葉が刻まれていることを教えているのです。私たち人間は、神のかたちに似せられた人格的な存在として、また、神の言葉を刻まれた良心を持つ者として造られたのです。ですから、創造主である神様だけが私たち人間に対して絶対的な権威を持っているわけです。皇帝は、また国家為政者は、この神様から権威を授けられているだけであります。皇帝の、国家為政者の権威は決して絶対的なものではなく、相対的なものであるのです。そのことを、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエス様の御言葉は教えているのです。そして、私たちは、このイエス様の御言葉をもう一度胸に刻まなければならないと思います。なぜなら、日本の国が絶対的な権威をもって私たちのすべてを要求する国家主義的な国に戻りつつあるからです。ちなみに、国家主義とは、「国家をすべてに優先する至高の存在あるいは目標と考え、個人の権利・自由を従属させる思想」を言います(大辞林第三版)。相対的な権威しか持っていない国家が絶対的な権威を主張し、すべてをささげるように国民に要求するようになる。それは端的に言えば、「国のために生き、国のために死になさい」ということです。しかし、それは不当な要求であります。なぜなら、イエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われるからです。誤解のないように申しますが、ここでイエス様は皇帝と神を同列に、等しい者として並べておられるのではありません。皇帝は神様に権威を与えられているだけです。そのことは旧約聖書、得にダニエル書を読めば分かります。バビロンの王ネブカドネザルでさえも、主によって立てられ、権威を与えられた王でありました。それと同じことが、ローマ皇帝においても、また国家為政者においても言うことができるのです。私たちはそのことを信じて、信仰をもって国家に税金を納めることが求められているのであります。しかし、国家を絶対化してすべてをささげることが求められているのではありません。私たちにとって絶対的な権威を持っているお方、私たちがすべてをささげるのにふさわしいお方は、私たちを御自分のかたちに似せて造られ、私たちの心に御自分の御言葉を刻まれた創造主なる神、イエス・キリストの父なる神だけであるのです。