権威についての問答 2015年7月05日(日曜 朝の礼拝)
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権威についての問答
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 21章23節~32節
聖書の言葉
21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」マタイによる福音書 21章23節~32節
メッセージ
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イエス様が神殿の境内に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄って来てこう言いました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。この「祭司長や民の長老たち」は、ユダヤの最高法院の議員であったと思われます。ユダヤの最高法院は祭司長・律法学者・長老の三者から成り立っていましたが、その祭司長や長老たちが、イエス様に対して、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問うたのです。「このようなこと」とは、イエス様がエルサレムでなされたことすべてが含まれていると思われます。イエス様は、子ろばに乗り、群衆の歓呼の中をエルサレムに入られました。そして、神殿から売り買いしている者たちを追い出し、目の見えない人や足の不自由な人を癒され、子供たちの賛美をお受けになりました。そして、今は神殿で人々を教えていたのです。そのようなイエス様に対して、祭司長や長老たちは、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問うたのです。それに対してイエス様はこうお答えになりました。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。イエス様は質問に対して質問で答えられました。質問に対して質問で答えるのは、律法の教師たちの議論の方法であったと言われます。イエス様が祭司長や長老たちの質問に質問で答えられたのは、彼らの質問がイエス様に対する罠であったからです。もし、イエス様が、「わたしは神の権威でこのようなことをしているのだ」と答えたならば、彼らはイエス様を神を冒涜した者として捕らえたことでありましょう。それゆえ、イエス様は、御自分の先駆者であるヨハネの洗礼の権威の源について問われることにより、間接的に御自分の権威の源についてお答えになるのです。
イエス様からの質問を受けて、彼らはこう論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」。ここで彼らは、自分たちがどのように考えるかというよりも、自分たちの答えによって、引き起こされる不利益から論じ合っています。その結果、彼らはイエス様に「分からない」と答えたのです。すると、イエス様もこう言われました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。このイエス様の御言葉を読んで、私たちは祭司長や長老たちの質問をイエス様はうまくかわされたと思うかも知れません。しかし、それだけではなかったと私は思います。イエス様は、「あなたたちが答えないから、私も答えない」とただ言われただけではなくて、「ヨハネの洗礼の権威の源が分からない者に、わたしが何の権威でこのようなことをするのか言っても分かるまい」と言われているのです。なぜなら、洗礼者ヨハネも、そして、イエス様も同じ神から権威を与えられた者たちであるからです。
続けてイエス様は、祭司長や長老たちに、「二人の息子のたとえ」を話されました。「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。これは簡単な質問です。ですから、彼らはすぐ「兄の方です」と答えました。「『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた兄の方が、父の意志を行った」と彼らは答えました。そのような彼らに、イエス様はこう言われます。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。祭司長や長老たちは、「徴税人や娼婦たち」を罪人と呼び、神の国と関わりのない者たちと見なしておりました。しかし、イエス様はその「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と言われるのです。それは、「徴税人や娼婦たち」が兄息子のようであるからです。「父」は神様を指していますが、徴税人や娼婦たちは父の命令である神の掟に従わない者たちでありました。徴税人は決まった金額以上を取り立てていましたので、泥棒と同じように思われていました。徴税人は「盗んではならない」という掟に違反していたわけです。娼婦は「売春を業とする女」のことですから、「姦淫してはならない」という掟に違反していたわけです。そのような徴税人や娼婦たちを、神の国と関わりが無いと考えたのは、よく分かることであります。しかし、イエス様はその「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と言われるのです。なぜなら、ヨハネが来て示した義の道を祭司長たちや長老たちは信じなかったのに、徴税人や娼婦たちは信じたからであります。そのようにして、徴税人や娼婦たちは神の御意志を行ったのです。ここで前提とされていることは、ヨハネが神から権威を与えられて遣わされた者であるということです。しかし、弟息子に譬えられる祭司長たちや長老は、父の命令である神の掟を守ると言いながら、神から権威を与えられて遣わされたヨハネを信じませんでした。そのようにして、彼らは神の御意志を行わなかったのです。このたとえ話でも実は「権威」が問題となってします。父は子に対して権威を持っているわけですが、その父の権威に従ったのはどちらの息子かということがここで問われているのです。そして、イエス様は、それはあなたたちではなく、ヨハネを信じた徴税人や娼婦たちであると言われたのです。ですから、彼らの方が先に神の国、神の王的御支配に入ると言われたのです。彼らは神の権威に従い神の御意志を行う者として、神の国に入るのです。
イエス様は、「ヨハネが来て義の道を示したのに」と言っておりますが、「義の道」とは「正しい生き方」と言い換えることができます。ルカ福音書の3章12節に、ヨハネから洗礼を受けるために来た徴税人が、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言うと、ヨハネは「規定以上のものを取り立てるな」と答えたことが記されています。ヨハネが宣べ伝えた洗礼、それは悔い改めの洗礼でありまして、ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結ぶよう命じました。ですから、ヨハネを信じた徴税人や娼婦たちが、以前と同じように、神の掟に公然と背く者であったとは考えられません。彼らはヨハネの洗礼に神の権威を認め、その義の道に従う者とされたのです。そして、何より彼らは、ヨハネが証しした後から来られる方、聖霊と火で洗礼を授けられる方であるイエス様を信じたのでありました(11:18参照)。それに対して、祭司長や長老たちは、ヨハネを信じませんでした。また、徴税人や娼婦たちがヨハネを信じて悔い改めの実を結んでいるのを見ても、後で考え直してヨハネを信じようとはしませんでした。その証拠に、彼らは、ヨハネが証ししたイエス様を信じようとしないのです。イエス様の神殿での振る舞い、特に、目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩けるようにするという驚くべき御業を見ても、彼らはそこに神からの権威を認めようとはしないのです。認めないばかりか、イエス様の口から「神の権威によってこのようなことをしている」と言わせることによって、神を冒涜する者として殺そうとするのです。このことは考えてみるとおかしなことであります。祭司長たちや民の長老たちも神から権威を与えられた者たちであります。特に祭司長は聖別の油を注がれた者であります(出エジプト30:30参照)。そうであれば、神から権威を与えられて遣わされたヨハネやイエス様をいち早く認めてことができたはずです。しかし、彼らにはそれができませんでした。それは祭司長や長老たちの権威、最高法院の権威が、「人からのもの」となってしまっていたからです(使徒5:29参照)。彼らは祭司長である自分自身に、また長老である自分自身に権威があると考えたのです。それゆえ、彼らは神から権威を与えられて遣わされたヨハネとイエス様を信じることができなかったのです。
今朝は最後に、ヨハネが来て示した義の道について、もう少し思いを深めて終わりたいと思います。私は先程、「義の道」とは「正しい生き方」であると言い、倫理的な観点からお話しましたが、神様の救いの御計画の実現という観点からも「義の道」について理解することができるのではないかと思います。と言いますのも、イエス様がヨハネから洗礼を受けられたときこう言われているからです。マタイ福音書の3章13節から15節までをお読みします。新約の4ページです。
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
神様の救いの御計画は、イエス様に先立ってヨハネを遣わし、人々を神の裁きに直面させ、悔い改めへと導くことでありました(マラキ3:23、24参照)。それゆえ、イエス様は罪のないお方でありながら、私たち罪人の一人として、ヨハネから洗礼を受けられたのです。そして、それは神様の御前に正しいことであり、ヨハネによって示された義の道を歩むことであったのです。
イエス様は、今朝の御言葉で、祭司長や長老たちがヨハネを信じなかったと言っておりますが、実は、3章7節を見ますと、ヨハネのもとにファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たと記されています。その彼らに対して、ヨハネはこう言いました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れるとだれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしより優れておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。このように言われて、ファリサイ派やサドカイ派の人々はどうしたのでしょうか?ここには彼らが洗礼を受けたとは記しておりません。むしろ、今朝の御言葉から推測するならば、ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々は洗礼を受けずに帰ってしまったのではないかと思います。なぜなら、彼らは自分たちは神の掟に従っていると考えていたからです。人々はヨハネのもとに来て、罪を告白し、彼から洗礼を受けましたが、ファリサイ派やサドカイ派の人々は、自分には告白するような罪がないと考えたのです。彼らは自分たちを罪人ではなく正しい人と考えていたのです(9:13参照)。しかし、ヨハネが示した義の道は、神に裁かれる者として悔い改め、聖霊と火で洗礼を授けられるイエス様を信じることであったのです。そして、これは私たちが受け入れ、歩んでいる義の道であるのです。
今、神様の恵みによって、SさんとYさんが、信仰告白の準備会をしております。その準備会で、神と教会の前に誓約する六つの誓約事項を学んでいます。これは、成人洗礼を受けた人と幼児洗礼を受けて信仰告白した人のすべてが神と教会の前に慎んでした誓約事項であります(礼拝指針第62条、第66条参照)。それを、今朝の週報に記しておきました。
「あなたは、次の信仰を告白し、誓約をしなければなりません。これにより、あなたは、キリストとキリストの教会との厳かな契約の中に入ります。
①あなたは、天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じますか。
②あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらな ければ望みのないことを、認めますか。
③あなたは、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのため に福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みます か。
④あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きる ことを、決心し約束しますか。
⑤あなたは、最善をつくして、教会の礼拝を守り・その活動に奉仕し・教会を維持 することを、約束しますか。
⑥あなたは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規とに服し、その純潔と平和との ために努めることを、約束しますか。」
ここで、特に注目したいのは②です。成人洗礼を受け、あるいは信仰告白した私たちは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ望みのないことを認めた者たちであるのです。それは言い換えれば、ヨハネが示した義の道を受け入れたということであります。そして、私たちは神の憐れみそのものとも言えますイエス・キリストを受け入れ、依り頼む者とされたのであります。そのようにして、私たちは神の権威に従い、神の御意志を行う者とされているのです。そのようにして、私たちはイエス・キリストにおいて到来した神の恵みの御支配に生きる者とされているのです。