信じて祈るならば 2015年6月28日(日曜 朝の礼拝)

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信じて祈るならば

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章18節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
21:19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
21:21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」マタイによる福音書 21章18節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 前回学んだことでありますが、イエス様は、神殿で目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されました。そのようにして、イエス様は、御自分が約束のメシア、救い主であることをお示しになられたのです。イザヤ書35章に、「そのとき、見えない人の目が開き・・・・・・歩けなかった人が鹿のように躍り上げる」と預言されていますが、イエス様は、神殿で目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩けるようにすることにより、御自分が主の栄光を回復するメシア、救い主であることを示されたのです。これはまことに驚くべき業であります。しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエス様がなされた驚くべき業を見ても、驚きませんでした。驚いたのは子供たちだけであったのです。子供たちはイエス様がなされた驚くべき業を見て驚き、「ダビデの子にホサナ」と叫んだのです。子供たちはイエス様をダビデの子孫から生まれる約束の救い主と呼び、神様をほめたたえたのです。これを聞いて祭司長たちや律法学者たちは腹を立てました。子供たちに腹を立てたというよりも、子供たちにこのような叫ばせておくイエス様に腹を立てたのです。それで、彼らはイエス様にこう言いました。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」。これは、「子供たちが言っていることが聞こえるなら、黙らせなさい。あなたは、ダビデの子ではないのだから」という意味合いであります。それに対して、イエス様はこう言われたのです。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」。イエス様は、「子供たちが無邪気に言っているだけだから、そんなに腹を立てるな」とは言われませんでした。子供たちの口に、「ダビデの子にホサナ」という賛美を歌わせておられるのは神様であると言われたのです。「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」という詩編8編の御言葉は、今、この子供たちのうえに実現していると言われたのです。そのようにして、御自分が賛美を受けるべきダビデの子、いや神その方であると言われたのです。そして、イエス様は、祭司長たちや律法学者たちを置き去りにして、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになりました。時は、過越の祭りの季節でありましたから、他の巡礼者たちと同じように、イエス様もエルサレムの郊外の村に宿を取られたのです。

 今朝の御言葉はこの続きであります。18節、19節をお読みします。

 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

 ベタニアにお泊まりになったイエス様は、朝早く、都に帰られました。「都に帰る途中」とありますように、ダビデの町であるエルサレムは、ダビデの子であるイエス様の都でもあるからです。都に帰る途中、イエス様は空腹を覚えられました。朝早くですから、起きてからまだ何も食べておられなかったのかも知れません。それで、道端にいちじくの木があるのを見て、実がなっていないかと思って近寄られたのです。しかし、葉のほかに何もありませんでした。そこで、イエス様が「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまったのです。これだけ聞くと、イエス様が空腹のいらだちから、いちじくの木を枯らしてしまわれたように思えます。しかし、そうではありません。このことにはもっと深い意味が込められているのです。イエス様は実のないいちじくの木をたちまち枯らしてしまうことによって、御自分がイスラエルを裁くメシア、救い主であることを弟子たちにお示しになったのであります。旧約聖書において、イスラエルの民はしばしばぶどうの木やいちじくの木に譬えられています(エレミヤ8:13、ミカ7:1参照)。私たちはイエス様が神殿から売り買いしていた人々を皆追い出し、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われたことを学びました。神殿では傷のない動物が売り買いされ、活気はあるのです。いちじくに譬えるならば、葉は茂っているのです。しかし、そこには、祈りがない。実がないのです。礼拝が形式化しており、祈りの心が失われてしまっていたのです。また、イスラエルの指導者である祭司長たちや律法学者たちは、イエス様の驚くべき業を見ても驚かず、イエス様をダビデの子として受け入れませんでした。それどころか、彼らは子供たちの賛美をも黙らせようとしたのです。そのようなイスラエルといういちじくの木に対して、イエス様は、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われたのです。「葉のほか何もなかった」のを見て、「実を生じさせた」のではありません。そうではなくて、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われたのです。そして、その御言葉どおり、たちまちいちじくの木は枯れてしまったのです。このことは、ろばに乗ってエルサレムに入られ、神殿を清められたイエス様をお迎えすることが、決定的な意味を持つことを私たちに教えています。ろばに乗ってエルサレムに入り、神殿を清められたメシアであるイエス様を受け入れないことが、永遠の滅びを自分に身に招いてしまうことを私たちに教えているのです。

 20節から22節までをお読みします。

 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

 驚いて、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と問う弟子たちに、イエス様は、このことの意味を説明されませんでした。と言いますのも、弟子たちの関心は、イエス様の言葉の力にあり、自分たちも同じようなことができるかということにあったからです。それで、イエス様は、こうお答えになりました。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。ここで、イエス様は信仰をもって、疑わないで祈ることの大切さを教えておられます。信仰をもって、疑わないで祈るならば、山に向かって「立ち上がって、海に飛び込め」と言ってもそのとおりになると言われるのです。つまり、イエス様は信仰をもって、疑わないならば、できないことは何もないと言われたのです。なぜなら、私たちが祈りをささげる父なる神に、できないことは何もないからです。イエス様は、22節で、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われておりますが、これこそ、神殿礼拝において失われていた信仰でありました。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。この信仰が祭司長たちや律法学者たちから、またエルサレムの人々から失われていたのです。なぜ、そのように断言することができるのか?それは、彼らが約束のメシアを受け入れようとはしないからです。イスラエルの祈り、それはエルサレムに王が与えられること、エルサレムを清めるメシア、救い主が与えられることでありました(詩89参照)。そして、神様は約束のとおり、イエス様をダビデの子として遣わしてくださったのです。イエス様はろばに乗ってエルサレムに入り、神殿を清め、目の見えない人や足の不自由な人をいやされることによって、御自分が約束のメシアであることをお示しになりました。また、神様はガリラヤの巡礼者たちの口を通して、さらには幼子や乳飲み子の口を通して、イエス様がダビデの子、約束のメシアであることを示されたのです。しかし、エルサレムの人々は、また、祭司長たちや律法学者たちは、その賛美に声を合わせようとはしませんでした。なぜでしょうか?それは彼らが、約束の救い主が与えられることを信仰をもって、疑わずに祈っていなかったからです。そして、これこそ、イエス様がイスラエルといういちじくの木に見いだすことのできなかった実であったのです。

 「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。このように言われて、私たちは何を祈り求めるのでしょうか?できないことは何もない、全能の父なる神様に、私たちは何を祈り求めるのでしょう?今、それぞれに祈り求めていることがあるとは思いますが、私たちが心を合わせて祈り求めるべきことを、イエス様は山上の説教において教えてくださいました。イエス様は6章8節以下でこう言われておりました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように、地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください、わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください』」。

 私たちは主の日の礼拝ごとに、主の祈りを声を合わせて祈っております。しかし、信仰をもって、疑わずに祈っているでしょうか?「信じて祈るならば、求めるものは何でも与えられる」との信仰をもって、主の祈りを祈っているでしょうか?今朝、イエス様が私たちを御覧になるならば、どうであろうか?「葉のほか何もなかった」ということにならないであろうか?そのことを、イエス・キリストを信じる神のイスラエルとして、私たちも問わずにはおれないと思います。そして、そのような者たちとして、「信じて祈るならば、求めるものは何でも与えられる」という御言葉に励ましを得たいと願うのです。

 イエス様が「信じて祈るならば」と言われるとき、それは父なる神を信じて祈るならばということであります。「父なる神が祈りをかなえてくださると信じて祈るならば、求めるものは何でも与えられる」とイエス様は言われたのです。そのような父なる神様を信頼する心を私たちはイエス様によって与えられているのです。私たちはイエス様の聖霊を与えられ、神様を「アッバ、父よ」と呼び、祈る者たちとされているのです。それゆえ、私たちは信仰をもって、疑わずに祈ることができるものとされているのです。しかし、そのような私たちでありましても、様々な困難の中で、疑いを抱くようになり、ついには、祈ることを止めてしまうことさえあるのです。そのような私たちの不信仰に抗って、イエス様は、「信じて祈るならば、求めるものは何でも与えられる」と言われます。なぜ、でしょうか?何を根拠にこのように言われるのでしょうか?その答えは、ローマ書の8章32節に記されています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。これは使徒パウロの言葉でありますが、パウロは、御子を与えてくださった父なる神が、すべてのものを私たちに賜らないはずはないと記しました。そして、ここに、私たちが「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と信じることのできる根拠があるのです。

 先程、私は、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」という言葉を聞いて、私たちは何を祈り求めるであろうかと問いました。そして、私たちにはそれぞれ祈り求めていることがあるとも申しました。しかし、本当のことを言うと、私たちは本当に祈り求めるべきものが分からないでいたのです。そして、それが罪からの救いであり、神様と共に生きる歩みであるのです。私たちが信じてもおらず、祈り求めることもしなかったにもかかわらず、神様は罪からの救い主イエス・キリストを遣わして、十字架の死に引き渡し、永遠の救いを実現してくださいました。そして、聖霊を遣わし、私たちをイエス様を信じる者として、「アッバ、父よ」と祈る神の子としてくださいました。そのような神様の恵みを思い起こしますときに、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」という御言葉が真実であると信じることができるのです。

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