子供たちの賛美を受ける方 2015年6月21日(日曜 朝の礼拝)
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子供たちの賛美を受ける方
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 21章14節~17節
聖書の言葉
21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
21:15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
21:17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。マタイによる福音書 21章14節~17節
メッセージ
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子ろばに乗ってエルサレムに入られたイエス様が真っ先に向かわれた場所、それは神殿でありました。イエス様は神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたのです。そのようにして、イエス様は、御自分がエルサレムを清めるメシア、救い主であることをお示しになったのであります。旧約聖書のゼカリヤ書に、「その日、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」と預言されていますが、イエス様は、神殿の境内から売り買いしていた人々を皆追い出すことにより、御自分こそ、エルサレムを清めるメシア、救い主であることをお示しになったのです。そして、神殿を清めるメシアとして、こう言われたのです。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」。神殿奉献のソロモンの祈りに見られるように、神殿は祈りの家として建てられました。しかし、その神殿から祈りが失われていたのです。律法に従って傷のない動物がささげられていても、それをささげる人の心から祈りが、悔い改めの心が失われていたのです。礼拝は形式的なものとなり、人々は悔い改めることなく、罪を重ねていたのです。それゆえ、イエス様は、「あなたたちは神殿を強盗の巣窟にしてしまった」と厳しく非難されたのであります。このイエス様の御言葉を、先々週、私たちは自分自身に対する御言葉として聞いたのです。使徒パウロは、教会を聖霊が宿る神殿と呼びましたけれども、私たちの教会が祈りの家となっているであろうか?礼拝が形式的なものとなって、真実の悔い改めがなされず、罪を重ねているような歩みになっていないか?そのことを、神様の御前に自己吟味したのであります。
さて、今朝は、14節からご一緒に御言葉に学びたいと思います。
14節をお読みします。
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
「境内」とありますが、元の言葉では「神殿」と記されています。「神殿では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」と記されているのです。「目の見えない人や足の不自由な人たち」、彼らは本来、神殿には入ってはならない者たちでありました。といいますのも、旧約聖書のサムエル記下の5章6節から10節に次のように記されていたからです。旧約の487ページです。
王とその兵はエルサレムに向かい、その地の住民のエブス人を攻めようとした。エブス人はダビデが町に入ることはできないと思い、ダビデに言った。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」
しかしダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。そのとき、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。
ダビデはこの要害に住む、それをダビデの町と呼び、ミロから内部まで、周囲に城壁を築いた。ダビデは次第に勢力を増し、万軍の神、主は彼と共におられた。
「ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て」というダビデの言葉に由来して、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならないと言われるようになりました。それゆえ、目や足の不自由な人は神殿礼拝から閉め出されていたのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の40ページです。
神殿に入ってはならないと言われていた目の見えない人や足の不自由な人たちが、あえて神殿に足を踏み入れたのは、そこにイエス様がおられたからであります。目の見えない人たちや足の不自由な人たちも、大勢の群衆の叫び、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という叫びを聞いていたに違いありません。それゆえ、目の見えない人や足の不自由な人たちは、ダビデの子、約束の救い主であるイエス様なら、自分の目を見えるようにし、自分の足を歩けるようにすることができると信じたのでした。そして、彼らはイエス様が神殿から売り買いをしていた人々を皆追い出すという混乱に乗じて、勇気を出して、イエス様に近づいたのです。そして、イエス様はこられの人々をいやされたのです。ダビデの言葉に由来して、目の不自由な人、足の不自由な人は神殿に入ることを禁じられておりました。けれども、ダビデの子であるイエス様は、これらの人々をいやし、神殿に入ることができるようにとされたのです。そのようにして、目の見えない人や足の不自由な人たちを礼拝へと、神様との交わりへと回復されたのです。
15節から17節までをお読みします。
他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」というのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
祭司長たちや律法学者たちが見た、イエス様がなさった不思議な業とは、イエス様がなされた目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩けるようにするといういやしの業のことであります。新共同訳聖書は、「不思議な業」と訳しておりますが、元の言葉では「驚くべき業」と記されています(新改訳参照)。イエス様が、神殿で、目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩けるようにされたことは、まさに驚くべき業でありました。なぜなら、旧約聖書のイザヤ書35章によれば、来たるべきメシア、救い主が来られるとき、「目の見えない人の目が開き・・・・・・歩けなかった人が鹿のように踊り上げる」と預言されていたからです。イエス様は神殿で、目の見えない人の目を開き、歩けなかった人を鹿のように躍り上がらせることによって、御自分がイスラエルの栄光を回復するメシア、救い主であることをお示しになったのです。しかし、この驚くべき業を見ても、祭司長たちや律法学者たちは驚きませんでした。この驚くべき業を見て驚いたのは子供たちであったのです。驚いた子供たちは、神殿で、「ダビデの子にホサナ」と叫びました。ここで叫んだのは子供たちだけであったようです。しかし、この叫びは、イエス様がエルサレムに入られる際の大勢の群衆の叫びのこだまと言えます。子供たちは、イエス様を取り囲む大勢の群衆が「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを聞いておりました。そして、自分たちもイエス様の驚くべき業を見て、「ダビデの子にホサナ」「ダビデの子をほめたたえよ」と叫んだのです。これを聞いて、祭司長たちや律法学者たちは腹を立てたわけです。子供たちに腹を立てたというよりも、子供たちにこのように叫ぶことを許しておられるイエス様に腹を立てたのです。それで、彼らは、イエス様にこう言うのです。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」。これは、「聞こえるなら、なぜ、子供たちに叫ばせておくのか。あなたはダビデの子ではないのに」という意味であります。それに対して、イエス様はこう言われました。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」。イエス様は、はっきりと「聞こえる」と答えられました。イエス様はダビデの子として、子供たちの賛美を喜んでお受けになります。そして、この子供たちの賛美こそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という御言葉の成就であると言われるのです。この御言葉は旧約聖書の詩編8編の御言葉でありますが、幼子や乳飲み子の口に賛美の歌を歌わせておられるのは神様であられます。子供たちが無邪気に、よく分からずに「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのではなくて、神様が子供たちの口に、「ダビデの子にホサナ」という賛美を歌わせておられるとイエス様は言われたのです。そのようにして、神様は子供たちの口を通して、イエス様がまさしくダビデの子、メシア、救い主であることを、神殿において示されたのです。驚くべき業を見ても驚かない祭司長や律法学者たちに代わって、子供たちがイエス様をダビデの子としてほめたたえるのです。
「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」。この御言葉は、私たちのうえに実現している御言葉でもあります。といいますのも、イエス様の弟子である私たちは、幼子のような者たちであるからです。イエス様は、11章25節、26節でこう言われておりました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。神様は、この世の知恵ある者、賢い者にではなく、幼子のような素朴な私たちの口を通して、イエス様をほめたたえることをよしとしてくださいました。神様は幼子のような私たちの口に賛美の歌を歌わせることによって、イエス様が全人類を罪から救うメシア、救い主であると宣べ伝えることをよしとされたのです。イエス様は幼子のような私たちの賛美を喜んで受け入れてくださいます。そして、私たちの賛美を通して、この地においても御栄光をあらわしてくださるのです。
そのような賛美の歌として、今朝は最後に、詩編8編全体を読んで終わりたいと思います。旧約の840ページです。
主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も/空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。