神殿を清めるイエス 2015年6月07日(日曜 朝の礼拝)

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神殿を清めるイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章12節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」マタイによる福音書 21章12節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入られたことを学びました。イエス様は弟子たちに命じて、近くの村から子ろばを引いて来させ、その子ろばに乗ってエルサレムに入られたのです。なぜ、イエス様は、わざわざ子ろばに乗ってエルサレムに入られたのでしょうか?それは、御自分こそ、預言者を通して言われていたエルサレムの柔和な王であることをお示しになるためでありました。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。この預言を実現する者として、イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入られたのです。また、この預言を知っていたからこそ、大勢の群衆は、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んだのでありました。この大勢の群衆は、過越の祭りを祝うためにガリラヤからエルサレムに来た巡礼者たちであります。彼らはイエス様がガリラヤで語られた力ある言葉を聞き、力ある業を見たことがあったのです。特に、彼らはイエス様がエルサレムに入られる直前に、二人の盲人の目を見えるようにされた力ある業を目撃しておりました。ですから、大勢の群衆は、子ろばに乗ってエルサレムに入られるイエス様に対して、「ダビデの子にホサナ」と歓呼の叫びを上げることができたのです。このようにして、大勢の群衆は、子ろばに乗って来られるこのお方が、エルサレムの柔和な王であることを、シオンの娘に告げるのです。といいますのも、シオンの娘であるエルサレムの住民は、イエス様のことをまったく知らないからです。10節に、「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ」とありますように、エルサレムの住民は、イエス様のことをまったく知らないのです。エルサレムの住民は、巡礼者である群衆の口を通して、子ろばに乗ってエルサレムに入られた方が、「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」ということを知らされるのです。ダビデの子、約束のメシア、王であるイエス様が、ここでは「預言者」と言われています。イエス様は王であると同時に預言者でもあられるのです。

 ここまでは前回お話したことでありますが、今朝の御言葉は、その続きであります。子ろばに乗ってエルサレムに入られたイエス様が真っ先に向かわれた場所、それは神殿でありました。イエス様は神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたのです。どうして、イエス様はこのようなことをされたのでしょうか?これらはどれも、神殿祭儀を営む上で必要なことでありました。律法によれば、神殿でささげられる動物は傷のないものでなければなりませんでした。ですから、遠くから来る者たちは銀を携えて来て、神殿の境内で傷のない動物を購入したわけです(申命14:24~26参照)。また、神殿税もユダヤのお金で納めねばなりませんから、両替人が必要であったのです(出エジプト30:11~16参照)。これらは律法に従ってなされていたこと、神殿祭儀を司る最高法院の権威のもとに行われていたことでありました。しかし、イエス様は、神殿の境内から売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたのでした。これは一体何を意味しているのでしょうか?結論から言えば、このイエス様の振る舞いは、御自分がエルサレムを清めるメシアであることを示す象徴的な振る舞いであるのです。当時、人々の中には、メシアが来られるとき、エルサレムは救われ、清められるとの期待がありました。旧約聖書のゼカリヤ書の12章から14章は「エルサレムの救いと浄化」について預言しておりますが、その最後、14章20節、21節にはこう記されています。旧約の1495ページです。

 その日には、馬の鈴にも、「主に聖別されたもの」と銘が打たれ、主の神殿の鍋も祭壇の前の鉢のようになる。エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。

「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」とありますが、それはすべてのものが主によって聖別されるからです。それゆえ、商人から傷のない動物を買って、ささげる必要がなくなるのです。「万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」。この預言は、主の日には、すべてのものが聖別されること、清められることの象徴とも言える預言であるのです。そして、イエス様は、神殿の境内から売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されることによって、御自分がエルサレムを清めるメシアであることを示されたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の40ページです。

 神殿の境内から売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたイエス様は、こう言われました。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」。この御言葉はイザヤ書の56章7節に書いてある御言葉でありますが、ここでイエス様が問題としていることは、祈りの家であるはずの神殿において祈りが消えてしまっているということです。神殿が祈りの家であることは、神殿奉献の際になされたソロモンの祈りを読むとよく分かります。少し長いですが、列王記上8章に記されているソロモンの祈りの一部をお読みします。旧約の541ページです。列王記上の8章22節から34節までをお読みします。

 ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、祈った。「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの前を歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を断たず、わたしの前から消し去ることはない』と。

 イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かにされますように。

 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。もしある人が隣人に罪を犯し、呪いの誓いを立てさせられるとき、その誓いがこの神殿にあるあなたの祭壇の前でなされるなら、あなたは天にいましてこれに耳を傾け、あなたの僕を裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらしてください。

 あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かさたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し、先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください。

 この後も、ソロモンの祈りは続きますが、このソロモンの祈りから私たちが教えられることは、神殿は祈りの家であるということであります。神殿はまさに祈りの家として、建てられたのです。しかし、イエス様は、エルサレム神殿から祈りが消えていると言われたのです。律法に従って動物犠牲が献げられていても、祈りが失われていたのです。祈りが失われていたとは、言い換えれば、悔い改めがなされていなかったということです。人々は罪を贖ういけにえとして動物をささげているのですが、そこには罪を嘆き悲しむ悔い改めの心がなかったのです。ですから、イエス様は続けて、「ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」と言われたのです。このイエス様の御言葉は、旧約聖書のエレミヤ書7章11節を背景にしています。旧約の1188ページです。エレミヤ書7章1節から11節までをお読みします。

 主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。

 「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり、わたしにもそう見える、と主は言われる。」

 エレミヤの時代、紀元前7世紀のユダの人々は、主の神殿を拠り所として、自分たちは「救われた」と言っておりました。しかし、彼らは、自分たちの悪い行いを全く正そうとはしませんでした。神殿で主を礼拝しても、彼らは悔い改めて、自分の道と行いを正そうとはしなかったのです。彼らは主の神殿でいけにえをささげ罪の赦しをいただいて、安心して、悪事を行ったのです。それゆえ、主は、「私の目には神殿が強盗たちの隠れ家、巣窟に見える」と言われたのです。そして、このことは、イエス様の時代においても同じであったのです。動物犠牲がささげられていても祈りが失われている神殿、自分の罪を嘆き悲しむ悔い改めの祈りを失った礼拝者たちの集う神殿は、イエス様の目に、強盗の巣窟のように映ったのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の40ページです。

 「こう書いてある。『わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」。このイエス様の御言葉は、今朝、私たちにも語られている御言葉であります。神殿に代わるもの、それはイエス・キリストの御名によって集まる私たち教会であります。キリストの教会である私たちこそ、神の霊が宿ってくださる神殿であるのです(一コリント3:16参照)。ですから、「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである」という御言葉は、私たち教会にそのまま当てはまるのです。それゆえ、私たちは今朝、自分が形式的に礼拝をささげていないかどうか、悔い改めの祈りを持って礼拝をささげているかどうかを、もう一度問い直したいと願います。イエス様から、「強盗の巣にしてしまった」と言われるような礼拝者となっていないかどうか、そのことを自己吟味して聖餐の恵みにあずかりたいと願います。

 この説教の最初の方で、イエス様はエルサレムを清めるメシアとして振る舞われたと申しました。しかし、メシアであるイエス様が清められるのは神殿という場所だけではありません。イエス様は御言葉と聖霊によって礼拝する者の心を清めてくださるお方であります。そして、聖霊において、神様と共にとどまってくださり、私たち一人一人を神殿としてくださるのです。そのために、イエス様は、私たちの罪を担って十字架につけられるのです。私たちが自分の罪が分からなくなる。また、自分の罪を軽く考えるようになる。それは、イエス・キリストの十字架から目をそらしてしまっているからです。私たちの罪は、神の御子が人となって十字架につけられねば赦されないほどに大きな罪であったのです。そのことを本当に知るならば、もはや罪の中に生きることはできません。罪赦されたから、また安心して罪を犯せるなどと考えることはできません。イエス・キリストにあって罪赦された者として、神様の御心に従って正しく生きようと決心するはずであります。いや、私たちは洗礼を受けたときに、あるいは信仰告白をしたときに、そのような決心を与えられたのです。そのことを、今朝、私たちははっきりと思い起こしたいと願います。

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