柔和な王イエス 2015年5月31日(日曜 朝の礼拝)
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柔和な王イエス
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 21章1節~11節
聖書の言葉
21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。マタイによる福音書 21章1節~11節
メッセージ
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小見出しに、「エルサレムに迎えられる」とありますように、今朝の御言葉には、いよいよイエス様ご一行がエルサレムに入られたことが記されています。19章1節に、「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方へ行かれた」と記されておりました。19章1節から、イエス様はこれまで活動してきたガリラヤを離れて、エルサレムのあるユダヤ地方へ向かわれたのです。そして、20章17節から19節で、イエス様はエルサレムに上って行く途中で、十二人の弟子たちだけを呼び寄せてこう言われたのです。「今、わたしはたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」。イエス様が御自分の死と復活について予告されたのは、これで三度目ですが、イエス様は、最高法院の議員たちによって死刑と宣告され、異邦人に引き渡されて、十字架につけられるために、さらには神様によって復活させられるために、エルサレムへ上って行くのです。そのエルサレムに、イエス様はどのようにお入りになったのでしょうか?イエス様は、人目を忍んで、誰にも見つからないようにひっそりとエルサレムに入られたのではありません。イエス様は、旧約聖書が預言していた子ろばに乗る柔和の王として、群衆からの歓呼の叫びの中を、エルサレムに入られたのです。
イエス様ご一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエス様は二人の弟子を使いに出そうとしてこう言われました。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれる」。ここで、イエス様は王として、他人から物を自由に取り立てることのできる徴用の権利を用いていると読むことができます(サムエル上8:10~18参照)。イエス様は、ろばに乗ることによって、御自分が王であることを示されるのですが、すでにここで王として振る舞っておられるのです。もし、だれかが何か言っても、「主がお入り用なのです」と言えば、それで済んでしまう、主としての、また王としての自意識がこの言葉に表れているのです。
イエス様が、弟子たちにろばと子ろばを自分のところに引いてくるように命じたのは、預言者を通して言われていたことを実現するためでありました。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。この預言の言葉は、イザヤ書の62章11節と、ゼカリヤ書の9章9節からなっております。福音書記者マタイは、イザヤ書62章11節の預言と、ゼカリヤ書9章9節の預言の言葉を組み合わせて記しているのです。イザヤ書の62章11節にはこう記されています。旧約の1164ページです。「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主の勝ち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む」。ここに「娘シオンに言え」とありますが、この所を引用して、福音書記者マタイは「シオンの娘に告げよ」と記したわけです。シオンとはエルサレムのことであり、その娘とはそこに住んでいる人々を指しています。ですから、「シオンの娘に告げよ」とは、「エルサレムに住んでいる人々に告げよ」ということであるのです。なぜ、マタイは、わざわざイザヤ書の62章11節を引用したのでしょうか?それはその後の、「見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主の勝ち得られたものは御許に従い/主の働きの実りは御前を進む」という預言が、イエス様がエルサレムに入られる情景の意味するところをよく表しているからだと思います。イエス様は、娘シオンの救いとして、エルサレムに入られるのです。そして、イエス様の後に従う弟子たちやイエス様の前後を歩む群衆たちこそ、これまでイエス様がしてきたガリラヤ宣教の実りであると言えるのです。
次にゼカリヤ書9章9節を見てみたいと思います。旧約の1489ページです。ここでは9節、10節をお読みします。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ」。預言されている王は馬ではなく、ろばに乗って来るわけですが、ろばに乗ることは高ぶらないこと、謙遜で柔和なことの象徴とされています。また、馬が軍馬として戦争に用いられたのに対して、ろばは荷物の運搬などの日常生活に用いられました。よって、ろばに乗ってくる王は平和の王でもあるのです。イエス様はろばに乗り、エルサレムに入られることによって、御自分が柔和で謙遜な王であること、また平和の王であることを示されたのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の40ページです。
弟子たちは、イエス様が命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけました。服を掛けて、鞍の代わりにしたのです。「イエスはそれにお乗りになった」とありますが、「それ」とは、まだ誰も乗ったことのない子ろばのことであります。お母さんである雌ろばも一緒に連れて来られて進んでいくわけですが、それは子ろばを安心させるためであったのです。ここで私たちが心に留めたいことは、ろばに乗ってエルサレムに入るということを、イエス様御自身が望まれ、実行されたということです。これまで、イエス様は、弟子たちに、御自分がメシア、王であることを誰にも話さないようにと命じておられました(マタイ16:20参照)。しかし、大王の都であるエルサレムに入るに当たって、イエス様御自身が、ゼカリヤ書に預言されている王であることを、ろばに乗ることによって示されたのです。そして、大勢の群衆がまさに、イエス様を王として歓迎するのですね。この群衆は、過越の祭りをエルサレムで祝うために、ガリラヤからイエス様と一緒に来た巡礼者たちであります。この群衆は、ガリラヤの地でイエス様がなされた力ある業、悪霊追い出しや病の癒しの業を見てきました。また、イエス様の力ある言葉、神の国の福音を聞いてきた者たちです。その大勢の群衆が、自分の服を道に敷き、あるいは木の枝を切って道に敷いたのであります。彼らは即席のレッドカーペットを作ったわけです。そして、大勢の群衆が、イエス様の前を行く者も後に従う者もこう叫んだのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。ホサナとは、「救ってください」という意味でありますが、ここでは歓呼の叫びとして、「万歳」といったような意味で用いられています。前々回、私たちは、二人の盲人が、イエス様を「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけたお話を学びましたが、ここでは群衆がイエス様を「ダビデの子」と呼びかけているのです。聖書は、約束の王がダビデの子孫から生まれることを預言しておりましたが、イエス様こそ、そのダビデの子、約束の王であると言うのです。ここで、群衆がどれほど理解して叫んでいるかは分かりませんけれども、ろばに乗ってエルサレムに入る、このお方こそ、主の名によって来られる方、主なる神が遣わしてくださった王であると彼らは言い表したのです。
このようにして、イエス様がエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒ぎました。イエス様がエルサレムに入られたことは、この日、都中の者たちが知ることなったのです。私たちが、ここから教えられますことは、エルサレムに住む人々は、イエス様のことをまったく知らないということであります。ですから群衆は、こう答えたわけです。「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」。群衆は、ガリラヤから過越の祭りを祝うためにエルサレムに来たわけですから、イエス様のことを知っておりました。この方がガリラヤのナザレの出身のイエスであり、また預言者と噂されることを知っていたのです(マタイ16:13、14参照)。エルサレムの人々は、ガリラヤから来た群衆の口を通して、ろばに乗ってエルサレムに入られたお方が、「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」であることを知らされたのです。
今朝の御言葉を読んで私が不思議に思いましたのは、イエス様はこの群衆の行為、また叫びをどのようなお気持ちで聞かれたのだろうということです。といいますのも、イエス様はこの群衆が後に、「十字架につけろ」と叫ぶことを知っておられたはずであるからです。「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ群衆は、後に「十字架につけろ」と叫ぶようになる。そのことを知りながら、イエス様は柔和な王としてエルサレムに入られたのです。そのお気持ちが正直に申しますと分からないのです。イエス様は、このときどのような表情をされていたのか?おそらく、群衆の歓呼を受けて、喜ばれたと思います。ろばに乗って、やさしくほほえむ柔和な王として、エルサレムに入られたのです。それは考えて見ますと、まったく愚かなようにも思えます。私たちには愚かに思えてしまうほどに、イエス様は柔和であられるのです。イエス様がどれほど柔和であられるのか?また、謙遜であられるのか?そのことをイエス様はすでに、弟子たちに打ち明けておられました。20章28節であります。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。ろばに乗ってエルサレムに入られる王は、仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の贖いとして命を与えるために来られた王であります。それゆえ、イエス様の玉座は、十字架なのです。「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」が「ユダヤ人の王」であることが公に示されたのは、十字架の上にかかげられた罪状書きによってであったのです(マタイ27:37参照)。
私たちは、この後、讃美歌130番を歌います。そこで、私たちは、「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」と歌います。これは、群衆が叫んだ言葉であります。その言葉を、私たちはどのような思いで歌うのでしょうか?これはまことに重たい問いだと思います。「ダビデの子にホサナ」と叫んだ群衆が、後に「十字架につけろ」と叫んだことを知っているゆえに、私たちはそのことを問わざるを得ないのです。私はこう考えたらよいと思います。私たちは、「十字架につけろ」と叫んだ者として、「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのだと。私たちが王としていただいておりますイエス・キリストは、柔和で謙遜なお方でありますが、もはやろばに乗って来られることはありません。前回のペンテコステの礼拝でお話したように、復活され、天におられるイエス様が再び来られるときは、雲に乗って、栄光の主として来られるのです。そのイエス様から聖霊を与えられた主の民、キリストの民として、私たちは、イエス様を約束の王としてほめたたえるのであります。イエス様を十字架につけてしまうという大きな罪を赦してくださった柔和な王として、イエス・キリストをほめたたえるのです。