深く憐れむイエス 2015年5月17日(日曜 朝の礼拝)
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深く憐れむイエス
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 20章29節~34節
聖書の言葉
20:29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。マタイによる福音書 20章29節~34節
メッセージ
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今朝は、マタイによる福音書20章29節から34節までの御言葉をご一緒に学びたいと願います。
29節をお読みします。
一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
イエス様ご一行はエルサレムに上って行こうとしておられるわけですが、「エリコの町」はエルサレムに上るための最後の宿場町でありました。エルサレムに上る者たちは、エリコの町で一泊して、早朝エルサレムに旅立つのが常であったのです。イエス様ご一行がエリコの町を出たことは、イエス様ご一行がいよいよエルサレムに入られることを意味しているのです。そのイエス様に大勢の群衆が従ったことは、大勢の群衆の間に、イエス様がエルサレムで王として君臨されるのではないかという期待が広がっていたことを教えています(21:9参照)。また、時は過越祭の季節でありましたから、大勢の群衆も過越祭を祝うために、エルサレムに上るところであったと思います(申命16:16参照)。イスラエルの男子は、過越祭を祝うために、エルサレムに上らなければなりませんでしたから、イエス様に従った大勢の群衆は、過越祭を祝うためにエルサレムへ上るところであったのです。
30節をお読みします。
そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
「二人の盲人が道端に座っていた」とありますが、彼らは道端に座って何をしていたのでしょうか?二人の盲人はエリコの町を出てエルサレムへ上る人たちに物乞いをしていたのです(マルコ10:46参照)。道端に座って物乞いをしていた二人の盲人は、イエスがお通りと聞いて、こう叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。二人の盲人は、イエスがお通りと聞いて、「イエスよ、わたしたちを憐れんでください」とは言いませんでした。イエスを「主よ、ダビデの子よ」と呼ぶのです。ここには二人の盲人のイエス様に対する信仰が言い表されています。「主」とは、「ご主人様」といった目上の人に対する呼びかけでありますが、イスラエルの神様を意味する言葉でもあります。おそらく、二人の盲人は、主なる神様から遣わされたお方として、イエス様を「主よ」と呼びかけたのだと思います。といいますのも、その後の「ダビデの子よ」という呼びかけは、神様が約束されたメシア、救い主に対する称号であったからです。神様はイスラエルに、ダビデの子孫からメシア、救い主がお生まれになると預言しておられました(サムエル下7章、詩89編参照)。そして、マタイによる福音書は、その1章で、イエス様がダビデの子ヨセフのいいなずけマリアの胎に聖霊によって宿ったこと。そのようにして、神の御子であるイエス様がダビデの子としてお生まれになったことを記したのでありました。二人の盲人は、イエス様を「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけることによって、イエス様を来たるべきお方、約束の救い主であると言い表したのです。そして、「わたしたちを憐れんでください」と言うのであります。「憐れんでください」。この言葉は、詩編などにも記されている祈りの言葉であります(詩6:3参照)。自分には神様に顧みていただく価値がないことを知っている者だけが、「主よ、憐れんでください」と祈ることができるのです。神様と自分との間に関わりが生まれるとすれば、それは神様の憐れみによるものでしかない。そのことを知っている者だけが、「主よ、憐れんでください」と祈ることができるのです。二人の盲人はそのことをよく知っていたのだと思います。これからイスラエルの王として君臨すると思われているイエス様と、物乞いをしている自分たちと何の関わりがあるか?何もないのです。もし、その関わり、交わりが生まれるとすれば、それはひとえに、イエス様の憐れみによるのです。
31節をお読みします。
群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶ二人の盲人を、群衆は叱りつけて黙らせようとしました。なぜ、群衆は二人の盲人を叱って黙らせようとしたのでしょうか?それは、彼らがエルサレムに上り、王となられるイエス様と物乞いをしている二人の盲人とはかかわりがないと考えたからです。また、「憐れんでください」という言葉は、物乞いが金銭を求めるときの決まり文句でもありましたから、群衆は二人の盲人がしつこく金銭を求めていると考えたのかも知れません。とにかく、群衆は二人の盲人を叱って黙らせようとしたのです。しかし、二人はますます声を張り上げて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。なぜなら、二人の盲人にとって、これがイエス様に憐れんでいただくことのできる唯一のチャンスであったからです。目が見えるのであれば、イエス様の後を追いかけて行くことができたかも知れません。しかし、目が見えない彼らにとって、これがイエス様に憐れんでいただく最初で最後のチャンスであったのです。ですから、二人の盲人は、群衆から「うるさい」と言われようが、「黙れ」と言われようが、力の限り、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けたのです。
32節、33節をお読みします。
イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。この二人の盲人の叫びは、イエス様に届きました。イエス様は、「主」として、また「ダビデの子」として立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われます。これに対して、二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えました。この二人の盲人の願いの背景には、来たるべきメシアは盲人の目を見えるようにすることができるという旧約聖書の預言があります。例えば、イザヤ書の35章1節から5節に次のように記されています。旧約の1116ページです。
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
ここに、「そのとき、見えない人の目が開く」とありますが、この預言は、神様が遣わされるメシア、救い主が来られるときに実現すると信じられておりました。それゆえ、イエス様に対して、「主よ、ダビデの子よ」と言い表した二人の盲人は、「目を開けていただきたいのです」とイエス様に願ったのです。二人の盲人がイエス様に、「目を開けていただきたいのです」と願ったことは、彼らの信仰が口先だけのものではなく、心からの信頼であったことを教えています。イエス様に「目を開けていただきたいのです」と願うことは、約束の救い主であるイエス様なら自分たちの目を開けることができるという彼らの信仰を前提としているからです。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の38ページです。
34節をお読みします。
イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
イエス様は、「わたしたちを憐れんでください」と願った二人の盲人を深く憐れんでくださいました。ここで「深く憐れんで」と訳されている言葉は、「腸がちぎれる想いがし」とも訳される言葉であります(岩波訳参照)。イエス様は腸のちぎれるような想いを抱かれるほどに深く憐れまれ、二人の盲人の目に触れられたのです。ここで「目」と訳されている言葉は、33節で「目」と訳されているのとは違う言葉が用いられています。33節で「目」と訳されている言葉は、肉体の目のことでありますが、34節で「目」と訳されている言葉は、心の目を表す言葉が用いられているのです。福音書記者マタイは、意図的に、このような言葉の使い分けをしているのだと思います。イエス様が深く憐れまれて触れられたのは、肉体の目だけではなく、心の目でもありました。ですから、盲人たちはすぐ見えるようになると、イエス様に従ったのです。盲人たちは、目が見えるようになると、イエス様にお礼を言って、どこかへ行ってしまったのではありません。盲人たちは目が見えるようになると、イエス様の弟子として従ったのです。ここには、私たちが聴き取るべき大切なことが教えられております。それは、私たちが弟子としてイエス様に従うことができたのは、イエス様が私たちを深く憐れんでくださり、私たちの心の目を開いてくださったからであるということです。もう一度申します。私たちが弟子としてイエス様に従うことができるのは、イエス様が私たちを深く憐れんでくださり、私たちの心の目を開いてくださったからであるのです。けれども、私たちはそのことをしばしば忘れてしまうのです。自分の力でイエス様を見いだし、自分の力でイエス様に従っているかのように考えてしまうのです。ですから、私たちは、何度でも、「主よ、私たちを憐れんでください。私たちの心の目を開いてください」とイエス様に祈るべきであるのです。聖書は、イエス様が、十字架の死から三日目に栄光の体で復活され、天に挙げられたこと。イエス様が私たちの預言者、祭司、王として、父なる神の右の座についておられることを教えています。しかし、私たちは、このことをすぐ忘れてしまうのです。目に見えることに心をとらわれてしまい、イエス様がすべてのことを御支配しておられることを受け入れることができなくなってしまうのです。私たちにとって新井栄子姉妹の死はそのようなものであったかも知れません。けれども、私たちは今朝の御言葉から、もう一度、イエス様が新井栄子姉妹を深く憐れんでくださり、新井栄子姉妹の心の目を開いて、御自分の弟子としてくださったことを思い起こしたいと願います。新井栄子姉妹だけではありません。イエス様を信じる私たち一人一人を、イエス様は深く憐れんでくださり、私たちの心の目を開いてくださったのです。そのようにして、私たちを御自分の弟子としてくださり、永遠の命を受け継ぐ者としてくださったのです。
今朝は最後にエフェソの信徒への手紙に記されている使徒パウロの執り成しの祈りを読んで終わりたいと思います。新約の353ページです。エフェソの信徒への手紙1章15節から23節までをお読みします。
こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。