仕えるために来られたイエス 2015年5月10日(日曜 朝の礼拝)
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仕えるために来られたイエス
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 20章17節~28節
聖書の言葉
20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」マタイによる福音書 20章17節~28節
メッセージ
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今朝は、マタイによる福音書20章17節から28節までの御言葉をご一緒に学びたいと願います。
小見出しに、「イエス、三度死と復活を予告する」とありますように、ここには三度目のイエス様の死と復活の予告が記されています。最初に、イエス様が御自分の死と復活について予告されたはペトロの信仰告白の後でありました(16:21参照)。ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白を受けたときから、イエス様は御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められたのです。イエス様は御自分の死と復活を予告することによって、御自分がどのようなメシア、救い主であるかを弟子たちに教えられたのです。次に、イエス様が御自分の死と復活について予告されたのは、一行がガリラヤに集まったときでありました(17:22参照)。イエス様はガリラヤを去り、エルサレムのあるユダヤ地方に行く前に、「人の子は人々に引き渡されようとしている。そして、殺されるが三日目に復活する」と言われたのです。そして、今朝の御言葉では、イエス様はエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せてこう言われるのです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」。イエス様が三度御自分の死と復活を予告されたこと、それはそのことが必ず御自分に起こることを知っておられたということです。イエス様は御自分の死と復活を神様によって定められたこととして理解しておられました。「人の子」とはイエス様のことでありますが、イエス様を祭司長たちや律法学者たちに引き渡さすのは、具体的にはイエス様を裏切ったイスカリオテのユダでありますが、その背後にイエス様は神様の御計画を見ておられるのです。また、イエス様を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるために、異邦人(ローマ人)に引き渡すのは、具体的には、死刑を宣告した祭司長たちや律法学者たちでありますが、そこにもイエス様は神様の御計画を見ておられるのです。そして、イエス様は神様によって三日目に復活させられるのです。新共同訳聖書は、「人の子は三日目に復活する」と翻訳していますが、元の言葉は、受動態の未来形で記されています。イエス様は神様によって復活させられるのです。このように、イエス様は大変詳しく、エルサレムで御自分に何が起こるかを十二人の弟子たちに告げられたのです。
ここで「ゼベダイの息子たちの母」が登場して来ます。ここから、私たちは、イエス様に従って来たのは男だけではなく、女もいたことを教えられます。ルカによる福音書を見ますと、婦人たちが自分の持ち物を出し合って、イエス様に一行に奉仕していたことを記しています(ルカ8:1~3参照)。ゼベダイの息子たちの母もその婦人たちの一人であったのです(マタイ27:55、56参照)。ゼベダイの息子たちの名前はここに記されておりませんが、ヤコブとヨハネであります(4:20、10:2参照)。ゼベダイの息子であるヤコブとヨハネも漁師であり、ペトロとその兄弟アンデレに続いてイエス様の弟子とされた者たちであります。また、ヤコブとヨハネは、ペトロと並んで、イエス様から特別に目を掛けられた者たちでありました。17章に、いわゆる山上の変貌の出来事が記されていましたが、そこでイエス様は、ペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて、高い山に登られました。ですから、ゼベダイの息子たちの母が、今朝の御言葉で、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおしゃってください」と願い出たのは、順当なこととも言えるのです。この願いは、ゼベダイの息子たちの母の願いだけではなく、息子たちの願いでもありました。ですから、イエス様は、母親ではなく、二人の息子に、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と答えられるのです。ヤコブとヨハネは、母親を通して、「王座にお着きになるとき、私たちの一人をあなたの右に、もう一人を左に座れるとおっしゃってください」と願うのです。この願いの背後には、前回学んだ、19章28節の御言葉があります。そこにはこう記されておりました。「イエスは一同に言われた。『はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる』」。この言葉は、イエス様に従って来た十二人の弟子に言われた御言葉でありますが、どうも、十二人の弟子たちは、このイエス様の御言葉がすぐにでも実現するかのように考えていたようです。前回、わたしはこの所についてお話したとき、「新しい世界になる」とは、イザヤ書が預言している「新しい天と新しい地」のことであり、「人の子が栄光の座に座る」とはダニエル書が預言している世の終わりの出来事であるとお話しました。しかし、十二人の弟子たちは、イエス様がエルサレムに上ることによって新しい世界が到来し、イエス様が栄光の座に座ると考えていたわけです。このことは、「メシア」という言葉が「油注がれた者」であり、「王」を意味する言葉でもあったことを考えるならば当然であったと思います。ですから、ゼベダイの二人の息子であるヤコブとヨハネは、母親を通して、「王座にお着きになるとき、私たちの一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願うのです。これに対して、イエス様は、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われました。イエス様は十二人の弟子に、エルサレムにおいて何が起こるかを予め告げておられました。イエス様は、エルサレムにおいて、最高法院によって死刑を宣告され、ローマ人によって侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられると予告しておられたわけです。しかし、そのようなイエス様の言葉を弟子たちは理解できない、頭で理解できても、心では受け入れられないのです。それはそのようなことを12人の弟子たちが望んでいないからです。よく、「人間は聞きたいことだけを聞き、聞きたくないことは聞かない」と言われます。また、「人間は信じたいことだけを信じ、信じたくないことは信じない」と言われますが、弟子たちはまさにそうであったと思います。彼らはイエス様が予告する将来ではなく、自分たちが思い描く将来が実現するかのように信じていたのです。すなわち、彼らはイエス様がエルサレムに上り、王座にお着きになることを信じていたのです。しかし、イエス様はヤコブとヨハネに、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われました。それは、エルサレムにおいて、イエス様が着く王座が、十字架の上であるからです。イエス様は御自分が十字架につけられると言われましたが、十字架こそがイエス様の王座であるのです。十字架に磔にされたイエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」との罪状書きが掲げられたとあるように、十字架こそイエス様の王座であるのです。そのイエス様の右と左に座らせて欲しいとは、そのイエス様の右と左に十字架につけて欲しいということであるのです(27:37、38参照)。ですから、イエス様は、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われたのです。そして、彼らに、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」との覚悟を問われるのです。イエス様が飲もうとしている杯、それは十二人の弟子に予告された御自分の苦難と死のことであります。イエス様は御自分の苦しみを共に苦しむ覚悟はあるか、それができるかとヤコブとヨハネに尋ねたのです。それに対して、二人は「できます」と断言しました。この時も、二人は自分が何を「できる」と言っているのかよく分からなかったと思います。そのような彼らにイエス様はこう言われるのです。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」。このイエス様の御言葉は、イエス様が十字架の死から復活させられ、天へとあげられ、聖霊を遣わされることによって実現いたします。と言いますのも、イエス様が捕らえられたとき、ヤコブとヨハネは他の弟子たちと同じように、イエス様を置いて逃げてしまうからです。しかし、そのような彼らが、十字架の死から復活されたイエス様に再び会い、天に挙げられたイエス様から聖霊を与えられることによって、イエス様の苦しみを自分の苦しみとすることができるようになるのです。使徒言行録の12章1節を見ますと、「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」と記されています。後にヤコブは殉教の死を遂げるようになるのです。また、その弟ヨハネも、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモス島に島流しにされるという苦難にあずかる者となりました(黙示1:9参照)。このように、ヤコブとヨハネは、イエス様の杯を飲むことになる、イエス様の名のゆえに苦しみを受ける者となるのです。そのことをイエス様は見据えつつも、彼らにこう言われるのです。「しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。ここでのイエス様の右と左の座は、世の終わりにイエス様がお着きになる栄光の座の右と左の座のことであります。新しい世界で、栄光の座に着かれるイエス様の右と左に誰が座るかは、イエス様が決められることではなく、イエス様の父である神様によって定められた人々に許されることであるのです。このことはイエス様の国が父なる神の国であることを、私たちに思い起こさせます。イエス様は神様によって王座に就かせられる。それゆえ、イエス様の右と左に誰が座るのかも神様が決められること、イエス様の父によって定められた人々に許されていることであるのです。
ほかの十人の弟子が二人の兄弟のことで腹を立てたのは、十人の弟子たちも二人の兄弟と同じことを願っていたからに他なりません。すなわち、他の弟子たちもイエス様からいちばん偉い者とされ、他の弟子たちの上に立ちたいと願っていたのです。それゆえ、イエス様は十二人の弟子一同を呼び寄せてこう言われるのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのと同じように」。ここでイエス様は、支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るう異邦人たちの社会と御自分の弟子たちがつくる社会(教会)の原理を明確に区別しておられます。イエス様は、あなたがたの間では、支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力をふるうようであってはならないと言われるのです。さらには、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、あなたがたに仕える者になり、いちばん上になりたい者は、あなたがたの僕になりなさい」と言われるのです。そして、その模範こそが、イエス様であられるのです。イエス様は、仕えられるためではなく、仕えるために来てくださいました。そればかりか、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来てくださったのです。ここで「身代金」と訳されている言葉は「贖い」とも訳される言葉であります。元々の意味は、奴隷を買い戻すために支払われる代価を意味しております。イエス様は、私たちを罪の奴隷状態から贖い出すために、御自分の命を十字架の上でささげられるのです。マタイによる福音書は、聖霊によっておとめマリアから生まれてきた男の子がイエスと名付けられた理由を、「この子は自分の民を罪から救うからである」と記しました(1:21参照)。イエス様は、御自分の民をどのようにして罪から救ってくださるのか?それは、多くの人の罪の贖いの代価として、御自分の命を十字架の上でささげることによってであるのです(イザヤ53:11、12参照)。そのイエス様の教会を治める者に求められること、それは皆に仕える者となること、皆の僕になることであるのです。すなわち、キリストの教会において支配するとは、仕えるという僕の形態を取るのです。それは、教会の頭であるイエス・キリストが私たちに仕えるために来てくださり、私たちを罪から贖うために御自分の命をささげてくださったゆえであるのです。