人間にはできないが神にはできる 2015年4月19日(日曜 朝の礼拝)
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人間にはできないが神にはできる
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 19章16節~26節
聖書の言葉
19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
19:26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。マタイによる福音書 19章16節~26節
メッセージ
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今朝は、マタイによる福音書19章16節から26節までをご一緒に学びたいと願います。
16節から22節までをお読みします。
さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
今朝の御言葉には、一人の男が出てきます。この男は20節にありますように、「青年」でありました。20歳代の若い男性であります。また、この青年は22節にありますように、「たくさんの財産を持っていました」。この財産は自分で築いたというよりも、親から譲り受けたものであると思います。つまり、この青年は、裕福な家に生まれ、育ったのです。そのような青年が、イエス様に近寄って来て、こう言うのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。この青年が「永遠の命」について語るとき、当時の聖書である旧約聖書の教えを前提としています。聖書において、命の源は神様であり、神様こそ永遠の命を持っておられるお方であるのです(申命32:40参照)。ですから、「永遠の命を得る」とは、「永遠の命である神様との完全な交わりに入ること」を意味しています。そして、ダニエル書などを読みますと、死んだ後、復活させられ、永遠の命に入る幻が預言されているのです。ダニエル書12章1節から3節にこう記されています。旧約の1401ページです。
その時、大天使ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。
青年がイエス様に、「永遠の命」について尋ねたとき、このダニエル書の御言葉が念頭にあったと思います。この青年は、自分が死んでも後、永遠の命を持つ神様との交わりに生きることができるか、そのような天の国の祝福に生きることができるかが不安であったのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の37ページです。
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。この青年の問いに対して、イエス様はこうお答えになりました。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」。この青年は、預言者と噂されるイエス様なら、永遠の命を得るためにすべき、特別な善いことを知っているに違いないと期待して質問したのですが、イエス様のお答えは聖書の教えを超えるものではありませんでした。といいますのも、レビ記の18章5節にこう記されているからです。「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」。イエス様は、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われましたが、それは主なる神様が言われていたことであるのです。なぜなら、「掟」には、ただひとり善い方である神様の御心が示されているからです。何が善くて、何が悪いのか、善悪の判断は、ただひとり善い方である神様の掟に照らし合わせて判断されるべきことであるのです。ですから、イエス様は、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われたのであります。ただひとり善い方である神様の掟を守ることによって、神様の正しさにあずかることができる、ひいては神様の命にあずかることができるのです。
この青年は、まだイエス様なら何か特別な掟を知っているのではないかと期待していたようです。それで、「どの掟ですか」と尋ねるわけですが、イエス様はそれに対してこうお答えになりました。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」。ここでのイエス様の教えも旧約聖書を超えるものではありません。これらはどれも旧約聖書からの引用であります。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」。これらは出エジプト記20章に記されている十戒の後半の掟であります。また、「隣人を自分のように愛しなさい」は、レビ記19章18節に記されている掟であります。ですから、青年はこう言うのです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。この青年の言葉は、意味深長だと思います。彼は、神様の掟をみな守っていると言いながら、何が欠けているかを問わざるを得ないのです。また、彼は神様の掟をみな守っていると言いながら、永遠の命を得ている自信がないのです。それはなぜなのでしょうか?それはこの青年が心のどこかで、自分が神様の掟を完全には守っていないことを知っているからであります。イエス様が、ここで突きつけていることは、そのことであるのです。イエス様はこう言われます。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。青年は、「自分は隣人を自分のように愛しなさい」という掟を守って来たと言いましたが、イエス様はそのようにはお考えになりませんでした。それゆえ、イエス様は「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われるのです。永遠の命を得るためには、神様の掟を完全に守る必要があるのです。このようにイエス様は、青年の最初の問い、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」という問いに答えられたのです。青年が求めていた答えは示されました。では、この青年は、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施したかと言うと、そうではありませんでした。青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去ったのです。聖書はその理由を「たくさんの財産を持っていたからである」と記しています。この青年は、永遠の命を得るためならば、どんな善いことでもする覚悟で、イエス様に近寄って来たと思います。しかし、イエス様から「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」という御言葉を聞いたとき、自分にはそれができないことが分かったのです。つまり、この青年は自分が神様の掟を完全に守って、永遠の命を得ることができない、ということを思い知らされたのです。ですから、彼は悲しみながら立ち去ったのであります。
23節から26節までをお読みします。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
イエス様は、この青年に、財産を売り払い、貧しい人々に施すだけではなくて、御自分に従うようにと言われました。そして、実は、イエス様に従うことこそ、永遠の命を得るためにすべき善いことであり、天の国に入る道であるのです。イエス様が金持ちが天の国に入るのは難しいと言われるのは、金が持つ力のゆえであります。イエス様は、山上の説教において、「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と言われましたが、富、財産は、私たちの命を保障してくれる主人のようになってしまう恐れがあるのです。神様よりもお金の方が、自分の生活を保障してくれるように考えてしまうのです。ですから、イエス様は、「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言われるのです。さらには、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われるのです。これを聞いて弟子たちは非常に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。当時の人々は、財産を神様からの祝福であると考えていました。金持ちは神様の祝福を受けており、それだけ神の国に近いと考えられていたのです。ですから、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエス様の御言葉を聞いたときに、神様の祝福を受けている金持ちがそうであれば、だれが救われるのだろうか?だれが天の国に入ることができるのか?と問うたのです。そのように問う弟子たちを見つめて、イエス様はこう言われました。「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」。青年は、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねました。「永遠の命を得る」とは、「天の国に入る」ことと同じことを意味しています。ですから、青年は、「天の国に入るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問うたわけです。しかし、イエス様ここで、そのような青年の考え方を根本から否定されているのです。なぜなら、神様の掟を完全に守ることなど誰にもできないからであります。今朝の御言葉を読んで、私たちはどこか居心地の悪い思いを抱くのではないかと思います。と言いますのも、私たちは持ち物を売り払って、貧しい人々に施してから、イエス様に従う者となったからではないからです。それで、私たちは、この御言葉は、この青年だけに語られたものであるとか、また、自分はたくさんの財産を持っていないから関係ないとか、いろいろ考えるわけです。しかし、今朝の御言葉から私たちがはっきりと教えられたいことは、この青年の姿は、私たち自身の姿であるということなのです。「金持ちの青年」の物語は、私たち人間はだれも、神様の掟を完全に守ることによっては神の国に入ることができないことを教えているのであります。それはただ神様によってできること、神様が私たちにしてくださることなのです。
この青年がその後どうしたかは記されておりませんので分かりません。しかし、この青年も後日、イエス様が十字架の死から復活されたという福音(永遠の命の知らせ!)を耳にしたのではないでしょうか?そして、イエス様が、神の掟を完全に守れない自分に代わって、神様の掟を完全に守られたことを聞いたのではないかと思うのです。イエス様が隣人を自分以上に愛して、お金よりも大切な命を十字架の上で捨てられたことを知ったのではないかと思うのです。そして、もう一度、かつてイエス様から言われた言葉を思い起こしたのではないかと思います。そのとき、この青年は、イエス様の弟子として、持ち物を売り払って貧しい人に施すことができたのではないかと思います。それは善い行いによって永遠の命を得るためではありません。復活されたイエス・キリストに従う者とされた、そのようにして神の国に入れていただいた感謝の心からのものであります。
永遠の命を得ること、天の国に入ること、それは神様が私たち人間にしてくださることなのです。そして、イエス様が見つめられる弟子たちこそ、その神様がしてくださった者たちであるのです。イエス様は、御自分の弟子である私たちを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われるのです。私たちは神様によって、イエス様に従う者たちとされている。「キリストには変えられません。世の何ものをも」と歌うことができる者たちとされているのです。それは、ただ神様がしてくださったこと、神様の一方的な恵みによることであるのです。