結婚と離縁 2015年3月22日(日曜 朝の礼拝)

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結婚と離縁

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 19章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。
19:2 大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
19:3 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。
19:4 イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
19:5 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
19:6 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
19:7 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
19:8 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。
19:9 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
19:10 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。
19:11 イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
19:12 結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」マタイによる福音書 19章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書19章1節から12節までの御言葉をご一緒に学びたいと願います。

 1節、2節をお読みします。

 イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。

 16章21節に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とありましたが、今朝の御言葉で、イエス様は、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側を通って、ユダヤ地方へ行かれます。イエス様は、最高法院の議員たちから多くの苦しみを受け殺されるために、そして神様によって三日目に復活させられるために、エルサレムのあるユダヤ地方へ行かれたのです。ユダヤ地方におきましても、大勢の群衆がイエス様に従ってきました。そして、イエス様はそこでも人々の病気を癒されたのです。私たちは、このイエス様のお姿から、病の癒しが神様の御心であることを覚えて、癒し主である神様に、またイエス様に、病の癒しを祈り求めていきたいと願います。

 3節から6節までをお読みします。

 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 「ファリサイ派の人々」とは、神様の掟を熱心に守っていたまじめな人々であります。そのファリサイ派の人々が近づいて来て、イエス様にこう尋ねたのです。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。ここでファリサイ派の人々は、イエス様から教えを受けようとして、このように尋ねたのではありません。イエス様を試そうとして、もっと言えば、言葉尻を捉えて、陥れようとして、このように尋ねたのです。それに対して、イエス様は、旧約聖書の創世記の御言葉を引用して、答えられました。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」。創世記の1章27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と記されています。そのように、神は初めから人を男と女にお造りになりました。このことは、神様が初めから人を結婚して生きる者として創造されたことを教えているのです。また、イエス様はこのようにも言われました。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」。これは、創世記の2章24節からの引用であります。夫婦の結びつきは、「二人は一体となる」と言われるほどのものであるのです。そして、それは他でもない神様が結び合わせてくださったものなのです。結婚は、人間が考え出した制度ではなくて、神様が定められた制度であるのです。神様は、人を男と女とに創造されて、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と祝福して言われました。この祝福は男と女が結婚して夫婦となることによって実現されるのです。結婚とは神様が定められた制度であり、神様は結婚した夫婦を一体であると見ておられます。ですから、人はその結びつきを離してはならないのです。このように、イエス様は創世記の御言葉から結婚について教えられることにより、離縁が創造主である神の御心ではないことを宣言されたのです。

 7節から9節までをお読みします。

 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」

 離縁は創造主である神の御心ではないと言われたイエス様に対して、ファリサイ派の人々は、こう尋ねました。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」。ここで彼らは申命記の24章1節の御言葉を背景にして語っています。申命記の24章1節には、こう記されています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。ファリサイ派の人々は、この御言葉から、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは律法に適っている」と考えていたのです。ファリサイ派の人々は、イエス様に、「あなたは、『神が結び合わせてくださったものを、人は離してならない』と言うけれども、モーセは離縁状を渡して離縁するように命じているではないですか」と言うのです。それに対して、イエス様はこう言われます。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」。なぜ、主が結び合わせてくださった結婚生活を続けることができないのか?イエス様は、「あなたたちの心が頑固だからだ」と言われます。神様が配偶者を自分の助け手として与えてくださったと信じることができない頑なな心、それが離縁の原因であるのです。神様に対しても、また配偶者に対しても心が頑なになってしまう。これはアダムの最初の違反によって良き創造の状態から堕落した私たちの現実であります。その私たちの罪のゆえに、モーセは妻を離縁することを許したのです。しかし、初めからそうであったわけではありません。神様が結婚という制度を定められたときは、まだアダムが罪を犯す前でありました。創造主である神様の意図は、男と女が結婚して、夫婦となり、子供をもうけて、人間が増え広がっていくことでありました。モーセが離縁について記しているから、離縁することができると考えることは、結婚を定めた神様の本来の意図を見失っているのです。では、イエス様は、罪へと堕落した世にあっても、離縁を一切禁じられたかと言えば、そうではありません。イエス様は、「不法な結婚」の場合は離縁することを許されたのです。ここで、「不法な結婚」と訳されている言葉は、「不品行」(口語訳)とか、「不貞」(新改訳)とも訳すことができます。つまり、イエス様は、配偶者が自分以外の異性と肉体関係を持ったときは、離縁してよいと言われたのです。なぜなら、配偶者以外の異性と肉体関係を持つ姦通の罪は、夫婦の関係を破壊してしまう罪であるからです(マタイ5:27~32参照)。よって、配偶者が姦通の罪を犯した場合は、配偶者を離縁する正当な理由となるのです。しかし、「それ以外で妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と言われるのであります。当時のユダヤの社会において、妻が夫を離縁することはありませんでした。離縁は夫の権利であると考えられていたのです。夫は、一方的に離縁状を渡して、妻を去らせることができたのです。夫は、他に好きな女性ができれば、妻を離縁して、その女性を新しく妻として迎えることができたのです(マラキ3:14~16参照)。そのようにすれば、姦通の罪を犯さないで済むと彼らは考えたのです。しかし、イエス様は、不貞のためではなく、妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになると言われるのです。なぜ、そのように言われるのでしょうか?不貞以外の理由で離縁しても、神様が結び合わせてくださった夫婦の結びつきはとけていないからです。ユダヤでは、神様を証人として、夫婦の契りを交わしました。教会で結婚式を挙げれば、やはり、神様を証人として、夫婦の誓約を交わします。そのようにして成立した夫婦関係は、配偶者が姦通の罪を犯すこと以外の理由では解消することはないのです。二人は、以前として神様の御前に、一体であるのです。これはどういうことか、と言いますと、結婚したら配偶者以外の異性と肉体関係を持つことはできないということですね。ファリサイ派を含めて、当時の人たち、男たちは、好きな女性ができたら、妻を離縁して、新しく妻に迎えたらよい、そうすれば、姦通の罪を犯すことはないと考えました。そのような逃げ道を用意していたわけです。しかし、イエス様は、それは離縁の正当な理由にはならない。もし、そのようなことをすれば、神様の御前に夫婦の関係が続いている以上、その人は姦通の罪を犯すことになると言われたのです。

 10節から12節までをお読みします。

 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

 「離縁の正当な理由となるのは配偶者が姦通の罪を犯したときだけである。それ以外の理由で、結婚関係が解消されることないのだ」というイエス様の教えを受けて、弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言いました。ここには、不貞以外の理由で妻を離縁して、姦通の罪を犯すことになるのではないかという弟子たちの恐れの気持ちがあります。それほど、弟子たちには、一人の女性と生涯を共にするのは難しいことのように思われたのかも知れません。そのような弟子たちに対して、イエス様はこう言われます。「だれもこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」。「この言葉」とは、結婚についてのイエス様の御言葉、特に5節、6節のイエス様の御言葉であると思います。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。これが、「この言葉」であります。ですから、「この言葉を受け入れる」とは、主にあって結婚し、配偶者と離縁せず、生涯、生活を共にすることであるのです。心が頑なになった私たちが、結婚して、生涯、配偶者と生活を共にすることは、当然のことではありません。配偶者と生涯、生活を共にすることは、神様の恵みによることなのです。ですから、私たちは夫婦で神様を礼拝し、神様の恵みをいただくことが必要であるのです。イエス様は、18章20節で、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。これは夫婦で祈るときにも、言えることです。主にあって結ばれた夫婦に与えられている恵み、それは他でもないイエス・キリストがその夫婦の間にいてくださるということです。主にあって結ばれた夫婦は、主にあって互いに赦し合い、受け入れ合うことができる恵みをいただきているのです。

 12節で、イエス様は、結婚に召されていない人たちについて語っています。それは、「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者、天の国のために結婚しない者」であります。イエス様は30歳を越えておられましたが、結婚していませんでした。イエス様も、このどれかの理由のために結婚しなかったのです。このような結婚に召されていない人たちについて語った後で、イエス様は、「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」と言われました。「これ」とは何のことでしょうか?結論を申し上げると、「これ」とは、11節の「この言葉」であり、5節、6節の、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という御言葉であります。イエス様は、結婚に召されていない人たち以外の人々に、主にあって結婚すること、そして、主が結び合わせてくださった夫婦の関係を生涯全うすることを求めておられるのです。

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