自由の用い方 2015年2月01日(日曜 朝の礼拝)

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自由の用い方

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 17章22節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:22 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。
17:23 そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
17:24 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。
17:25 ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
17:26 ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。
17:27 しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」マタイによる福音書 17章22節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書17章22節から27節の御言葉をご一緒に学びたいと願います。

 22節、23節をお読みします。

 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。

 イエス様ご一行は、これまでフィリポ・カイサリア地方へ行っておりましたが、再びガリラヤへと戻って来られました。そして、それは過ぎ越しの祭りを祝うために、エルサレムに行くためであったと思われます(19:1参照)。それゆえ、イエス様は、一行がガリラヤに集まったとき、こう言われるのです。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する」。ここで「引き渡される」とありますが、これは神様によって引き渡されるということであります。神様によってイエス様は人々の手に引き渡されようとしているのです。そして、人々によって殺され、三日目に神様によって復活させられると言うのであります。このイエス様の御言葉を聞いて、弟子たちは非常に悲しみました。イエス様は以前、フィリポ・カイサリア地方で御自分の死と復活について予告されました。そのときペトロは、イエス様をわきへお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめ始めました。しかし、弟子たちは、イエス様から二度目の死と復活の予告を聞いたとき、非常に悲しんだのです。この時も、弟子たちの心に入ってきたのは、イエス様が人々の手に引き渡され、殺される、というところまででありました。弟子たちは三日目に復活させられるというイエス様の御言葉を理解することができず、非常に悲しんだのです。

 24節から27節までをお読みします。

 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

 カファルナウムは、イエス様のガリラヤ宣教の本拠地とも呼べる町であります。そのカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言いました。この「神殿税」と訳されている言葉は、元の言葉ですと、「二ドラクメ」という言葉であります。聖書の巻末にある「度量衡および通貨」によれば、ドラクメは、「ギリシャの銀貨で、重さ約4.3グラム、デナリオンと等価」と記されています。デナリオンは、「一日の賃金にあたる」と言われていますから、二ドラクメは、二日分の賃金にあたります。新共同訳聖書は、二ドラクメを「神殿税」と訳しましたが、これは読んで意味が分かるように意訳したわけです。この神殿税は、出エジプト記の30章11節から16節に由来すると言われています。旧約の144ページです。

 主はモーセに仰せになった。あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。一シェケルは二十ゲラに当たる。登録を済ませた二十歳以上の男子は、主への献納物としてこれを支払う。あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下を支払うことも禁じる。あなたがイスラエルの人々から集めた命の代償金は臨在の幕屋のために用いる。それは、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるために、あなたたちの命を贖うためである。

 ここには、「神殿」のことは直接言われていませんが、命の代償金が幕屋のために用いられたことから、このところを根拠にして、イスラエルの二十歳以上の男子に、二ドラクメの神殿税が課せられていたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の34ページです。

 「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」という問いに対して、ペトロは「納めます」と答えました。そして、家に入ると、イエス様の方からこう言い出されたのです。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」。これに対してペトロは、「ほかの人々からです」と答えました。地上の王は、自分の子どもたちから税金を取り立てることはなく、自分の子どもたちではない、他の人々から税金を取り立てるからであります。このペトロの答えを受けて、イエス様はこう言われました。「では、子供たちは納めなくてもよいわけだ」。このイエス様の御言葉は、元の言葉ですと、こう記されています。「それならば、子供たちは自由である」。文語訳聖書では、「されば子は自由なり」と訳されておりました。子供たちは自由である。神殿税を支払うことから自由である。よって、神殿税を納めなくてもよいとなるわけです。イエス様がここで前提としておられること、それは御自分が天上の王である神の子御であるということです。イエス様は天の王である神の独り子であられる。それゆえ、イエス様は神殿税から自由である。すなわち、神殿税を納めなくてもよいわけです。この理屈は、ペトロにはよく分かったと思います。なぜなら、ペトロは、高い山の上で、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神の御声を聞いたからです。また、彼自身も、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表したからであります。イエス様は天の王である神の御子であられる。それゆえ、神殿税から自由である。このことをペトロはよく分かったはずです。しかし、他の人たちはどうか、神殿税を集める者たちはどうかと言えば、よく分からなかったと思います。なぜなら、彼らは、イエス様が神の子であると信じていないからです。そのような彼らに配慮してイエス様は、続けてこう言われます。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。ここで、イエス様は不思議な仕方で銀貨を手に入れ、それを御自分とペトロの神殿税として納めるようにと言われました。そして、ここには記されていませんが、そのとおりにペトロはしたと思われます。湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚の口から銀貨が見つかるというお話は、ユーモラスなお話でありますが、そのとおりであったことこそ、イエス様が神の子であることのしるしであります。イエス様はそのような不思議な仕方で銀貨を手に入れ、神殿税を集める者たちをつまずかせないようにと、神殿税を納められたのです。しかも、ここでイエス様は、御自分の分だけではなく、ペトロの分も納めるよう言われています。この「銀貨」と訳されている言葉は、「一スタテル」でありまして、一スタテルは二ドラクメの二倍、四ドラクメに相当したと言われています。ちょうど、二人分の神殿税であるわけです。それで、イエス様は、ペトロに、「わたしとあなたの分として納めなさい」と言われたのです。そして、ここには、イエス様にあって、ペトロも神の子とされていることが教えられているのです。イエス様は、「では、子供たちは納めなくてもよいわけだ」「では、子供たちは自由である」と言われましたけれども、その子供たちには、神の独り子である御自分を信じて、神の子とされたペトロ、またペトロをはじめとする弟子たちが含まれているのです。イエス様を信じて神の子となる資格を与えられた弟子たちは、本来、神殿税から自由であります。納めなくてもよいのです。しかし、イエス様が旧約の掟に従っている人々をつまずかせないため納められたように、初代教会も神殿税を納めたのであります。イエス様が御自分の自由を他の人々のため用いたように、その弟子たちも、神の子としての自由を他の人々のために用いたのです。そのような配慮から初代教会のユダヤ人キリスト者たちも神殿税を納めたと考えられているのです。

 ある説教者は、今朝の御言葉を、神社の費用に例えて語っておりました。しかし、これは大きな誤解をもたらすのではないかと思います。今朝の御言葉でイエス様が納められたのは神殿税でありまして、旧約の律法に基づく、天の王である神の住まいと考えられた神殿の修繕のためのものでありました。決して、異教の宗教施設の費用のことがここで言われているのではありません。わたしが属している自治会では、自治会費の中から、神社への出費がなされていますが、それに対して、わたしはことある毎に反対の声を上げるべきだと思っています。様々な宗教を信じている会員からなる自治会の会費をある特定の宗教のために用いるべきではないと考えるからです。わたしは今、自治会の班長をしておりまして、ある時、神社のお札の購入希望者を一軒一軒聞いて回るように言われたことがありました。それについては、はっきりとお断りしました。「信仰上、できない」と申しました。もし、そのことがつまずきを与えることであったとしても、それは避けることのできないなつまずきであったと思います。また、もしそのとおりにしたら、わたし自身がつまずいたことでしょう。イエス様は弟子である私たち自身がつまずいてまで、すなわち、キリスト者としての信仰を捨ててまで、他の人をつまずかせないようにと言われているのではありません。イエス様が言われていることは、イエス様にあって神の子とされた私たちの自由を、他の人々のために用いることであって、他の人々のために、神の子としての資格を捨てることではないのです。

 神の子としての自由を他の人のために用いる。この主イエスの姿勢を見倣った弟子の一人に、使徒パウロがおります。パウロはコリントの信徒への手紙一で、偶像に供えられた肉の問題について記していますが、その8章13節で、こう記しております。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」。コリントの教会には、偶像に供えられた肉を食べると、以前の習慣から、その偶像と交わりを持つのではないかと考える兄弟がおりました。そのような兄弟をつまずかせるくらいなら、自分は決して肉を口にしないとパウロは言うのです。肉を食べること、それは自由なことです。しかし、パウロは、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしないと言うのです。なぜ、パウロはこのような言葉を語ることができたのでしょうか?それは、イエス様が、神の子としての自由を他の人たちをつまずかせないために用いられたことをパウロが知っていたからです。私たちも、神の独り子であるイエス・キリストに結ばれて神の子とされております。神の子として自由な者であるのです。その自由を、他の人々をつまずかせないために用いる者とさせていただきたいと願います。

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