からし種一粒ほどの信仰 2015年1月25日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

からし種一粒ほどの信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 17章14節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、
17:15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。
17:16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
17:17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
17:18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。
17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」マタイによる福音書 17章14節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 前回私たちは、山の上でイエス様の姿が変えられる、いわゆる山上の変貌について学びました。今朝の御言葉はその続きであります。

 イエス様とペトロとヤコブとヨハネの四人が山を降り、群衆のところへ行くと、ある人がイエス様に近寄り、ひざまずいて、こう言いました。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」。ここで、ある人は、イエス様を礼拝する者として描かれています。彼は、イエス様に近づき、ひざまずき、「主よ」と呼びかけ、息子を癒してくださいと願うのです。彼は、イエス様がペトロとヤコブとヨハネを連れて山に登っている間、残りの弟子たちのところに息子を連れて来ましたが、治すことができなかったと言うのです。これを聞いて、イエス様はこうお答えになりました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」。ここにはイエス様の嘆きが記されています。イエス様は、ある人の言葉を受けて、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われました。ある人の息子は、「てんかんでひどく苦しんでい」ましたが、「てんかん」と訳されている言葉のもともとの意味は「月に撃たれた病」という意味であります。それである翻訳聖書は、「夢遊病」と訳しています。つまり、ここでの「てんかん」は、現代の医学の「てんかん」を必ずしも意味していないのです。そのことを確認した上で、「てんかん」とはどのような症状かと申しますと「発作的にけいれんを起こし、口からあわを吹いて昏睡状態になり意識不明になる」症状を言います。そのような症状のために、息子は度々火の中や水の中に倒れ、命の危険に晒されていたのです。この息子の病は、悪霊の働きによるものでありました。と言いますのも18節にこう記されているからです。「そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた」。このように、今朝の御言葉では、「てんかん」という病を患っていることと悪霊に取りつかれていることが密接に結びついているのです。てんかんによってひどく苦しむ息子の姿、それは悪霊によってひどく苦しめられている、信仰のない、よこしまな時代の象徴とも言えます。また、その悪霊を追い出すことのできない弟子たちも、信仰のない、よこしまな時代を象徴しているのです。

 イエス様は、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われた後で、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました。このようなイエス様の御言葉を読むことは、私たちにとって驚きではないでしょうか?なぜ、イエス様はこのように言われたのでしょうか?考えられる一つのことは、今朝の御言葉が、山上の変貌のすぐ後に記されているということです。イエス様は高い山の上で、光輝く栄光の姿へと変えられました。このことは前回も申しましたように、イエス様が栄光の姿で復活され、終わりの日に栄光の人の子として来られることの先取りでありました。イエス様は高い山の上で栄光の姿へ変えられ、モーセとエリヤと語り合いましたが、このような光景はまさしく天上の光景と呼べます。その天上の世界から山を降って来ると、そこは悪霊が力を振るい子供を苦しめる世界、さらには弟子たちもその悪霊を追い出すことのできない世界であったのです。弟子たちが悪霊を追い出していて然るべきであるにも関わらず、そうなっていない現状を目の当たりにして、イエス様は、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われるのです。しかし、ここでイエス様は、そのような信仰のないよこしまな世代を突き放しておられるのではありません。「もうわたしは知らない」と言われたのではなくて、「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と言われたのです。そして、イエス様は悪霊をお叱りになり、悪霊を追い出して、子供を癒されたのです。そのようにして、イエス様は御自分を礼拝する父親の願いを叶えてくださったのです。

 弟子たちはひそかにイエス様のところに来て、こう尋ねました。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」。このことは、私たちも疑問に思うことではないでしょうか?10章に、イエス様が十二人を使徒としてお選びになったことが記されておりましたが、その1節にはこう記されていました。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」。弟子たちは、イエス様から汚れた霊に対する権能を与えられていたわけです。そして、実際に、イエス様から方々の町へ遣わされ、汚れた霊を追い出したのであります。しかし、今朝の御言葉では、その弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったのです。この弟子たちの問いに対してイエス様は、「信仰が薄いからだ」とお答えになります。「信仰が薄いからだ」。この言葉は、「信仰が小さいからだ」とも訳すことができます。「弟子たちの信仰が小さいので、彼らは悪霊を追い出すことができなかった」とイエス様は言われるのです。では、どのくらい弟子たちの信仰は小さかったのでしょうか?続けてイエス様はこう言われました。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこへ移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」。からし種は直径一ミリ程度の小さな種で、一番小さなものに譬えられます(マタイ13:32参照)。そのからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここからあそこへ移れ」と言ってもそのとおりになると言うのです。だとすれば、弟子たちは、そのからし種一粒ほどの信仰を持っていないことになるわけです。イエス様は弟子たちに、「信仰が薄いからだ」「信仰が小さいからだ」と言われましたが、その弟子たちの信仰は、からし種一粒よりも小さいのです。これは、ほとんど無いと等しいと言えます。イエス様は、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われましたが、弟子たちもその言葉からもれてはいないのです。では、なぜ、弟子たちの信仰はからし種一粒よりも小さいものとなってしまったのでしょうか?このことも、イエス様がペトロとヤコブとヨハネを連れて高い山に登られたことと関係があると思います。弟子たちが、ある人から息子を治してもらいたいと願われたとき、そこにイエス様はいませんでした。イエス様は三人の弟子を連れて、高い山へ登られたからです。そのとき、弟子たちは、イエス様のことを忘れた。自分たちに汚れた霊に対する権能を与えてくださったイエス様を忘れて、自分たち自身にその権能があると考えたのです。彼らはいわば自分の名によって悪霊を追い出そうとしたのです。あるいは、こう言い換えてもよい。彼らは、イエス様に頼らず、自分たちで何とかしなければならないと思ったのです。それゆえ、彼らの信仰はからし種一粒よりも小さいものとなり、悪霊を追い出すことができなかったのです。この弟子たちの姿は、私たちの姿でもないでしょうか?イエス様は今、十字架の死から復活された栄光のお姿で天におられます。イエス様は、天と地の一切の権能を授けられたお方として、父なる神の右に座しておられるのです。それゆえ、私たちはイエス様を忘れて、自分自身に権能があるかのように誤解してしまうのです。あるいは、イエス様に頼らずにわたしがやらなければと思ってしまうのです。具体的に申し上げるならば、わたしには御言葉の教師として、説教をする権能がイエス様から与えられています。教会政治の手続きで言えば、中会において教師として任職することによって、イエス様から公に御言葉を語る、説教する権能を授けられたのです。しかし、そのことを忘れて説教するという危険が教師にはあるのです。このことは、長老と執事も同じであります。教師、長老、執事の権能は、その職務に帰属するものではなく、その職務を立てられた教会の頭である主イエス・キリストにあるのです。長老たちの会議である小会には各個教会を霊的に統治することを務めとしていますが、それも、主イエス・キリストから授けられている権能によることであるのです。

 具体例として、教師、長老、執事の教会役員について申しましたが、今朝の御言葉に記されている弟子たちの姿は、教会役員に限らない、キリスト者である信徒一人一人の姿でもあります。宗教改革者であるマルチンルターは、『ローマ書への序文』の中で、次にように述べております。「信仰とは、私たちがこれこそ信仰だと思っているような妄想や夢想ではない。・・・そうではなくて信仰とは私たちの中における神の業である」。このルターの言葉に触発されて、ある人このようなことを述べております。「信仰を持っていると、所有物のように考えるとき、その信仰は眠っている。信仰とは、ただ御言葉と祈りによって目覚め、生きた力となるのである」。私たちが自分は信仰を持っていると所有物のように考えるとき、その信仰は眠った、からし種一粒よりも小さい信仰でしかありません。しかし、信仰が私たちの中における神の業であることに気づき、御言葉と祈りによって新しくいただくとき、その信仰は生きた力となるのです。たとえからし種一粒ほどの信仰であったとしても、「あなたがたにできないことは何もない」とイエス様から言っていただけるのです。なぜなら、私たちが、イエス・キリストの御名によって祈りをささげる父なる神には、できないことは何もないからです。信じるとは、祈ることでありますね。信じない人は祈ることはありません。信仰のない世代とは、祈らない世代のことです。教会役員がその職務についている自分自身に権能があると誤解するとき、その人はその職務を果たす際に祈らなくなります。また、すべてのキリスト者が信仰を所有物のように持っていると考えるとき、祈らなくなります。しかし、信仰とは日々神様から、イエス・キリストを通して与えられるものであるのです。そのような信仰の中で、私たちは御子イエス・キリストと結ばれ、父なる神様との交わりの内に生かされているのです。そして、そのような信仰に生きるとき、私たちは「できないことは何もない」という確信に生きることができるのです。私たちにはできない。しかし、イエス・キリストを遣わしてくださった父なる神にはできないことは何もない。この信仰を日々祈り求めながら、信仰のないよこしまな時代に抗って、歩んで行きたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す