聖書とはどのような書物か 2012年10月14日(日曜 朝の礼拝)
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聖書とはどのような書物か
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- 村田寿和 牧師
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テモテへの手紙二 3章10節~17節
聖書の言葉
3:10 しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、
3:11 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
3:12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。
3:13 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
3:14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。テモテへの手紙二 3章10節~17節
メッセージ
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今朝は、はじめての方をお招きしての伝道礼拝であります。案内のチラシに、次のような文章を記しました。「世界のベストセラーである聖書とは、どのような書物なのでしょうか?そのことをご一緒に聖書から学びたいと願っています」。それで、今朝はテモテへの手紙二の第3章10節から17節の御言葉を読んでいただきました。特に15節から17節は、聖書自身が、聖書について教えている有名な個所であります。そのところだけを、もう一度お読みします。
また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
ここで「あなた」と言われているのは、テモテという人物であります。今朝の御言葉は、イエス・キリストの使徒パウロが、テモテに宛てて記した手紙の一部であります。そのことは、この手紙の最初のところに記されています。大変ドラマチックな文書ですので、第1章1節から8節までを読んでみたいと思います。
キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
このように手紙は書き始められるのですが、使徒パウロは老人であり、主イエスのために牢獄に捕らえられていました。そのパウロが、信仰の子であり、自分と一緒に福音に仕えてきた若者テモテに書き送ったのが、この手紙であるのです。
では今朝の御言葉に戻ります。
テモテは、エフェソの教会におり、エフェソの教会は偽りを語る偽教師たちによって惑わされておりました。そのような背景の中で、今朝の御言葉も記されています。13節を見ると、次のように記されています。「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます」。ここでの「悪人や詐欺師」は、エフェソの教会を惑わせていた偽教師たちを指しています。偽教師たちが、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていくのに対して、「だが、あなたは、自分が学んで確信したことに、とどまっていなさい」と、パウロはテモテに命じるのです。そして、パウロは、テモテが幼い日から親しんできた聖書について記すのです。ここでの「聖書」は厳密に言えば、旧約聖書のことであります。聖書は、旧約聖書と新約聖書から成っていますが、この手紙が記され紀元65年頃には、まだ新約聖書はありませんでした。ですから、ここでの「聖書」とは、私たちが旧約聖書と呼んでいる書物のことであります。もちろん、ここでパウロが教えていることは、旧約聖書だけでなく新約聖書にも当てはまります。しかし、ここでの「聖書」は「旧約聖書」を指すということを覚えていただきたいと思います。
パウロは、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」と記しています。聖書は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を与えることができる書物であるのです。ここに、「聖書はどのような書物であるのか?」という問いへの聖書自身の答えがあります。聖書は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を与える書物である。つまり、「聖書は救済の書物である」ということです。聖書は単なる歴史書でも、また単なる文学作品でも、ましてや科学の教科書でもありません。聖書は、救いの書物であるのです。ここで、「キリスト・イエスへの信仰を通して」と言われていることは重要であります。私たちは、聖書を、キリスト・イエスへの信仰を通して読むとき、救いに導く知恵をいただくことができるのです。このことは、イエス・キリスト御自身が教えられたことでもあります。イエス・キリストの地上の生涯は四つの福音書に記されていますが、ヨハネによる福音書の第5章39節と40節で、イエス様はユダヤ人たちに次のように言われました。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
イエス様は、聖書を熱心に研究しているユダヤ人たちに対して、「聖書はわたしいついて証しをするものだ」と言われました。そして、永遠の命(救い)を得るためには、聖書が証しするイエス・キリストのもとに行かねばならないことを教えられたのです。先程、聖書は旧約聖書と新約聖書から成っていると申しましたが、旧約聖書は、来るべき救い主について証しする書物であり、新約聖書は来られた救い主について証しする書物であるのです。ですから、聖書の中心には、救い主であるイエス・キリストがおられるわけです。救い主であるイエス・キリストへの信仰を通して、聖書を読むとき、私たちは聖書から救いに導く知恵をいただくことができるのです。そして、そのように聖書を読んでいるのが、教会でささげる礼拝においてであるのです。礼拝において、牧師は聖書のお話をいたしますが、そのとき、牧師は、イエス・キリストへの信仰を通して聖書を読んでいるのです。ですから、聖書を初めて読む人でも、礼拝に続けて出席することによって、聖書をどのように読めばよいのかが段々と分かってくるのです。パウロは、テモテに、「あなたは、それをだれから学んだかを知っており」とも記しておりましたが、誰から学ぶかも、大切なことであります。本屋さんに行きますと、聖書について記している本が、たくさんありますけれども、どうぞ、礼拝に出席していただいて、牧師から聖書を学んでいただきたいと願います。
では今朝の御言葉に戻ります。
パウロは16節で次のように記しています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」。ここには、聖書が人間によって記された神の言葉であることが記されています(二ペトロ1:21参照)。聖書は人間によって記された書物でありますが、すべて神の霊の導きの下に記された書物であるのです。そのような意味で、聖書は「記された神の言葉」であるのです。ですから、聖書は、私たち人間が従うべき権威ある書なのです。また、聖書は救いの書物として、誤りのない、無謬の書物であるのです。まさに聖書は、私たちにとって「信仰と生活の規準である」のです(ウ告1:2参照)。ここで、「神の霊の導きの下に書かれ」と訳されている元の言葉は、直訳すると「神の息吹を受けた」となります。「聖書はすべて神の息吹によるものである」のです。けれども、神の息吹は、聖書が記されたときに、止まってしまったわけではありません。聖書が読まれ、聞かれるときに、神の息吹である聖霊は私たちの心に働き、神の言葉を神の言葉として、信仰によって受け入れさせてくださるのです。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれた神の言葉であります。その聖書が読まれ、聞かれるときに、神の霊である聖霊が働いてくださり、私たちをイエス・キリストにあって、新しく造りかえてくださるのです。ですから、私たちは「主よ、お話しください。僕は聞いております」という祈りをもって聖書を読み、また聞くべきであるのです。そして、そのような祈りをもって聖書が読まれ、聞かれるのが、キリスト教会において行われる礼拝であるのです。
パウロは、偽教師たちが、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていく中で、テモテに対して、聖書の教えにとどまっていなさい、と命じました。それは聖書が、神の霊の導きの下に書かれた書物であり、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益であるからです。教会の礼拝では、必ず聖書が読まれ、聖書のお話が語られます。教会では、それを「説教」と呼びますが、説教そのものが、私たちに対する生ける神からの語りかけであるのです。ですから、礼拝に出席する者たちは、聖書と説教を通して、教えを受け、戒められ、誤りを正され、義に導かれるのです。そのようにして、私たちは、神に仕える者として、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
聖書は、すべての人が罪人であり、神からの救いを必要としていることを教えています。そして、その神の救いがイエス・キリストを信じる信仰によって与えられることを教えています。今朝の礼拝の案内のチラシに、一つの聖書の御言葉を記しておきました。それは、聖書の中の聖書とも呼ばれる、ヨハネによる福音書の第3章16節の御言葉であります。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神様は、あなたを愛して、独り子イエス・キリストを十字架の死に引き渡されました。また、イエス・キリストは、あなたを愛して、十字架の上で命をささげてくださいました。そのことを信じるならば、あなたは救われます。そのように、神様は、私たちに今も語りかけておられるのです。
「聖書は、神様からのラブレターである」と言われるように、聖書は、神様からの全人類に対する愛の手紙であります。そして、その神の愛は、口先だけではない、イエス・キリストの十字架によって示された愛であるのです。神の言葉を神の言葉として聞くということは、愛の手紙を愛の手紙として読むということでもあるのです。そして、ここに、聖書が教会という共同体に与えられている理由があるのです。私たちは聖書を共に学ぶことによって、神を愛すること、隣人を愛することを学んでいるのです。そのような教会として、私たちはこれからも聖書を学んでいきたいと願います。また、一人でも多くの方に、聖書に親しんでいただきたいと願うのであります。