自分を捨てて従う 2015年1月11日(日曜 朝の礼拝)

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自分を捨てて従う

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章24節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」マタイによる福音書 16章24節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝からまた、マタイによる福音書をご一緒に学んでいきたいと思います。先程は、21節から28節までを読んでいただきましたが、今朝は、24節から28節までを中心にしてお話しいたします。

 24節をお読みします。

 それから弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 「それから」とありますが、イエス様はこの御言葉をどのような文脈で言われたのかを先ず確認したいと思います。

 今朝の御言葉の前の13節から20節には、シモン・ペトロが弟子たちを代表して、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしたことが記されておりました。イエス様はそのペトロの信仰告白を大変喜ばれました。そして、こう言われたのです。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。このようにイエス様は、御自分に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロを土台として、御自分の教会を建てると言われたのでありました。にもかかわらず、イエス様は、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられたのです。それは、弟子たちが思い描くメシア像とメシアであるイエス様の歩みがまったく違っていたからです。弟子たちが思い描くメシアの姿、それはエルサレムで王として君臨し、イスラエルを異邦人であるローマ帝国の支配から解放する政治的なメシアでありました。しかし、イエス様は、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明け始められたのです。イエス様は御自分に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した弟子たちに、御自分がどのようなメシアであるのかを示されるのです。これを聞いて、ペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。信仰告白の時と同様、ここでもペトロは弟子たちを代表して振る舞っております。ペトロだけではなく、すべての弟子たちが、イエス様の御言葉を聞いて、そんなことがあってはならないと考えたのです。このペトロの言葉については、以前もお話ししましたが、新改訳聖書は、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と翻訳しています。「とんでもないことです」と訳されている言葉は、元の言葉ですと「あなたに恵みがあるように」という言葉であるのです。ペトロは、「主よ、あなたは神様の恵みに溢れたお方ですから、そのようなことは決して起こりません」と言ったわけですね。この発言は、弟子たちの思い描くメシア像から出ているわけです。しかし、イエス様は振り向いてペトロにこう言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。イエス様は、ペトロを「サタン」と呼ばれました。それは、ペトロの言葉に、荒れ野で受けたサタンの誘惑と同じ響きを聴き取られたからです。すなわち、イエス様はペトロの言葉に、神様の御言葉に従わずに栄光へと至る誘惑を聴き取られたのです。そして、それはイエス様にとって大きな誘惑であったのです。イエス様は、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちからなる最高法院から多くの苦しみを受けて、殺され、三日目に復活させられることになっていると言われました。それが神様によって定められたメシアである自分の定めだと言われたのです。しかし、イエス様の心の内にも、できればそのようなことは避けたいという思いがあったのです。そのことがあらわとなったのが、イエス様が十字架に磔にされる日の前夜になされたゲツセマネでの祈りでありました。そこでイエス様は悲しみもだえ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と三度祈られたのです。イエス様の十字架の死、それは全人類の罪を贖う身代わりの死でありました。罪のないお方、何一つ罪を犯したことのないお方が、すべての人の罪を担って、苦しく、恥ずかしい、呪いの死を死なねばならない。そのことをイエス様もできれば避けたいと願ったのです。しかし、イエス様はそのような自分の思いを神様に押しつけることはしませんでした。イエス様は、「父よ、できることなら、この杯を過ぎ去らせてください」と祈りながらも、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られたのです。自分の思いよりも父なる神様の思い、父なる神様の御意志を第一とされたのであります。他方、ペトロは、「神のことを思わず、人間のことを思っている」わけであります。神様の御意志よりも自分の意志を第一としているわけです。そのようなペトロに、イエス様は、「引き下がれ」「わたしの後ろに行け」と言われたのです。イエス様は御自分の前に立って、あれこれと指図するペトロに、「弟子としての正しい位置に戻れ」と言われたのであります。

 前置きが長くなりましたが、それから、イエス様は弟子たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのです。イエス様は御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明け始められましたが、そのイエス様の後について来たいと願う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従うことが求められるのです。ここでは、3つのことが命令形で記されています。自分を捨てること、自分の十字架を背負うこと、イエス様に従うこと、この三つのことが命令形で記されているのです。イエス様は今朝、私たちに、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われるのであります。

 では、自分を捨てるとはどいうことでしょうか?それは、自分のことを思わず、神のことを思うということであります。先程も申しましたように、イエス様は自分の意志よりも神様の御意志を第一として歩まれたのです。私たち人間は、自己中心的であり、自分を第一として歩んでいます。しかし、それではイエス様の後について行くことはできないのです。つまり、イエス様の弟子になることはできないのです。イエス様の弟子である私たちには、イエス様と同じように、自分を捨てること、自分の意志よりも神様の御意志を第一とすることが求められているのです。それは言い換えれば、主の祈りに生きるということであります。山上の説教の中で、イエス様は弟子たちにどのように祈るべきかを教えられましたが、そこでまず祈るべきか父なる神のことでありました。イエス様は、私たちのための祈りに先立って、父なる神のために祈ること、すなわち、御名が崇められること、御国が来ること、御心が行われることを祈るように教えられたのです。自分を捨てるとは、主の祈りを自分の祈りとすることに他ならないのであります。

 次に、「自分の十字架を背負うこと」についてでありますが、ここで「背負う」と訳されている言葉は「取る」という言葉であります。自分の十字架を取る、その決断が求められているのです。そして、その決断ができるのは、自分を捨てた者だけであるのです。自分を捨てた次はどうするのか?自分の十字架を取れとイエス様は言われるのです。では、自分の十字架とは何でしょうか?それは神様から定められた歩み、ことに神様の御心を行うために受ける苦しみであります。イエス様は、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され」ることになっていると言われましたけれども、それは具体的には、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれ、十字架に磔にされることによって実現いたしました。イエス様は文字通り、十字架の横木を背負って歩まれたのです。ですから、十字架は、イエス様に対する神様の定め、神様の御心を行うための苦しみの象徴であると言えるのです。自分の十字架を背負うとは、自分に対する神様の御心に従うこと、それに伴う苦しみを引き受けることであるのです。それは言い換えれば、神様からの召しに生きるということであります。自分自身を、また自分の生活を神様の御計画の中で受けとめて、神様の御心を行うこと、たとえ苦しくとも、神様の御心を行うために耐え忍ぶこと、それが自分の十字架を背負うということであります。ここで、「自分の十字架」と言われていますように、十字架に象徴される神様の召し、またそれに伴う苦しみは、人それぞれ違うと思います。他の人が、これがあなたの十字架ですよ、と言うことはできないのではないかと思うのです。それは、その人が神様との交わりの中で、すなわち祈りの中で教えられるものではないかと思うのです。

 イエス様の後について行きたい者、すなわち、イエス様の弟子となりたい者は、自分を捨て、自分の十字架を取る決断をし、イエス様に従い続けることが求められています。しかし、これは厳しい要求ではないでしょうか?自分には厳しすぎてついて行けませんと思われる方もおられるかもしれません。しかし、そもそも、なぜ、イエス様は弟子たちに、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのでしょうか?その理由が25節から28節に記されています。

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 なぜ、イエス様は弟子たちに、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われるのか?それは、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」からです。自分の命を救いたいという思いは、だれでも持っているのではないかと思います。誰もが自分の命を救いたい、充実した人生を送りたいと思って、それぞれに人生設計を立て、健康に気をつけて生きているのではないかと思います。けれども、それでは命を失ってしまうとイエス様は言われるのです。「そうではなくて、わたしのために命を失う者こそ、命を得るのだ」とイエス様は言われるのです。このイエス様の御言葉は、一見矛盾しているようにも思えますが、それはここで言われている命が、地上の命と永遠の命の二つの意味を持っているからです。すなわち、イエス様は、「自分の地上の命を救いたいと思う者は、永遠の命を失うが、わたしのために地上の命を失う者は、永遠の命を得る」と言われているのであります。これは神様から復活させられることになっているイエス様にふさわしい御言葉であります。イエス様が弟子たちに打ち明け始められたのは、最高法院によって多くの苦しみを受け、殺されるということだけではありませんでした。イエス様は、御自分が神様によって三日目に復活させられることになっている、と弟子たちに打ち明け始められたのです。十字架の後には復活があるのです。それゆえ、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従うことこそ、永遠の命に至る道であるのです。イエス様のために命を失うこと、イエス様のために地上の命を用いることが、永遠の命を得る道であるのです。そして、この命こそ、何にも代えがたい宝であるのです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とありますように、命こそ、私たちに与えられている最高の賜物であるのです。ここでも、「命」は地上の命と永遠の命の二つの意味を持っています。私たちは全世界を手に入れるのにもまして、命を、イエス・キリストの復活によって表された永遠の命を手に入れるべきであるのです。イエス様は、「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と言われましたが、これは詩編49編を思い起こさせる御言葉であります。詩編の49編8節、9節にこう記されています。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに払い終えることはない」。こう記した後で、詩人は16節でこう記すのです。「しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる」。この御言葉を実現してくださったお方こそ、イエス・キリストでありました。後にイエス様は、御自分が、「多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」と言われますが、神の子であるイエス様は御自分の命をささげることによって、私たちの命を贖ってくださるお方であるのです。そのようにして、弟子である私たちに陰府の門に打ち勝つ命を与えてくださるのです。その永遠の命が完全な仕方で与えられるのが、イエス様が父の栄光に輝いて天使たちと共に来られるときであるのです。そのとき、イエス様は私たちのそれぞれの行いに応じて報いてくださるのです。そのとき、私たちは朽ちることのない栄光の体でよみがえり、罪から全く解放されて、父なる神様とイエス・キリストとの完全な交わりに生きる者となるのです。

 自分を捨て、自分の十字架を背負って、父なる神に従い抜かれたイエス様こそ、私たちの命を贖ってくださったお方であります。また、復活して、天に上げられ、やがて来られるイエス様こそ、私たちに永遠の命という報いを与えてくださるお方であるのです。それゆえ、イエス様は、私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われるのであります。この弟子としての道を、私たちは生涯、歩み続けていきたいと願います。

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