独りよがりの信仰 2021年4月07日(水曜 聖書と祈りの会)
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独りよがりの信仰
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記上 14章24節~46節
聖書の言葉
14:24 この日、イスラエルの兵士は飢えに苦しんでいた。サウルが、「日の落ちる前、わたしが敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」と言って、兵に誓わせていたので、だれも食べ物を口にすることができなかった。
14:25 この地方一帯では、森に入りさえすれば、地面に蜜があった。
14:26 兵士が森に入ると蜜が滴っていたが、それに手をつけ、口に運ぼうとする者は一人もなかった。兵士は誓いを恐れていた。
14:27 だが、ヨナタンは彼の父が兵士に誓わせたことを聞いていなかったので、手に持った杖の先端を伸ばして蜂の巣の蜜に浸し、それを手につけ口に入れた。すると、彼の目は輝いた。
14:28 兵士の一人がそれを見て言った。「父上は厳しい誓いを兵士に課して、『今日、食べ物を口にする者は呪われよ』と言われました。それで兵士は疲れています。」
14:29 ヨナタンは言った。「わたしの父はこの地に煩いをもたらされた。見るがいい。この蜜をほんの少し味わっただけでわたしの目は輝いている。
14:30 今日兵士が、敵から取った戦利品を自由に食べていたなら、ペリシテ軍の損害は更に大きかっただろうに。」
14:31 この日イスラエル軍は、ペリシテ軍をミクマスからアヤロンに至るまで追撃したので、兵士は非常に疲れていた。
14:32 兵士は戦利品に飛びかかり、羊、牛、子牛を捕らえて地面で屠り、血を含んだまま食べた。
14:33 サウルに、「兵士は今、血を含んだまま食べて、主に罪を犯しています」と告げる者があったので、彼は言った。「お前たちは裏切った。今日中に大きな石を、わたしのもとに転がして来なさい。」
14:34 サウルは言い足した。「兵士の間に散って行き、彼らに伝えよ。『おのおの自分の子牛でも小羊でもわたしのもとに引いて来て、ここで屠って食べよ。血を含んだまま食べて主に罪を犯してはならない。』」兵士は皆、その夜、おのおの自分の子牛を引いて来て、そこで屠ることになった。
14:35 こうして、サウルは主の祭壇を築いた。これは彼が主のために築いた最初の祭壇である。
14:36 さて、サウルは言った。「夜の間もペリシテ軍を追って下り、明け方まで彼らから奪い取ろう。一人も、生き残らせるな。」彼らは答えた。「あなたの目に良いと映ることは何でもなさってください。」だが、祭司が「神の御前に出ましょう」と勧めたので、
14:37 サウルは神に託宣を求めた。「ペリシテ軍を追って下るべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるでしょうか。」しかし、この日、神はサウルに答えられなかった。
14:38 サウルは言った。「兵士の長は皆、ここに近寄れ。今日、この罪は何によって引き起こされたのか、調べてはっきりさせよ。
14:39 イスラエルを救われる主は生きておられる。この罪を引き起こした者は、たとえわたしの息子ヨナタンであろうとも、死ななければならない。」兵士はだれも答えようとしなかった。
14:40 サウルはイスラエルの全軍に言った。「お前たちはそちらにいなさい。わたしと息子ヨナタンとはこちらにいよう。」民はサウルに答えた。「あなたの目に良いと映ることをなさってください。」
14:41 サウルはイスラエルの神、主に願った。「くじによってお示しください。」くじはヨナタンとサウルに当たり、兵士は免れた。
14:42 サウルは言った。「わたしなのか、息子ヨナタンなのか、くじをひきなさい。」くじはヨナタンに当たった。
14:43 サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、言いなさい。」ヨナタンは言った。「確かに、手に持った杖の先で蜜を少しばかり味わいました。わたしは死なねばなりません。」
14:44 「ヨナタン、お前は死なねばならない。そうでなければ、神が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
14:45 兵士はサウルに言った。「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ぬべきだというのですか。とんでもありません。今日、神があの方と共にいてくださったからこそ、この働きができたのです。神は生きておられます。あの方の髪の毛一本も決して地に落としてはなりません。」こうして兵士はヨナタンを救い、彼は死を免れた。
14:46 サウルはペリシテ軍をそれ以上追わず、引き揚げた。ペリシテ軍も自分たちの所へ戻って行った。サムエル記上 14章24節~46節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記上』の第14章24節から46節より、「独りよがりの信仰」という題でお話しします。
前回、私たちは、主がイスラエルをペリシテ軍から救われたことを学びました。主は、600人のイスラエル兵を用いて、海辺の砂のように多かったペリシテ軍に勝利されたのです。そのようにして、主は勝利を得るのに、兵の数の多少は問題ではないことを証明されたのです。今朝の御言葉はその続きであります。
ペリシテ軍を追撃した、この日、イスラエルの兵は飢えに苦しんでいました。なぜなら、王であるサウルが、「日の落ちる前、わたしが敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」と言って、兵に誓わせていたからです。サウルは物断ちの誓いを兵士に課して、主に勝利を願い求めたのです。これは、サウルの敬虔から出た行為でありました。サウルは、海辺の砂のように多いペリシテ軍に勝利するために、兵士たちに断食することを誓わせて、主に勝利を請い求めたのです。そして、この誓いのために、兵士たちはだれも食べ物を口にすることができなかったのです。この地方一帯では、森に入りさえすれば、地面に蜜があったにも関わらず、それに手をつけ、口に運ぼうとする者は一人もいませんでした。それほどまでに、兵士たちは誓いを恐れていたのです。しかし、ヨナタンは父サウルが兵士に誓わせたことを聞いていなかったので、手に持った杖の先端を伸ばして蜂の巣の蜜に浸し、それを手につけ口に入れました。すると、ヨナタンの目は輝きました。ヨナタンは元気を回復したのです。兵士の一人がそれを見てこう言いました。「父上は厳しい誓いを兵士に課して、『今日、食べ物を口にする者は呪われよ』と言われました。それで兵士は疲れています」。この兵士の言葉を聞いて、ヨナタンはこう言うのです。「わたしの父はこの地に煩いをもたらされた。見るがいい。この蜜をほんの少し味わっただけでわたしの目は輝いている。今日兵士が、敵から取った戦利品を自由に食べていたなら、ペリシテ軍の損害は更に大きかっただろうに」。ヨナタンは、父であり王であるサウルが課した誓いを、「この地に煩いをもたらす誓い」と言います。「そのような誓いがなければ、戦利品を自由に食べて、元気を回復し、ペリシテ軍にもっと大きな損害を与えることができたのに」と言うのです。サウルは兵士たちに物断ちの誓いを課すことによって、主から勝利を得ようとしました。しかし、ヨナタンによれば、それはイスラエルの戦力を損なうものであったのです。
31節に、「この日イスラエル軍は、ペリシテ軍をミクマスからアヤロンに至るまで追撃したので、兵士は非常に疲れていた」とあります。「ミクマス」とは、ペリシテ軍が陣を敷いていた場所です。また、「アヤロン」とは、ミクマスから西に25キロメートルの地点にあるイスラエル領とペリシテ領の平野が接する場所です。この日、イスラエル軍は、自分たちの領土に侵入してきたペリシテ軍を彼らの領土へと追い返したのです。非常に疲れていた兵士たちは、戦利品に飛びかかり、羊、牛、子牛を捕らえて地面で屠り、血を含んだまま食べました。おそらく、兵士たちは、日が落ちて、誓いが解かれるのを待っていたのでしょう。誓いを恐れて食べ物を口にしなかった兵士たちは、誓いが解かれると、戦利品に飛びかかったのです。サウルに、「兵士は今、血を含んだまま食べて、主に罪を犯しています」と告げる者がありました。『創世記』の第9章4節に、「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」とあるように、血を含んだ肉を食べることは、主に対して罪を犯すことであるのです(レビ19:26も参照)。それで、サウルは、大きな石を、自分のもとに転がして来るように命じるのです。それは、地面の上で動物を屠らないで、大きな石の上で動物を屠るためでありました。地面の上で動物を屠ると血抜きがうまくできず、血を含んだ肉で食べることになります。しかし、大きな石の上で屠れば、血抜きがうまくでき、血を含まない肉を食べることができるのです。そのように、サウルは、兵士が主に対して罪を犯さないようにするのです。サウルは、兵士たちにこう伝えるように命じます。「おのおの自分の子牛でも小羊でもわたしのもとに引いて来て、ここで屠って食べよ。血を含んだまま食べて主に罪を犯してはならない」。このサウルの言葉に従って、兵士たちは皆、その夜、おのおの自分の子牛を引いて来て、そこで屠ったのです。35節に、「こうして、サウルは主の祭壇を築いた。これは彼が主のために築いた最初の祭壇である」とあります。動物を屠るための大きな石は、主の祭壇でもありました。そのことは、動物が主に対するいけにえとして屠られ、献げられたことを意味します。そのようにして、サウルは、自分たちに勝利を与えてくださった主に感謝をささげたのです。サウルは、主が自分たちの物断ちの誓いに答えて、勝利を与えてくださったことに感謝して、祭壇を築き、いけにえをささげたのです。
食事を終えたサウルは、兵士たちにこう言いました。「夜の間もペリシテ軍を追って下り、明け方まで彼らから奪い取ろう。一人も生き残らせるな」。兵士たちは、「あなたの目に良いと映ることは何でもなさってください」と答えました。しかし、祭司が「神の御前に出ましょう」と勧めたので、サウルは神さまに託宣を求めました。「ペリシテ軍を追って下るべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるでしょうか」と神さまに伺いを立てたのです。しかし、この日、神さまは、サウルに答えられませんでした。サウルは、そのことを誰かの罪によると考えました。それで、サウルはこう言うのです。「兵士の長は皆、ここに近寄れ。今日、この罪は何によって引き起こされたのか、調べてはっきりさせよ。イスラエルを救われる主は生きておられる。この罪を引き起こした者は、たとえわたしの息子ヨナタンであろうとも、死ななければならない」。兵士は誰も答えようとはしませんでした。それで、サウルはくじによって、罪を犯したものを捜し出そうとするのです。くじは、ヨナタンとサウルに当たりました。そして、ヨナタンに当たったのです。サウルはヨナタンにこう言います。「何をしたのか、言いなさい」。ヨナタンはこう言いました。「確かに、手に持った杖の先で蜜を少しばかり味わいました。わたしは死なねばなりません」。ヨナタンは兵士たちの前では、サウルの誓いを地に煩いをもたらす誓いと言いました。しかし、サウルの前では、誓いを破ったことを認めて、「わたしは死なねばなりません」と言うのです。それほどまでに、イスラエルの社会において、主に対する誓いは重んじられていたのです(士師11章参照)。サウルは、ヨナタンが誓いを破ったことを知って、心を引き裂かれる思いであったでしょう。しかし、主に誓ったことであるがゆえに、サウルはこう言うのです。「ヨナタン、お前は死なねばならない。そうでなければ、神が幾重にもわたしを罰してくださるように」。このやり取りを聞いて、私たちは、どこか変だと思います。イスラエルがペリシテ軍に敗北して、その原因が、ヨナタンが誓いを破ったことにあるのでしたら、話は分かります。『ヨシュア記』の第7章に記されている「アカンの罪」はそのようなものでした。しかし、このときは違います。イスラエルはペリシテ軍に勝利したのです。しかも、その勝利は、ヨナタンと従卒の奇襲攻撃によってもたらされた勝利でありました。それで兵士たちは、サウルにこう言うのです。「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ぬべきだというのですか。とんでもないことです。今日、神があの方と共にいてくださったからこそ、この働きができたのです。神は生きておられます。あの方の髪の毛一本も決して地に落としてはなりません」。ここで明かとされたことは、ペリシテ軍に対する勝利をもたらしたのは、サウルの物断ちの誓いではなくて、ヨナタンと従卒の奇襲攻撃によるということです。サウルは、物断ちの誓いによって、主が勝利を与えてくださったと信じて、祭壇を築き、いけにえをささげました。しかし、この日、主が共にいてくださったのは、ヨナタンであったのです。これまで兵士たちは、王であるサウルに、「あなたの目に良いと映ることは何でもなさってください」と言って従って来ました。しかし、イスラエルに大勝利をもたらしたヨナタンの命を奪うことには従いませんでした。兵士たちの目に、ヨナタンの命を奪うことは悪と映ったからです。こうして兵士たちはヨナタンを救い、ヨナタンは死を免れたのです。
今朝の御言葉で、サウルは敬虔な人物として振る舞っています。サウルは、兵士たちに物断ちの誓いを課すことによって、主から勝利を得ようとしました。また、兵士たちが血を含んだ肉を食べていると聞けば、大きな石のうえで、血抜きをして食べるようにさせました。サウルは祭壇を築き、勝利を賜った主に感謝のいけにえをささげました。さらに、罪を犯した者は、「息子のヨナタンであっても死なねばならない」と息まくのです。このようなサウルは、神さまを重んじる敬虔な人物のように見えるのです。しかし、何かがおかしいのです。サウルには、ヨナタンのような神さまに対する人格的な信頼がないのです。そのことは、サムエルによって既に指摘されていたことでありました。サムエルは、サウルに、こう言っていました。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守られなかったからだ」(サムエル上13:13、14)。サウルは、サムエルが来るのを待って、サムエルの口から、自分が何をなすべきであるのかを聞くべきでありました。しかし、サウルはサムエルを通して語られる主の言葉を待ちきれずに、自分勝手に行動してしまうのです。今朝の御言葉も同じです。サウルは、自分勝手に、兵士たちに物断ちの誓いを課して、自分勝手に、イスラエルの勝利を物断ちの誓いによるものと理解し、いけにえをささげるのです。さらには、自分勝手に、イスラエルに勝利をもたらしたヨナタンを殺そうとするのです。このようなサウルの信仰は、敬虔であるように見えても、実は、独りよがりの信仰であるのです。主の御言葉に自分自身を従わせないならば、私たちの信仰もサウルのような独りよがりの信仰となってしまうのです。