七の七十倍まで赦しなさい 2015年3月15日(日曜 朝の礼拝)
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七の七十倍まで赦しなさい
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 18章21節~35節
聖書の言葉
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18:32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」マタイによる福音書 18章21節~35節
メッセージ
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マタイによる福音書の18章は、教会がどのような交わりであるかを教える大切な個所であります。前回、私たちは自分に対して兄弟姉妹が罪を犯したとき、どのように対処すべきかを学びました。イエス様は先ず二人だけのところで忠告するようにと言われます。自分に対して罪を犯した兄弟姉妹と二人だけで、「あなたはわたしに対してこれこれの罪を犯した。その罪によって、兄弟姉妹の交わりを続けることが難しくなっているので、どうか、その罪を認め、謝ってほしい」と忠告するのです。そして、自分に対して罪を犯した兄弟姉妹が罪を認め、赦しを乞うならば、「兄弟姉妹を得る」ことになるわけです。兄弟姉妹の罪を責めるのは、その人との兄弟姉妹としての交わりを回復するためであるのです。「兄弟姉妹を得ること」。それこそ、兄弟姉妹の罪を責める目的であるのです。これと同じことが、一人か二人を一緒に連れていく場においても、また、教会においても行われるわけですが、ここでも、兄弟姉妹の罪を責めるのは、その人に自分の罪を認めさせ、悔い改めさせて、教会の交わりから失われてしまうことがないようにするためであるのです。このような一連の手続きを「教会訓練」と言いますが、教会訓練は、「イエス様を信じる者が一人も滅びることがないように」という私たちの天の父の御心を実現するためのものであるのです。教会訓練は、罪を犯した者を教会の交わりから排除することを第一の目的とするものではありません。教会訓練の目的は、罪を犯した者を悔い改めへと導き、教会の交わりへと回復することにあるのです。それゆえ、イエス様は、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われたのです。当時の人々は、異邦人や徴税人を、神の民イスラエルの外にいる人たちと考えておりました。ですから、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とは、「その人を教会の交わりの外にいる人と同様に見なしなさい」ということであるのです。しかしながら、私たちは、イエス様が異邦人や徴税人を救われたお方であることを知っております。つまり、教会の言うことも聞き入れない人にも、自分の罪を認め、悔い改めて、教会の交わりに回復される可能性は残されているのです。イエス様は、「その人を悪魔や悪霊と同様に見なしなさい」とは言われませんでした。「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われたのです。そして、このことは、その人が悔い改めるならば、罪を赦され、主にある兄弟姉妹としての交わりに回復されることを教えているのです。「教会の言うことを聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。私たちは、このイエス様の御言葉からも、教会訓練の目的が、罪を犯した兄弟姉妹を排除することにあるのではなく、その人を悔い改めへと導き、兄弟姉妹を得ることであると教えられるのです。
さて、今朝の御言葉で、イエス様は赦しについて教えておりますが、教会訓練の教えに続けて、赦しについて教えられていることは意味深いことであります。教会訓練では、罪を犯した兄弟姉妹に対して忠告がなされるわけですが、それは罪を赦すためになされるわけです。罪を認めさせて、罰を与えようという目的ではなく、赦すために、兄弟姉妹の罪を責めるのです。ですから、自分に対して罪を犯した兄弟姉妹を忠告する者に求められるのは、何よりも「赦しの心」であります。そのことを念頭に置いて、今朝の御言葉をご一緒に学びたいと願います。
21節、22節をお読みします。
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。」
このペトロの言葉は、15節のイエス様の御言葉、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、言って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」という御言葉を受けてのものであります。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」とペトロは言っておりますが、七回は寛容に満ちた回数であります。当時の律法の教師たちは、「三度までは赦すべきである」と教えていたからです。日本のことわざにも、「仏の顔も三度」とありますように、三度までは赦すべきである教えられていたのです。しかし、ペトロは、イエス様ならさらなる寛容を求められるに違いないと考えて、先回りして、「七回までですか」と尋ねたのでありました。しかし、イエス様は、こう言われるのです。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。これは無制限に赦しなさいということであります。490回までは赦して、491回目からは赦さなくてよいということではないのです。言い換えれば、「数えることを止めなさい」ということであります。数えている間は、覚えているわけですから、赦してはいないわけですね。しかし、イエス様は、「七の七十倍まで赦しなさい」という御言葉によって、兄弟姉妹の罪を数えることをやめて、無制限に赦すことを命じられるのです。そして、このことを生き生きと教えるために、イエス様は一つのたとえ話をなされたのです。
23節から34節までをお読みします。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」
ここでの「王」また「主君」は、イエス様の父なる神様のことであります。また、一万タラントンの借金をしている家来とは、私たち一人一人のことであります。一万タラントンは、現代で言えば何十億という金額でありますが、それほど莫大な借金を私たちは神様に対して負っているのです。もちろん、ここでの借金は罪のことであります。私たちは、思いと言葉と行いにおいて日々罪を犯しておりますが、それは何十億という借金にたとえられるほど莫大なものであるのです。しかし、王であるイエス様の天の父なる神は、その莫大な借金を帳消しにしてくださいました。罪を赦されるということは、莫大な借金を帳消しにしてくださったことに譬えられるのです。それは、ひとえに王の憐れみの心によるものでありました。27節に、「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」とありますが、ここで「憐れに思って」と訳されている言葉は、「はらわたがちぎれる想いがし」とも訳すことができます(岩波訳)。主君は、ひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願う家来を見て、はらわたがちぎれる想いにかられ、彼を自由にし、すべての借金を帳消しにしてくださったのです。これは驚くべき恵みであります。主君は、返済期間を延ばすのではなく、借金そのものを帳消しにしてくださったのです。
このように、家来は主君の恵みによって、何十億もの借金を返さなくてよくなりました。その家来が主君の家から外に出ると、自分に百デナリオンの借金をしている仲間の僕に出会います。「百デナリオン」は、現代のお金にすれば100万円ぐらいで、主君から帳消しにしてもらった何十億円に比べれば、ほんのわずかな金額です。さて、この家来はどうしたでしょうか?この家来は、仲間の僕の首を絞め、「借金をかえせ」と言ったのです。仲間の僕はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼みました。この仲間の僕の姿は、先程の家来そっくりなわけですが、家来は承知しませんでした。その仲間の僕を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れたのです。他の仲間の僕たちは、このことに非常に心を痛め、事の次第を残らず主君に告げました。そこで、主君は、その家来を再び呼びつけてこう言ったのです。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。そして、主君は家来が仲間の僕にしたように、借金をすっかり返済するまで、家来を牢役人に引き渡したのでありました。
私たちは、イエス様のたとえ話を聞いて、この家来が悪い家来であるとすぐ分かると思います。主君の言葉、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」という言葉を聞いて、「そうだ、憐れんでやるべきだった」と思います。しかし、実際に、自分に対して罪を犯した兄弟姉妹を目の当たりにすると、そのことを忘れてしまうのではないでしょうか?そのことを忘れて、赦すことができないのではないでしょうか?また、赦したとしても、覚えていて、その回数を数えているようなところがあるのではないでしょうか?ペトロは、まさにそうであったわけです。なぜ、私たちは兄弟姉妹の罪を心から赦すことができないのでしょうか?それは、私たちがイエス・キリストにあって、すべての罪を赦された僕仲間であることを忘れてしまうからです。私たちは一万タラントンの借金を帳消しにしていただいた僕仲間であるのです。前回の説教で、「教会は罪赦された罪人の集まりである」と申しましたが、今朝の御言葉で言えば、「教会は主君から一万タラントンの借金を帳消しにしていただいた僕仲間の集まりである」のです。しかし、そのことを忘れるとき、私たちは仲間の僕のささいな罪を赦すことができなくなるのです。イエス・キリストにおいて注がれている神様の憐れみに生きることができなくなるのです。そして、そのことは私たち自身に神様の裁きをもたらすことになるのです。35節のイエス様の御言葉、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」という御言葉はそのことを私たちに警告しているのです。神様から憐れみを受けたにもかかわらず、兄弟姉妹に憐れみを示さない人には、憐れみのない裁きがくださることになるのです(ヤコブ2:13参照)。そのようなことがないように、私たちは神様がキリストによって赦してくださったように、互いに赦し合う者たちとなりたいと願います(エフェソ4:32参照)。キリストの教会とはどのような交わりか?それは神様によって赦された者たちとして、互いに赦し合う交わりであるのです(コロサイ3:13参照)。