兄弟を得るために 2015年3月08日(日曜 朝の礼拝)
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兄弟を得るために
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 18章15節~20節
聖書の言葉
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイによる福音書 18章15節~20節
メッセージ
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今朝は、マタイによる福音書18章15節から20節までを読んでいただきましたが、20節は、私たちの教会の年間聖句であります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。教会とは、イエス・キリストの名によって二人、または三人が集まるところであるのです。そして、その集まりの中に、目には見えませんけれども、聖霊においてイエス・キリストは共にいてくださるのです。年間テーマを、「キリストの名によって集い、キリストと共に歩む」としましたけれども、キリストの名によって集っている私たちは、まさしく教会であり、その私たちのただ中に、キリストは今朝も御言葉と聖霊においていてくださるのであります。このことを今朝は最初に確認をして、御言葉に聞きたいと願います。
これまでも申してきましたように、マタイによる福音書18章は、キリストの教会がどのような交わりであるかが教えられている大切な個所であります。18章は、「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」という弟子たちの質問を皮切りに記されておりますが、ここでの天の国は二重の意味をもっています。一つは、文字通りの天の国です。天上において神様の御心が完全に行われている国のことであります。天の国とは、神の国でありまして、神の国とは神の王的支配が及ぶ領域をいいます。天上では神様の王的御支配が完全に実現しているのです。そして、もう一つは、その天上の御支配の地上的現れである教会のことであります。教会と訳されるエクレーシアという言葉は、もともとは「呼び出された者の集い」を意味します。イエス・キリストによって呼び出された者の集い、それがキリストの教会であるのです。そして、キリストの教会こそ、神の国の地上的現れの中心であると言えるのです。私は、教会は神の国である、教会イコール神の国と言うつもりはありません。なぜなら、地上の教会には罪や弱さがあるからです。ある人は、教会とは罪赦された罪人の集まりであると申しましたが、そのとおりであります。ですから、私たちは礼拝の始めに、罪を告白し、罪の赦しをいただいて、このように神様を礼拝しているのです。天上の神の国は、神様の御心が行われる罪のない世界であります。しかし、天上の神の国の地上的現れである教会には依然として罪があるのです。イエス・キリストにあって、神様の御前にすべての罪が赦されておりますが、依然として私たちには罪があるのです。まさしく、私たちは罪赦された罪人の集まりなのであります。そして、その罪が、実は私たちを教会の交わりから迷い出させてしまい、私たちを滅ぼしてしまうのです。イエス様は、今朝の御言葉の直前の14節で、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と言われました。なぜ、小さい者は教会の交わりから迷い出て滅んでしまうのでしょうか?それは、小さい者にも、また教会の交わりにも依然として罪があるからなのです。
それゆえ、イエス様は15節から17節でこう言われるのです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
ここには、兄弟が自分に対して罪を犯した場合、どのように対処すればよいかが教えられております。イエス様は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と言われましたが、このイエス様の御言葉の背景には旧約聖書のレビ記の掟があります。レビ記の19章17節、18節にこう記されています。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」。兄弟が自分に対して罪を犯したとき、私たちの心にはその兄弟に対する憎しみがわき起こります。しかし、神様は、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい」と言われるのです。そして、イエス様も、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と言うのであります。「あなたは、私に対して、これこれの罪を犯した。このままでは兄弟姉妹としての交わりを続けて行くのが難しいので、そのことを謝ってほしい」と、相手の罪を責めるのです。そして、その兄弟姉妹が、自分の罪を認めて、悔い改め、赦しをこうならば、あなたは兄弟を得たことになるのであります。ここで大切なことは、自分に対して罪を犯した兄弟を憎んで、あるいは怒りをもって、忠告してはならないということです。自分に対して罪を犯した兄弟姉妹を悔い改めへと導き、兄弟姉妹の交わりを回復するために忠告するということであります。それゆえ、先ずは、二人だけで、話し合うことが求められているのです。
忠告を聞き入れた場合は、兄弟姉妹を得ることになるわけですが、聞き入れない場合は、兄弟姉妹としての交わりは途絶えたままであります。その兄弟姉妹の交わりを回復するために、イエス様は、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と言われます。旧約聖書の申命記19章15節に、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人によって、その事は立証されねばならない」とありますが、その掟に基づいて、イエス様は、他に一人か二人を連れて行くよう言われるのです。ただし、ここでの証人は兄弟姉妹の罪に対する証人というよりも、二人の話し合いの証人ということであるようです。ここでも、目標とされているのは、「兄弟を得る」ということです。ですから、他に一人か二人を連れて行くのは、罪を犯した兄弟姉妹にそのことを認めさせ、悔い改めへと導くためであるのです。被害者であるという当事者からの忠告は受け入れなくても、第三者である一人、二人からの忠告であれば、その人は自分の罪を認め、悔い改めるかも知れないのです。
しかし、それでも聞き入れない場合はどうすればよいのでしょうか。イエス様は、「教会に申し出なさい」と言われます。私たちの改革派教会で言えば、「長老たちの会議である小会に申し出なさい」ということであります。そして、教会の代表者である小会が二人の話を聞いて、訴えている人の言うとおり、その兄弟姉妹が罪を犯していると判断するならば、罪を認めて悔い改めるように忠告するのです。その教会の忠告を受け入れるならば、兄弟姉妹を得たことになるわけです。しかし、もし教会の言うことも受け入れれなければ、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とイエス様は言われるのです。異邦人や徴税人は、当時のユダヤの社会において、神の民イスラエルの外にいる人たちと考えられておりました。それゆえ、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なす」とは、教会の交わりの外にいる人と見なすことであるのです。このような手続きを経て、その人は、教会の交わり、主にある兄弟姉妹の交わりから閉め出されてしまうことになるのです。このことは、大変なことであります。なぜなら、天上の神の国の地上的現れである教会から閉め出されてしまうことは、天上の神の国からも閉め出されてしまうことを意味しているからです。地上の教会の交わりから閉め出されてしまうことは、天上の教会である天の国からも閉め出されてしまうことであるのです。18節のイエス様の言葉、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは天上でも解かれる」という御言葉はそのことを教えているのです。「つなぐ」とは「禁じること」、「解く」とは「許すこと」を意味しておりますが、地上の教会は天上の神の国に入ることを禁じたり、許したりする教会訓練の鍵を、イエス様から授けられているのです。
続けて、イエス様は19節、20節でこう言われます。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
このイエス様の御言葉は、教会訓練というよりも、祈りについての教えであります。私たちは、この御言葉を教会訓練の教えと切り離して読むことが多いのではないでしょうか?例えば、祈祷会の最初に、この御言葉を読んで慰めを得るということがあります。水曜日の祈祷会は、文字通り、二人で祈っておりますので、慰められるわけです。しかし、今朝の御言葉の文脈の中で読む時に、この二人とは、15節の二人のことであります。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とありますが、その「二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」というのです。また、20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」とは、今朝の御言葉でいえば、16節の「ほかに一人か二人を一緒に連れて」、忠告を受け入れるように説得するところのことであります。この19節、20節の御言葉から教えられますことは、二人だけで忠告するときも、また他に一人か二人を連れて行き忠告するときも、目には見えませんけれども、イエス様が共におられるということであります。イエス様は、教会に申し出たとき、はじめて、共にいるお方ではありません。二人だけで忠告しているときも、他に一人か二人を連れて行き忠告するときも、イエス様は共にいてくださるのです。そのことは考えてみれば当たり前のことであります。なぜなら、私たちは主にある兄弟姉妹であるからです。私たちは主イエス・キリストに結ばれて兄弟姉妹とされているのです。ですから、私たちが主にある兄弟姉妹として交わりを持つとき、そこにはいつも主イエス・キリストがおられるのです。もし、主イエス・キリストがおられないならば、私たちの主にある兄弟姉妹の交わりは成り立たないのです。さて、その主にある兄弟姉妹である二人が、心を一つにして求めることとは何でしょうか?それは主にある兄弟姉妹としての交わりを回復することであります。兄弟姉妹に対して犯した罪を心から悔い改めることができるように、また悔い改めた兄弟姉妹を心から赦すことができるのように、そのように、主にある兄弟姉妹としての交わりに生きることができるよう祈るのです。その祈りをイエス・キリストの父なる神はかなえてくださる。なぜなら、これらの小さな者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではないからです。その御心を実現するために、十字架と復活の主であるイエス・キリストが私たちのただ中にいてくださるのです。私たちの交わりは、主イエス・キリストにある兄弟姉妹の交わりであります。それゆえ、私たちは自分の罪を率直に認めることができるし、また自分に罪を犯して悔い改める兄弟姉妹を赦すことができるのです。